自然17
私は泥を噛むような思いで、重い足取りを引きずっていた。
つい先刻の出来事が、網膜に焼き付いて離れない。……死の淵からの生還。そして、自我を飲み込んだあの狂気。
力を解放することへの根源的な「恐怖」が、私の心根に深く、暗い根を張り始めていた。
「いつまでそうやって、湿気たツラをしてるつもりだ?」
前を行くソラが、振り返らずに声を投げかけてきた。
「あまり考えすぎるな。確かにあの力は異様だった。だが、今はそれを一度忘れろ。俺たちには、果たすべき目的があるんだからな」
ソラの歩みが止まる。
「見てな。少しは『自然系氏族』の美しさに圧倒されてみろ。少しは気分も晴れるはずだぜ」
彼は不敵に、しかしどこか優しく微笑んだ。
私は顔を上げた。
ソラの言う通りだ。この世界はあまりに美しい。だが、だからこそ私は己の力が恐ろしかった。もし、あの狂気が再び暴走し、この美しい世界さえも蹂躙してしまったら――。
「……ああ、今だけは。そうさせてもらうよ」
私は、自分を納得させるように深く溜息をついた。
「そうよ! 今回だけなんだからね!!」
――ギュッ!!
突如として、私の耳に激痛が走った。
「い、痛たたたたっ!?」
悲鳴を上げる私を尻目に、そこには仁王立ちするルンと、ひょっこりと顔を出すルラの姿があった。
あの強固なバブルからこれほど早く脱出し、あまつさえ同じルートを引き返してくるとは、一体誰が予想できただろうか。
「何よその顔! 遠回りなんて真っ平ごめんなのよ。……いい? 次にあんな勝手な真似をしたら、次は耳だけじゃ済まさないからね」
ルンは鼻を鳴らして指を離した。私は熱を持った耳をさすりながら、困惑を隠せない。
「……無事で良かったよ。でも、本当に無茶するな」
「それはこっちのセリフよ!」
ルンの怒声が響く一方で、ルラは好奇心に満ちた瞳で辺りを見渡していた。谷底での惨劇など、まるでお伽話のワンシーンだったかのように、彼女の瞳は澄み渡っている。
「さてと」ソラが私の肩を軽く叩いた。「立ち話はここまでだ。王宮はもう、目と鼻の先だぜ」
再び歩みを進める。
獣道だったはずの道は次第に広がり、手入れの行き届いた柔らかな緑の芝生へと変わっていった。風に揺れる草花が囁き合い、天を突く巨木たちは深い碧色の葉を茂らせている。枝の先には、昼間だというのに星屑を閉じ込めたような光の粒が、宝石のように煌めいていた。
大きく、空気を吸い込む。
清涼な大気の香りが肺を満たし、遠くから聞こえる水音と精霊の囀りが、私の荒んだ思考を穏やかに撫でていく。
「……綺麗だ」
「だろ?」ソラが誇らしげに胸を張った。「このクランの美しさに関して、俺の審美眼に狂いはない」
私たちは、波打つ緑の海のような大草原に足を踏み入れた。白や紫の小花が咲き乱れ、私たちの足が地を蹴るたびに、その花弁が淡い燐光を放って足跡を彩る。
「お兄ちゃん! お花が光ってるよ!」
ルラが歓喜の声を上げ、草原を駆け回る。
「ルラ、あんまり強く踏んじゃダメだぞ。……痛いって言われちゃうから」
「あいたっ!」
私が注意した矢先、ルラが小さな根っこに躓いて転んだ。だが、彼女は泣くどころか楽しそうに笑い声を上げる。
「もう、走り回るんじゃないわよ。怪我でもしたらどうするの」
ルンが小言を言いながら、ルラの襟首を摘まみ上げた。その口元には、微かな安らぎの笑みが浮かんでいた。
その光景は、戦いの中にいた私に小さな温もりを与えてくれる。
――しかし。
「カエリン」
ルンの声が、不意に冷徹な響きを帯びた。
「……あの谷で、一体何があったの? 私たちを逃がした後、あなたは何をした?」
私の歩みが止まる。
目の前の景色はあまりに平穏で、汚れ一つない。
あの、我を忘れて破壊を愉しんだ「怪物」の物語を語るには、この場所はあまりに眩しすぎた。
「大したことじゃないさ」私は短く、背中で答えた。「ただ、蠍の群れを片付けただけだよ」
ルンは足を止め、私の背中に鋭い視線を突き刺した。
「……それだけ?」
私は振り返り、精一杯の作り笑いを浮かべた。
「ああ、それだけさ」
彼女は鼻を鳴らし、完全には納得していない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。「……信じられないわね。絶対に何か隠してる。まあ、いいわ。今はね」
ソラがチラリと私を見たが、すぐに前方に視線を戻した。彼は何も言わない。沈黙という名の共犯関係が、そこにはあった。
峡谷の出口を抜けると、世界は白亜の輝きに満たされた。
右側には天から降り注ぐ巨大な滝があり、エメラルドグリーンの湖へと流れ落ちている。水面に舞う霧が虹の架け橋を作り出し、その光景は神話の一節のように神々しい。
そして――その先に、私たちは「それ」を目撃した。
大地の根と一体化した、巨大な城壁。
古の巨木の幹をそのまま塔へと変えたかのような、荘厳な建築。至る所に葉の彫刻と古のルーンが刻まれ、空中回廊が星の川を渡るように伸びている。
それは、贅の限りを尽くした富の象徴ではなく、世界の理と調和した「生命の要塞」だった。
「わぁ……大きい……っ!!」
ルラが息を呑み、瞳を輝かせる。
「あれが、自然系氏族最大の都――『精霊の王都』だ」
ソラの声には、確かな敬意と高揚が混じっていた。
私はその巨大な門を見上げ、言葉を失った。
胸の鼓動が、早鐘を打つように速まっていく。
それは未知への恐怖ではない。直感だ。
この美しい都の門を潜った瞬間、私の、そして世界の運命が取り返しのつかないほど大きく動き出す。
物語は、まだ始まったばかり。
だが、その序章の終わりを告げる鐘の音が、私の魂の奥底で鳴り響いていた。




