11_大一番へ……
函館で初勝利を挙げると、厩舎の空気が少し変わった。
それまでは——
「小さい馬」
「気だけ強い」
そんな言い方をされていたが、三戦して
**二着、二着、一着。**
しかも相手は、いずれもオープン級である。
厩舎の男が言った。
「先生」
三井末太郎が振り向く。
「なんだ」
「次、どこ使います」
三井は函館の番組表を見ていた。
「もう一つ、行こう」
助手が言う。
「まだ余裕ありますね」
三井はうなずいた。
「小さいが、へこたれん」
ところが——
調教の途中である。
タケシバオーが、少し脚をかばった。
厩務員が気づいた。
「先生」
三井が来る。
「どうした」
「膝です」
触ってみると、熱がある。
三井は顔をしかめた。
「……やったか」
厩舎というところは、こういうことがある。
少し無理をすれば、すぐ脚に出る。
ましてタケシバオーは、まだ体が出来上がったわけではない。
三井が言った。
「休ませよう」
助手がうなずく。
「ええ」
厩務員が言う。
「せっかく調子いいのに」
三井は首を振った。
「馬は逃げん」
「脚を壊したら終わりだ」
こうしてタケシバオーは、しばらく休養することになった。
夏の北海道の空は、ゆっくりと移り変わる。
函館から、札幌へ。
膝の具合も落ち着き、再び出走することになった。
札幌開催である。
距離は**ダート千二百メートル。**
パドックで馬を見た記者が言った。
「小さいな」
別の記者が言う。
「だが走るぞ」
スタートが切られた。
タケシバオーは、いつものように前へ出た。
しかし、今日は少し違う。
脚取りが、わずかに重い。
直線。
前の二頭を追う。
だが差は詰まらない。
ゴール。
**三着。**
検量室に戻った騎手が言った。
「先生」
三井が聞く。
「どうだ」
騎手は言った。
「ちょっと重いですね」
三井はうなずいた。
「休み明けだ」
「無理はさせん」
厩舎の男が言った。
「でも先生」
三井が見る。
「なんだ」
男が笑った。
「初めて負けましたね」
三井は少し考えた。
それから言った。
「いや」
「負けたわけじゃない」
男が首をかしげる。
「え?」
三井は言った。
「三着だ」
「ちゃんと走っとる」
実際、このレースは——
**タケシバオーが日本国内で、唯一二着以内を外した競走になる。**
もっとも、そのときはまだ、
誰もそんなことは知らなかった。
ただ一頭の、小さな馬が、
少しだけ調子を落として走った——
それだけのことであった。
札幌のあと、タケシバオーは再び本州へ戻った。
札幌で三着に敗れたあと、三井末太郎は無理をさせなかった。
「まだ若い」
厩舎の男たちにそう言った。
「急がんでもいい」
だが——
秋になるころには、また様子が変わってきた。
膝の具合も落ち着き、馬はすっかり元気を取り戻していた。
秋が近づくころである。
福島開催。
調教を見ていた厩務員が言った。
「先生」
三井末太郎が振り向く。
「なんだ」
「あの馬」
「うん」
「また大きくなりましたよ」
三井は馬体を見た。
確かに違う。
入厩したころは、四百キロそこそこ。
頼りない体つきだった。
それが今は——
**四百八十キロ台。**
肩が厚くなり、胸も広がり、腹も締まった。
もう「小さい馬」とは言えない。
三井が言った。
「食うからな」
厩務員が笑う。
「食いますね」
福島でのレース。
スタートが切られる。
タケシバオーは、相変わらず前へ行く。
脚の回転が速い。
直線。
先頭へ出る。
そのまま——
**勝った。**
検量室に戻ると、新聞記者が言った。
「先生」
三井が振り向く。
「何だ」
「強いですね」
三井は短く答えた。
「そうか」
だが、その顔には少し笑みがあった。
そして次のレース。
また勝った。
**二連勝。**
競馬場の空気が、少し変わってきた。
記者席で誰かが言った。
「おい」
「タケシバオー」
「また勝ったぞ」
別の記者が言う。
「最初は小さい馬だったろ」
「今は立派だ」
三井の厩舎にも、記者がよく顔を出すようになった。
「先生」
三井が煙草に火をつける。
「なんだ」
「次はどこです」
三井は言った。
「中山」
「オープンだ」
その中山のレース。
スタート。
タケシバオーは、また先頭へ行く。
小さいころから変わらない。
行くと決めたら行く。
直線。
後ろから馬が来る。
しかし——
脚色が違う。
そのままゴール板を駆け抜けた。
**三連勝。**
観客席が、どよめいた。
パドックで誰かが言う。
「強いぞ」
「これ」
「三歳じゃないか」
検量室では、記者たちが騒いでいた。
「朝日杯だ」
「行くだろ」
「三井先生」
三井は煙草をくわえたまま言った。
「行く」
それが——
**朝日杯三歳ステークス。**
関東の三歳王者を決めるレースである。
厩舎へ戻ると、厩務員が言った。
「先生」
三井が振り向く。
「なんだ」
「ここまで来ましたね」
三井は少し考えた。
そして言った。
「そうだな」
馬房の中で、タケシバオーが飼葉を食べている。
食欲は、昔から変わらない。
厩務員が笑う。
「最初は」
三井が言う。
「うん」
「あんな小さい馬だったのに」
三井も笑った。
「そうだったな」
あのころ——
厩舎中が言っていた。
「これは走らん」
しかし今は違う。
競馬場でも、新聞でも、名前が出る。
**タケシバオー。**
朝日杯の話題になると、必ずその名が挙がる。
記者席で誰かが言った。
「面白いぞ」
「逃げるからな」
「止まらない」
また別の声。
「今年の関東は、タケシバオーかもしれん」
冬の空気が、中山競馬場に流れ始めていた。
三井は、夕方の厩舎で馬を見ていた。
タケシバオーは、相変わらず元気である。
三井がぽつりと言った。
「いよいよだな」
厩務員が言う。
「朝日杯ですね」
三井はうなずいた。
関東三歳王者決定戦。
**朝日杯三歳ステークス。**
その大一番へ向けて、
競馬場の空気は、ゆっくりと熱を帯びていった。




