自然13
「マズいな……ここは戦うにはあまりに狭すぎる」
私は背後で怯え、ルンの影に隠れるルラを見つめて歯噛みした。
「三人とも、先に行ってくれ」
私は手で制した。「――正気!? 自殺志願者でも演じるつもり?」ルンが鋭く反論する。
「……いや、少し試してみたいことがあってね」
私は自分の掌を見つめた。「よく考えたら、世界樹の精霊から授かったあの『刻印』……まだ一度も使っていないんだ」
私は強く拳を握りしめた。
「逃げちまった方が楽なんじゃねえの?」
巨大な蠍がすぐそこまで迫っているというのに、ソラは崖の縁で寝そべりながら、あくび混じりに言った。その顔は驚くほど平然としている。
「言っただろ。これは僕にとっての修行なんだ」
私は退路を断つように言い放った。「僕の今の力じゃ、世界に平和をもたらすことも、仲間と一緒に元の世界へ帰ることもできない。この指輪を嵌めたのが僕の宿命なら、もう逃げるわけにはいかないんだ」
ソラはしばらく目を閉じ、死が目前に迫っていることなど忘れたかのように顎に手を当てた。
「……まあ、お前はそういう奴だよな。だが、一人で行かせはしないぜ。お前が死んで、残された奥さんと子供が悲しむ姿は見たくないからな」
そう言って、ソラはのっそりと立ち上がった。
「……まだルンと僕が夫婦で、ルラが子供だっていう勘違いを続けてるのか? お前の脳内構造はどうなってるんだ……」
私は呆れてこめかみを押さえた。
「ははっ、いいじゃないか。そういう『設定』の方が燃えるだろ?」
ソラは軽薄に肩をすくめた。
その直後だった。
巨大な蠍の尾が猛然としなり、無防備なソラを貫こうと襲いかかる。ルンとルラの悲鳴が響き、私の心臓が跳ね上がった。
だが、ソラはその一撃を「見て」すらいなかった。
彼が左腕のブレスレットを光らせた瞬間、眩い光の刃――レーザーブレードが顕現する。ソラは最小限の動きで跳躍し、蠍の毒針を根元から叩き斬った。
どろりと腐食性の体液が辺りに飛び散る。
「……忘れてもらっちゃ困るな。俺は近接戦闘のスペシャリストだぜ? こんな雑魚、朝飯前だ」
ソラは何事もなかったかのように言い放った。
安堵の溜息を漏らす私たち。だが、ルンの背後に隠れていたルラが震えながら泣き出した。両親を失ったあの惨劇が、飛び散る鮮血によってフラッシュバックしてしまったのだ。
「ルン、早くルラを連れて行ってくれ! ここに居続けたらトラウマが悪化する!」
私は躊躇するルンを促した。崖下からは、さらなる二体の巨大蠍がその姿を現している。
「時間がない……これ以上、増えられても困るからな」
私は精神を研ぎ澄ませ、ルンとルラに向かって手をかざした。
「――いけッ!!」
ぷしゅっ! 突如として発生した巨大な「バブル(魔導泡)」が二人を優しく包み込んだ。泡は浮力を得てふわりと宙に浮き、谷を吹き抜ける風に乗って、恐ろしい絶壁から遠ざかっていく。
「ちょっと! なに勝手なことしてんのよ!?」
ルンが憤慨し、内側からバブルを叩く。だが、私の想像力によって生み出されたそれは、鋼鉄をも凌ぐ硬度を誇っていた。
「悪い! それは僕が解除しない限り割れない特製だ! 二人で先に安全な場所まで行ってくれ! ルラを頼むぞ!」
私は巨大なハサミの猛攻を、通常の三倍の強度にまで高めた鉄壁のシールドで受け止めながら叫んだ。
「――帰ってきたらタダじゃおかないからね、カエリン!!」
ルンの怒声が遠ざかっていく。
「ふぅ……これでようやく、守るべきものを気にせず暴れられるな」
衝撃で数歩後退しながら、私は不敵に笑った。
「遅いぜ、カエリン!」
上空から声が降ってきた。見れば、ソラは既に一体の蠍を屠り、その死骸の上に悠然と立っていた。
「仕方ないだろ。僕は近接武器なんて作ったこともないし、効率的な戦い方もまだ模索中なんだから」
私は再び吹き飛ばされ、呼吸を乱す。くそっ、この蠍ども……。
「……待てよ」
不意に、思考の回路が繋がった。
私は口角を吊り上げ、自分自身の頭を叩いた。
「――なぜ、今の今まで気づかなかったんだ。……『不可能』を形にするのが、僕の力じゃないか」
「独り言か? 恐怖で頭がいかれたのかよ」
ソラが死骸の上で胡坐をかきながら、面白そうにこちらを眺めている。
「来いよ、デカブツ!!」
私はあえて挑発を投げた。巨大蠍が狂暴な唸りを上げ、地響きを立てて突進してくる。
私は左手でシールドの縁を掴み、精神の深淵を覗き込んだ。
変形――。
コンマ数秒で、私の盾は異形の姿へと進化した。
円形の盾の縁には鋭利な鋸歯が並び、背面には超高速で回転する歯車と、それを操る魔導の鎖が連結される。
「……喰らえッ!!」
全力で放たれた「回転鋸盾」が空気を切り裂く。それは単なる投擲武器ではなかった。指輪の力が加わった回転は、この世の物理法則を無視した破壊力を生み出す。
ズバァァァン!!
一閃。巨大蠍の頭部が、豆腐のように容易く断ち切られた。噴水のように溢れ出す血が道を濡らす。
「ようやく理解したよ。最初から『有り得ない武器』を想像すればいいんだ。……それが僕の戦い方だ」
私は込み上げる高揚感に、声を上げて笑った。
次々と崖下から新たな影が這い上がってくる。
ソラが私の隣に飛び降り、不敵な笑みで剣を構えた。
「――準備はいいか、カエリン!」
「ああ、もちろんだ!」
胸の鼓動が激しく高鳴る。
強くなるために。大切なものを守り抜くために。
この絶望的な戦場こそが、今の私には最高の舞台だった。




