10_初勝利
厩舎というところは、不思議な場所である。
走りそうに見える馬が走らず、誰も期待していない馬が、ある日急に変わる。
タケシバオーも、その類であった。
入厩したころは、誰が見ても頼りなかった。
小さく、細く、胸前も薄い。
厩舎の男たちは口をそろえて言った。
「これは走らんだろう」
ところが——
しばらくすると、様子が変わってきた。
餌が良かったのか。
それとも、ちょうど成長期に入ったのか。
体が、ぐんぐん変わっていく。
骨ばって見えた肩が厚くなり、腹まわりが締まり、胸前にも肉がついてきた。
馬体重も、いつの間にか四百六十キロ台に乗った。
厩務員が言った。
「先生」
三井が振り向く。
「なんだ」
「例の小さいの」
「うん」
「ちょっと変わってきましたよ」
三井は馬房を覗いた。
タケシバオーが飼葉桶に顔を突っ込んでいる。
食欲だけは、相変わらず大したものであった。
三井は言った。
「太っただけじゃないのか」
「いや」
厩務員が首を振る。
「動きが違います」
数日後——
三井は調教場で、その意味を知ることになる。
タケシバオーが軽くキャンターに入る。
すると、脚の回転が妙に速い。
地面を掴むように走る。
三井がぽつりと言った。
「……あれ」
隣にいた助手が言う。
「速いですね」
三井は黙って見ていた。
タケシバオーは小さな体で、軽々とコーナーを回る。
まるで弾むように走る。
三井が言った。
「もう一周」
助手がうなずく。
もう一度走らせる。
やはり速い。
三井は腕を組んだ。
「……これは」
厩舎の男たちが顔を見合わせる。
「先生」
助手が言った。
「もしかして」
三井は答えない。
しばらく考えてから言った。
「一度、レースに出してみるか」
助手が驚いた。
「もうですか」
「うん」
「まだ三歳ですよ」
(※当時の表記。現在の二歳)
三井はうなずいた。
「早い」
助手が言う。
「早いですね」
三井は番組表を広げた。
そして、眉をひそめた。
「……ないな」
助手が覗き込む。
「何がです」
三井が言う。
「新馬戦だ」
当時の競馬は、いまほど番組が整っていない。
新馬戦というものも、そう頻繁にあるわけではなかった。
三井は指で紙を叩いた。
「ここしかない」
助手が言った。
「先生」
「うん」
「それ……」
少し笑った。
「オープンですよ」
三井は黙った。
確かにそうである。
未出走馬が、いきなりオープン競走に出る。
今なら少し無茶であろう。
助手が言った。
「いや、さすがに」
三井はしばらく考えた。
それから言った。
「まあいい」
助手が聞く。
「いいんですか」
三井は言った。
「どうせ試しだ」
少し笑う。
「強いのと走れば、能力も分かる」
助手が苦笑した。
「負けたら」
三井は肩をすくめた。
「そのときだ」
遠くでタケシバオーが、また元気よく走っている。
小さな体だが、動きだけは妙にいい。
三井はそれを見ながら言った。
「……案外」
少し間を置いた。
「面白いかもしれん」
ーーー
昭和四十二年六月。
新潟開催が始まったころである。
梅雨の雲が、信濃川の上をゆっくり流れていた。
まだ観客も多くはない。
その日の出馬表の片隅に、一頭の小さな馬の名があった。
**タケシバオー。**
未出走馬である。
しかも出走するのは——
新馬戦ではない。
**オープン競走。**
厩舎の男たちも、最初は首をひねった。
「先生、本当に出すんですか」
三井末太郎は言った。
「出す」
助手が苦笑する。
「相手、あたり前ですけど強いですよ」
三井は肩をすくめた。
「どうせ試しだ」
「強いのとやれば、すぐ分かる」
鞍上には、若い騎手が乗った。
**畠山重則**である。
パドックに出てきたタケシバオーを見て、観客が言った。
「小さいな」
「これが三歳か」
「これが混じって走るのか」
確かに小さい。
しかし、歩き方だけは妙に威勢がよかった。
レースが始まった。
スタートが切られる。
タケシバオーは、するりと前へ出た。
脚の回転が速い。
小さな体が、先行集団の中にすっと入る。
直線。
前の馬を追う。
ぐんぐん差を詰める。
場内が、少しざわめいた。
「おい」
「来てるぞ」
しかし、最後のところで一頭にかわされた。
**二着。**
ゴール板を過ぎたあと、スタンドがどよめいた。
未出走馬が、いきなりオープンで二着。
珍しい。
検量室に戻った畠山が言った。
「先生」
三井が聞く。
「どうだ」
畠山は少し驚いた顔をしていた。
「走りますよ」
三井は黙っていた。
少しして言った。
「そうか」
その次の週である。
またタケシバオーの名前が、出馬表に載った。
助手が言った。
「先生」
三井が振り向く。
「またオープンですよ」
三井は言った。
「そうだ」
助手が笑った。
「普通は新馬戦探しますよ」
三井は言う。
「もう走った」
「なら同じだ」
こうして二戦目も、またオープンに出た。
スタート。
タケシバオーは、また前へ行く。
小さな体で、軽快に走る。
直線。
先頭を追う。
しかし、またしても——
**二着。**
今度は、はっきりと観客がざわめいた。
「また二着だ」
「未出走上がりだろ」
「これ、強いんじゃないか」
競馬場というところは、噂が広がるのが早い。
厩舎へ戻ると、記者が聞いた。
「先生」
三井が振り向く。
「何だ」
「次は新馬戦ですか」
三井は言った。
「いや」
「函館へ行く」
夏競馬である。
函館開催。
そのころには、厩舎の中でも話題になっていた。
「あの小さいの」
「走るらしいぞ」
函館で、鞍上が替わった。
**中野渡清一。**
スタートが切られる。
タケシバオーは、今度は思い切って先頭に立った。
小さな体で、逃げる。
軽い。
直線に入っても脚色は衰えない。
後ろから馬が来る。
しかし——
差は縮まらない。
そのままゴール板を駆け抜けた。
**初勝利。**
逃げ切りである。
検量室に戻った中野渡が言った。
「先生」
三井が顔を上げる。
「なんだ」
中野渡は笑った。
「面白い馬ですね」
三井は静かにうなずいた。
あの小さな馬体で、オープン二着二回。
そして、三戦目で勝った。
厩舎の男が言った。
「先生」
三井が振り向く。
「なんだ」
男が言う。
「最初、走らんって言ってましたよね」
三井は少し笑った。
「言った」
「だがな」
遠くの函館の芝を思い浮かべるように言った。
「馬というのは」
少し間を置いた。
「分からんものだ」
多分、稀に見る俺ツエエエ系のなろう主人公適正があるタケシバオー




