9_入厩
入厩する厩舎も決まり、三井末太郎調教師が牧場へ馬を見に来た。
春まだ浅いころである。
放牧地の柵の前で、三井は腕を組み、しばらく黙っていた。
例の牡駒——タケシバオーが、草の中をちょこまか歩いている。
三井がぽつりと言った。
「……これですか」
榊場長がうなずく。
「ええ」
三井はしばらく見ていたが、やがて振り返った。
「場長」
「はい」
三井は真顔で言った。
「これでも馬ですか」
榊は一瞬、黙った。
それから苦笑した。
「そう言われますね」
三井はもう一度、放牧地を見る。
小さい。
細い。
胸前も薄い。
いかにも頼りない。
三井が言った。
「当歳のころから、こんなですか」
「ええ」
榊は答えた。
「小さいままです」
三井はため息をついた。
「中央で走らせるには、ちょっとなあ……」
そのとき、タケシバオーが隣の仔馬に突っかかった。
体の大きな相手に、耳を伏せて向かっていく。
三井が眉を上げた。
「……気だけは強い」
榊が言った。
「でしょう」
三井はしばらく見て、頭をかいた。
「困ったな」
その日の夕方、牧場の事務所で、小畑正雄と三井が向かい合っていた。
机の上に血統書がある。
三井が言った。
「社長」
小畑が煙草に火をつける。
「うん」
三井は苦笑した。
「正直に言いますよ」
「言ってくれ」
「小さい」
「だろうな」
「細い」
「それも見りゃわかる」
三井は笑った。
「走るかどうかは、正直わからん」
小畑は煙を吐いた。
「まあ、そうだろう」
三井は続けた。
「ただな」
「体を作らないと、調教にもならん」
榊が言った。
「餌を増やしますか」
三井は首を振った。
「普通の飼葉じゃ足りない」
机を指で叩く。
「イギリスやアメリカには、いい飼料がある」
小畑が眉を上げた。
「輸入?」
「ええ」
「栄養剤もある」
小畑は思わず笑った。
「栄養剤?」
「そうです」
「体を作る」
小畑は煙草をくわえたまま言った。
「三井先生」
「はい」
「そんな金、ないよ」
榊が思わず笑った。
三井も苦笑する。
「いや、社長」
「このままじゃ調教にならん」
小畑は肩をすくめた。
「新聞屋の道楽だぞ」
「二百万で買った馬だ」
「それに外国の餌か」
三井は黙った。
そのとき榊が言った。
「社長」
小畑が顔を向ける。
「うん?」
榊は窓の外を見た。
草地で、タケシバオーがまた誰かに喧嘩を売っている。
小さな体で、妙に威勢がいい。
榊が言った。
「私はね」
「はい」
「光るものがあると思うんです」
小畑は煙を吐いた。
「場長は、いつもそれだ」
榊は続けた。
「体は小さい」
「ええ」
「だが、あの気性」
「……」
「競馬は、気で走るところがあります」
三井が静かに言った。
「それは、ある」
榊は振り返った。
「一度だけでも、ちゃんと作ってやりましょう」
「それでダメなら——」
少し笑った。
「諦めもつく」
小畑はしばらく黙っていた。
窓の外では、タケシバオーがまた大きな仔馬に突っ込んでいた。
小畑が言った。
「……仕方ない」
三井が顔を上げる。
「社長」
「やろう」
煙草を灰皿に押しつけた。
「どうせ道楽だ」
「餌ぐらい豪華にしてやる」
三井が笑った。
榊も笑った。
こうしてタケシバオーは、イギリスやアメリカから取り寄せた飼料と栄養剤を与えられながら、三井厩舎で調教されることになった。
もっとも——
当の本人はといえば、やっぱり牧場の草地で体の大きな仔馬に喧嘩ばかり売っていた。
ーーー
厩舎に入ったからといって、馬が急に立派になるわけではない。
牧場で小さかったものは、厩舎に来てもやはり小さい。
春の終わりごろ、タケシバオーは三井末太郎の厩舎へ運び込まれた。
まだ朝の早い時間である。
馬房の並ぶ厩舎には、干し草の匂いと、湿った土の匂いが混じっていた。
厩務員たちが、珍しそうに入口のほうを見る。
トラックの扉が開き、馬が降ろされる。
その姿を見て、ひとりが言った。
「……これか」
もう一人が首を伸ばした。
「社長の馬ってのは」
そして、しばらく沈黙があった。
やがて、誰かが言った。
「小さいな」
別の男が言う。
「細い」
三人目が言った。
「……軽そうだ」
タケシバオーは、きょろきょろと辺りを見回している。
体は小さく、胸前も薄い。
いかにも頼りない。
厩務員の一人が、ぽつりと言った。
「これでも競走馬か」
隣の男が笑った。
「場長も、よくこんなの送り込んできたな」
そこへ三井調教師がやって来た。
「来たか」
厩務員が言う。
「先生、これです」
三井はしばらく黙って馬を見た。
首をかしげる。
もう一度見る。
それから言った。
「……小さいな」
厩舎の男たちが笑った。
「でしょう」
「四百キロだそうですよ」
三井は眉を上げた。
「四百?」
思わず聞き返す。
「三歳(現二歳)で?」
「ええ」
三井は腕を組んだ。
タケシバオーはというと、じっとしているのが退屈らしい。
いきなり首を振り、隣の馬房を覗き込んだ。
中の古馬が耳を伏せる。
タケシバオーは、鼻を鳴らした。
厩務員が笑う。
「気だけは強い」
三井も苦笑した。
「それは牧場でも聞いた」
しばらく見ていたが、やがて言った。
「まあいい」
厩務員が聞く。
「先生、どうします」
三井は肩をすくめた。
「どうもせん」
「とりあえず飼う」
厩舎に笑いが起きた。
「先生」
一人が言う。
「走りますかね」
三井は少し考えた。
それから言った。
「さあな」
少し間を置く。
「だが」
タケシバオーがまた隣の馬に耳を伏せている。
小さい体で、妙に威勢がいい。
三井が言った。
「こういうのは、たまに化ける」
厩務員が笑う。
「先生、それ何頭目です」
三井も笑った。
「まだ一頭もおらん」
厩舎の朝の空気は、笑い声で少し柔らいだ。
そのころ——
タケシバオー本人はというと、
新しい厩舎に来たばかりだというのに、隣の馬に喧嘩を売ることしか考えていなかった。
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