自然19
視界が、歪んでいた。
エメラルドと白金の光を放つあの美しき大結界が、自動ドアのように静かに、しかし巨大な絶望を孕んで開いていく。
「……あり得ない」
私は喉の奥で、掠れた声を漏らした。
ソラは呑気に光るジャムを口に放り込み、咀嚼しながら私を見た。「どうした? あの軍列の中に、知り合いでもいたのか?」
私は首を振ることしかできなかった。脳内では、傷だらけのベニーとアルヴィナの姿がリフレインしている。
「お兄ちゃん、ベニーお兄ちゃんたちはどこ? ……嘘ついたの?」
服の裾を引くルラの瞳が、不安に揺れている。
「カエリン、あれは本当にあんたの友達なのね?」
ルンが立ち上がり、険しい表情で問いかける。
「……何かがおかしい」
私は拳を強く握りしめた。胸を刺すような違和感。先ほど見た光景があまりに鮮烈すぎて、逆に現実味を欠いている。
「ソラ、準備を」
「ああ、言われなくても分かってるさ」
ソラが身体の節々を鳴らし、戦闘態勢に入る。
私たちは、大きく開かれたドームの内部へと足を踏み入れた。
緑と白の光が脈動し、まるで巨大な生物の肺の中にいるような錯覚に陥る。
――しかし。境界線を一歩超えた瞬間、世界が変貌した。
「っ……な、んだ……これ……」
暖かいはずの風が、一瞬にして乾いた死の冷気へと変わる。森の芳香は消え失せ、代わりに鼻を突くのは古い錆と煤の臭い。
「……ここは、王国じゃない」
ソラの声が低く、重く響いた。
周囲を見渡せば、先ほどまで見えていた白亜の塔も、豊かな緑も、虹の滝も存在しなかった。
そこに広がるのは、ひび割れた黒い石の床と、空を覆い尽くす灰色の霧。逃げ場のない高い壁が私たちを囲い込み、頭上のドームは今や「加護」ではなく、獲物を閉じ込める「檻」と化していた。
「カエリン……これ、防壁なんかじゃないわ」
ルンがルラを背後に隠し、震える声で告げる。
「……これは、『罠』よ」
背後で、開かれていた光の門が無機質な音を立てて閉ざされた。逃げ道は、もうどこにもない。
「嫌だ……。お兄ちゃん、ここ、変だよ……」
ルラの小さな手が私の服を掴む。私はその手を握り返したが、自分の手が冷たく震えていることに気づいた。
「騎士団も、女王も……さっき見た連中の気配が一切しねえ。最初からいなかったんだ」
ソラが武器を構え、周囲を警戒する。
「……つまり、僕たちが見たのは」
「ただの『餌』だ」
頭の中に直接響くような、重く、悍おぞましい声が遮った。
霧の向こうから、黒い影が滲み出るように現れた。
岩を焼いたような灰色の肌、背中には崩れた翼の残骸。その瞳は、深淵の奥で燻る熾火のように赤く光っている。
「誰だ、貴様は」ソラが鋭く問う。
怪物は、冷酷な笑みを浮かべた。
「我が名は、ルド。偉大なるルグレス様に仕えし七将の一人」
「七将……。タムズと同じ、幹部クラスというわけね」
ルンの顔が青ざめる。
「左様。特にカエリン……貴様は予定外の収穫だった」
ルドが冷徹に歩み寄る。一歩ごとに、大気が物理的な重圧となって押し寄せてきた。
「ネイチャー・リング(自然の指輪)を回収するついでに、これほど美味な獲物が手に入るとはな」
「ベニーとアルヴィナは……どこだッ!!」
私の叫びに、ルドは楽しそうに肩を揺らした。
「あの二人か? 案ずるな、まだ生かしてある。……私の『寄生虫』を植え付けられ、病に侵されながらも、忠実に『餌』の役割を果たしてくれたよ」
「……っ、貴様……ッ!!」
怒りで視界が赤く染まる。だが、身体が思うように動かない。先ほどの戦闘の疲労が、呪いのように足元を重くさせていた。
「カエリン、無理をするな! お前の体はもう――」
「……大丈夫だ、ルン。僕は、もっと恐ろしいものを見てきた」
私は、頭部の刻印が再び疼き始めるのを感じた。
ルドが手を掲げると、虚空に歪んだ黒い円環が浮かび上がる。
「安心しろ。すぐに殺しはせん」
ルドの眼差しが、私の額に宿る刻印を射抜いた。
「私は確かめに来たのだ。貴様の中に眠る『何か』が、時が来る前に暴走せぬよう、躾をな」
「カエリン、頭の紋章が……っ!」
ルンの悲鳴が聞こえる。刻印が、黒い毒のような光を放ち、私の脳を内側から掻き回す。
「……ぁ、がっ……あああああッ!!」
ルドの哄笑が、檻の中に響き渡った。
「ようこそ、自然系氏族の『偽りの聖域』へ。ここが、貴様らの希望が絶望へと変わる屠殺場だ」
私は膝をつきながらも、ルドを睨みつけた。
罠、寄生された友、そして内なる狂気。
絶望の多重奏が、今、幕を開けようとしていた。
読者の皆様、申し訳ありませんが、本日は2章しか更新できません。作者が多忙で、期末試験の準備もしているからです。ありがとうございます。




