12_東の貴公子
もう一頭、同じ三歳馬の中で、静かに頭角を現してきた馬がいた。
**アサカオー。**
最初のレースは、決して派手ではなかった。
新馬戦。
スタートして、馬群の中で脚をためる。
直線で伸びた。
だが——
わずかに届かない。
**二着。**
検量室で騎手が言った。
「惜しかったですね」
調教師がうなずく。
「うん」
記者が聞いた。
「先生、どうでした」
調教師は静かに言った。
「走る馬だ」
次のレース。
今度は、前の方につけた。
コーナーを回るころには、もう手応えが違う。
直線。
騎手が軽く追う。
すっと前へ出る。
**初勝利。**
ゴール板を過ぎると、騎手が振り返った。
後ろとの差が、思ったより開いている。
検量室で言った。
「強いですよ」
調教師が笑う。
「そうか」
次のレースも、同じだった。
スタート。
アサカオーは落ち着いている。
道中、無理をしない。
直線で外へ出す。
すると——
ぐんと伸びた。
あっという間に前へ出る。
そのまま
**二連勝。**
記者席が、少しざわめいた。
「アサカオー」
「強いな」
「まだ余裕がある」
別の記者が言う。
「朝日杯だな」
当時、三歳王者を決める大一番は
**中山の朝日杯三歳ステークス。**
厩舎で記者が聞いた。
「先生」
調教師が振り向く。
「なんだ」
「朝日杯、行きますか」
調教師は言った。
「行く」
記者が、少し間を置いて言う。
「タケシバオーがいます」
調教師は、少し笑った。
「知っている」
「三連勝だそうだな」
記者がうなずく。
「逃げて強い」
調教師は煙草に火をつけた。
「それなら」
煙を吐く。
「面白い」
---
朝日杯三歳ステークスが近づくころ、関東の競馬場は一つの話題でもちきりになった。
**タケシバオー。**
三連勝中。
かつては「小さい馬」と言われた。
しかし今は、**四百八十キロ台。**
先手を取れば、止まらない。
だが——
そのころ、もう一頭の名前が新聞を賑わせていた。
**アサカオー。**
血統が違う。
父は名種牡馬**ヒンドスタン**。
戦後日本競馬を変えた、と言われる大種牡馬である。
それだけではない。
アサカオーの近親には、
英国ダービー馬**ピンザ**の名があった。
いわゆる——
**良血。**
体も立派だった。
肩は厚く、首は長い。
歩き方にも品がある。
パドックに出れば、すぐ分かる。
新聞は書いた。
**「東の貴公子」**
また別の紙面では、
**「ヒンドスタンの後継」**
という見出しも踊った。
一方で——
タケシバオーは、そういう馬ではない。
父は**チャイナロック**。
母父は**ヤシママンナ**。
血統表に華やかさはない。
チャイナロックも後の大種牡馬であったが、このころは重賞馬もまだ二頭。
雌馬の発情をうながすための**当て馬**に使われたことさえあった。
そんな血統である。
まさに——
**雑草。**
最初は誰も期待していなかった馬だった。
しかし三連勝。
しかも、逃げて押し切る圧勝。
競馬場の空気は、次第にこう言い始めていた。
「面白いぞ」
「アサカオーとタケシバオー」
「朝日杯は、この二頭だ」
---
ある朝。
中山の調教場である。
霜がまだ残っている。
三井末太郎が、腕を組んで馬場を見ていた。
タケシバオーがキャンターに入る。
軽い。
脚の回転が速い。
そのとき、向こうから一頭の馬が来た。
大きい。
首を高く上げ、悠然と歩いている。
三井が助手に聞いた。
「……あれは」
助手が言う。
「アサカオーです」
三井は黙って見た。
タケシバオーが近づく。
アサカオーも来る。
二頭は、すれ違った。
そのとき——
タケシバオーが耳を伏せた。
小さいころから変わらない。
喧嘩を売るときの顔である。
助手が笑った。
「またやりますよ」
三井も少し笑った。
「相手が悪いぞ」
アサカオーは、一回り大きい。
筋肉の張りも違う。
いかにも良血馬という姿だった。
だが——
タケシバオーは気にしない。
鼻を鳴らし、首を振る。
向こうの厩舎の男が言った。
「元気な馬だな」
こちらの厩務員が答えた。
「気だけは強い」
タケシバオーが走り出す。
軽い脚でコーナーを回る。
そのあとで、アサカオーも走る。
力強いストライド。
調教場にいた記者が、小声で言った。
「おい」
「見たか」
もう一人がうなずく。
「見た」
少し間を置いて言う。
「朝日杯だな」
そのころからである。
新聞が書き始めた。
**「貴公子アサカオーか」**
**「快足タケシバオーか」**
血統の光をまとった馬。
そして——
どこから来たとも知れない、叩き上げの逃げ馬。
朝日杯三歳ステークスは、
その二頭の対決として、次第に色を帯びていった。
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夕方。
厩舎でタケシバオーが飼葉を食べている。
厩務員が言った。
「先生」
三井が振り向く。
「なんだ」
「相手、すごい血統ですね」
三井は煙草に火をつけた。
「そうだな」
厩務員が笑う。
「こっちは雑草ですよ」
三井は煙を吐いた。
そして言った。
「雑草でもな」
少し間を置く。
「走るときは走る」
馬房の中で、タケシバオーが鼻を鳴らした。
まるで——
それに答えるようであった。




