自然18
「――あれが、防壁か」
王国の周囲を覆う、巨大な半透明のドームを見上げて私は呟いた。それは淡い緑と白の燐光を放ち、精霊の加護を体現しているかのように静かに呼吸していた。
「さて、どうやって入るかねぇ。俺たちゃあ、身分を証明できるようなもんも持ってないぜ?」
ソラが呑気に指笛を鳴らす。
「それなら心配ないわ」ルンがバリアの表面を指先でなぞりながら答えた。「あそこに検問所がある。シルクからもらったあの紋章があれば、煩わしい審査なしで通れるはずよ」
「……なるほど。なら、話は早いな」
私は安堵したが、隣で服の裾を引く感触に気づいた。
「お兄ちゃん、ルラお腹空いちゃった……ずっと我慢してたんだもん」
ルラが頬を膨らませて訴えかける。私は苦笑しながら彼女を抱き上げた。「もう少しの辛抱だ。王国の敷地に入ったら、とびきりの飯を食べよう」
「それなら、今ここで済ませちゃいましょう」
ルンが近くの無人の詰め所を指差した。「幸い、今は誰もいないみたい。あそこで食事をしながら、誰かが来るのを待ちましょう」
「賛成だ。俺も腹と背中がくっつきそうだったんだ」
ソラはそう言うなり、柔らかな草原に身を投げ出した。吹き抜ける風が彼の白い髪を優しく揺らす。
ルンはシルクから譲り受けた、植物の繊維で編まれたバッグを下ろした。「私が用意するわ。……なぜか、今はあまりお腹を膨らませすぎない方がいい気がするの。少しずつ食べましょう」
ルラが手伝いたいと駆け寄り、私は自分のバッグを枕代わりにして寝転んだ。
見上げる空には、この世界特有の形をした綿菓子のような雲が浮かんでいる。元の世界とは決定的に違う、残酷なまでに美しい空。
「ソラ」
私は隣の男に声をかけた。彼は鼻を鳴らして応える。
「……気を悪くしたら済まない。お前は森の守護者だったんだろ? こうしてのんびり空を見上げるような時間は、以前の平和な頃にもあったのか?」
ソラは短く笑った。
「退屈な質問だな、カエリン」彼は手近な葉っぱを指先で弄ぶ。「相棒がいた頃は、毎日がこんな感じだったさ。森は静かじゃなかった。いつも二人で笑って、二人で戦って……。今よりはずっとマシな日々だったよ」
彼はその葉を、風の行く末に任せるように手放した。
「……僕たちといるのは、面白くないか?」
「ハッ、お前と喋るのは骨が折れるぜ。面白いかどうかってのは、旅の終わりに決めるもんだ。……まあ、今のところは十点満点中、六か七点ってところだな」
ソラは欠伸をした。私は小さく笑い、目をつむった。
やがて、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
目を開けると、ルンが乾いたパン、香ばしく焼かれた小さなキノコ、そして燻製肉を木の葉の皿に手際よく並べていた。
「ルンお姉ちゃん、ソースはこっちだよ!」ルラが薬師の弟子のような顔つきで瓶を掲げる。
「あんたたち、本当に仲がいいわね」
ソラが皮肉っぽく呟いた。「まるで本物の家族だ」
「だから、僕とルンは仲間で、ルラは妹だって言ってるだろ……」
私が言い返すと、ソラはニヤリと笑った。「分かってるさ。だがな、理屈じゃねえんだよ。お前ら二人の間には、何か特別な『絆』が見える。それだけだ」
「特別な、絆……?」
私は無意識にルンの横顔を見つめた。彼女がルラと笑い合う姿を見て、胸の奥がチリりと熱くなる。その正体を、今の私はまだ言葉にできなかった。
私たちは、沈黙の中でゆっくりと食事を摂った。
バリアは遠くで静かに輝き、詰め所は主を待つように佇んでいる。
「この旅が終わったら……あんたはどうするの、カエリン?」
ルンが不意に、真剣な眼差しで問いかけてきた。
「……分からないな。元の世界に帰りたいという気持ちはある。でも、この冒険はまだ続くような予感もしているんだ」
「ルラも行く! お兄ちゃんと一緒に行くもん!」
ルラの無邪気な宣言に、私は彼女の頬を優しく抓った。「ああ、もちろんだよ」
しかし、その穏やかな時間は、大地の微かな震動によって打ち砕かれた。
「――っ! 来るぞ」
ソラがいち早く立ち上がる。私もパンを置き、王道の方角を凝視した。
白い石畳の向こうから、巨大な一団が現れた。
それは、行商人でも平民でもなかった。
王国の正規騎士団。
だが、その鎧は無残に削れ、あちこちに乾いた黒い血痕がこびりついている。槍は折れ、剣を杖代わりに歩く者もいる。彼らが纏っているのは勝利の凱旋ではなく、死線を潜り抜けた者特有の重苦しい疲労だった。
列の中央には、一人の女性が凛として歩んでいた。
王冠は歪み、マントはボロボロに引き裂かれている。だが、その瞳だけは誇りを失わず、鋭く前を見据えている。この国の女王――。
「……戦いから戻ってきたのね」ルンが息を呑んだ。
バリアが共鳴し、軍勢を迎え入れるために門がゆっくりと開かれる。
その疲れ果てた兵士たちの顔を、私は縋るように一人ずつ確認していった。
そして、鼓動が止まった。
その列の隅に。
黒髪を乱し、肩に荒い包帯を巻いた少年が、仲間の肩を借りて引き摺るように歩いていた。
見間違えるはずがない。私の親友。
「――ベニー?」
そして、その隣には。
弓の弦が切れ、力なく立ち尽くす少女。全身に傷を負い、精根尽き果てた様子の彼女。
「アルヴィナ……なのか?」
世界が急激に狭まっていく感覚。耳鳴りが激しくなり、呼吸を忘れる。
「えっ、ベニーお兄ちゃんとアルヴィナお姉ちゃん!? どこどこ!?」
無邪気に喜ぶルラの声も、今の私には届かなかった。
なぜ、彼らが王国の軍勢の中にいる?
なぜ、あれほどまでに傷ついているんだ?
再会の喜びを、背筋を凍らせるような不安が塗りつぶしていく。
私は震える足で、一歩、前へ踏み出した。




