自然9
ゆっくりと、意識の底から這い上がった。
漆黒の怪物に叩きの伏せられ、死の淵を彷徨った直後――私は意識を失った。そして今、見知らぬ巨大なログハウスの中で目を覚ます。
「……ここは?」
体を起こそうとした瞬間、全身の神経が千切れるような激痛が走った。あの黒衣の男に、文字通り磨り潰された肉体が悲鳴を上げている。
「むやみに動かないで」
透き通るような女性の声が響いた。「それ以上動けば死ぬわよ。今はあなたの骨を修復している最中。動くたびに亀裂が広がって、最後には内臓を保護する骨組みすらなくなって、たった一撃で絶命することになるわ」
声の主が姿を現した。長く艶やかな黒髪、見慣れぬ意匠のロングドレスを纏った女性だ。その手には水と薬草が載った盆がある。
「貴女は……? それに、ここはどこなんだ」
掠れた声で問いかける。ふと視線を転じると、少し離れたベッドにあの男――ソラが横たわっていた。未だに意識はなく、深い眠りの中にいるようだ。
「死に損なったわね。運が味方したのよ、あなたたちには」
彼女は薬草を机に置きながら、穏やかに言った。「私の名前はシルク。一介の医術師よ。道端で転がっていたあなたたちを、ここまで運ばせていただいたわ」
「仲間と……妹はどこだ?」
包帯でぐるぐる巻きにされた喉から、絞り出すように問う。
「妹さんもお友達も無事よ。あの檻から降ろすのには、少し骨が折れたけれど」
シルクは温かみのある微笑みを浮かべた。その包容力のある佇まいは、誰からも慕われる聖母のような気配を纏っている。
その時、外から慌ただしい足音が聞こえ、木の扉が勢いよく開かれた。
「カエリン!」
懐かしい声。ルンが真っ先に飛び込んできた。肩を揺らし、乱れた髪もそのままに、安堵と不安が入り混じった瞳で私を見つめている。その腕の中では、ルラが彼女の首にしがみついていた。
「お兄ちゃん!」
ルラが飛び降りようとするのを、ルンが制する。
「ダメよ! お兄ちゃんはまだ動いちゃいけないの」
ルンは厳しく言い聞かせた後、私を睨みつけた。その瞳は微かに震えている。「……この、大馬鹿者! どれだけ心配したと思ってるの!? もし、もしものことがあったら……ルラがどうなるか考えなさいよ!」
今にも殴りかからんとする勢いだったが、私の惨状を見て、彼女は拳をそっと下ろした。
「……ああ、すまない。予想外だったんだ、何もかも」
ルラがようやく腕から降り、ベッドの傍らまで歩み寄る。小さな手が、壊れ物を触るかのように、私の包帯の端を握りしめた。
「お兄ちゃん、嘘つき……血がいっぱい出てたもん」
潤んだ瞳が私を射抜く。「もう、起きないかと思った……」
「……へーきだ」私は囁くように笑った。「ほら、ちゃんとここにいるだろ?」
「もう、どこにも行かないで」
その消え入りそうな声に、胸が締め付けられる。「約束だ」
シルクが扉の側で腕を組み、満足げに頷いた。「この家が、いつもより少し騒がしくなったわね。……まあ、快方の兆しとしては悪くないわ」
「ありがとう、シルク。貴女がいなかったら、この男は……」
ルンが感謝を述べようとすると、シルクはそれを優しく遮った。「いいのよ。これが私の役目だから」
沈黙が部屋を支配した。その時――。
「……んっ」
低く、掠れた呻き声。ソラだ。
彼の瞼が震え、ゆっくりと開かれる。焦点の定まらない瞳が、失われた記憶を繋ぎ合わせるように天井を仰いだ。
「……俺は、生きているのか?」
「残念ながら、そのようだな」
私が皮肉を返すと、ソラは苦痛に顔を歪めながらも、小さく笑った。「はは……お互い、無様だな」
彼の視線がルンとルラに留まる。その瞳から攻撃的な色は消え、どこか複雑な、硬い感情が混じっていた。
「……あいつらは、無事か」
「ああ。シルクのおかげでな」
「……デクスター……俺の相棒は……死んだ」
ソラの瞳に涙が滲む。復讐も矜持も、あの黒衣の男の前では無価値だったのだ。
「……悔やみきれん。何も知らぬ仲だが、心中お察しする」
森での死闘は、終わりではなかった。それは、より巨大な災厄の幕開けに過ぎないことを、私は予感していた。
「ところで、一つ聞いてもいいかしら? なぜあなたたちはこれほどボロボロなの? それに、その服……見たこともないデザインだけど、どこの流行?」
シルクが顎に手を当て、私とルンたちを交互に見つめた。
「戦っていたんです。そこへ、あの黒衣の男が現れて……」
ルンが説明する。ソラを忌々しげに見つめる視線には、まだトゲがあった。
「黒衣の男、ね……」シルクが眉をひそめる。
「ええ。信じられないほどの力で、そこの勘違い男と、私の仲間を蹂躙したわ」
シルクはルンの言葉を咀嚼するように、沈黙を守った。
そして、部屋の空気が一変するような、鋭い問いを投げかけた。
「最後にもう一つ……あなたのそのお友達。彼は『想像力』の使い手であり――『イマジネーション・リング』の継承者、ということで間違いないかしら?」
その言葉が放たれた瞬間、部屋の時が止まった。
心臓が、鐘を叩くように激しく脈打つ。
(なぜ、その名を――?)
冷や汗が背中を伝う。平穏は、まだ遠い先にしかなかった。




