自然8
「――やかましいぞ、貴様ら」
突如として、その漆黒の衣を纏った男は我々の中心に君臨していた。
「特に……貴様だ」
男がソラを指差した瞬間、ソラの体はまるで巨人の一撃を受けたかのように吹き飛び、背後の巨木を粉砕した。内側から響く「メキメキ」という不吉な音。間違いなく、全身の骨がへし折れた音だ。
「おい、小僧。私はつい先ほどまで微睡んでいたのだ。……眠りを妨げられた者が、その元凶にどのような報いを与えるか。貴様はその身を以て学ぶ必要があるようだな」
男がこちらへ一歩、踏み出す。
その瞬間、私の全身は凍りついた。圧倒的なまでの重圧。大気を塗り潰すほどに濃密な、深淵の如き闇のオーラ。本能が「死」を叫び、指先一つ動かすことすら許されない。
「カエリン……!」
上空の檻に囚われたルンが、悲鳴に近い声を上げた。彼女もまた、この男が放つ絶望的なまでの「死の気配」を察知しているのだ。
「私は二十四時間働き詰めだったのだ。その貴重な休息を、貴様らのような羽虫に邪魔されるとは……万死に値する」
男は私の至近距離で足を止めた。
「消えろ……死をもってな」
視界が跳ねた。
男が拳を振り上げた瞬間、その背後から巨大な「不可視の腕」が顕現した。それは赤黒い煙のような揺らめきを纏っている。
(――なぜだ? なぜ、私には見える!?)
思考が加速する。
衝突まで、コンマ数秒。
私は持てる魔力の全てを注ぎ込み、巨大な鉄の盾を構築した。
直後、轟音と共に衝撃が走る。最高硬度の盾が、紙細工のようにひしゃげた。私は強烈な衝撃波に弾かれ、数メートル後方へと吹き飛ばされる。
「何が起きたの……!?」
ルンが困惑の声を漏らす。「あの風、あの威力……まさか、闇の将軍クラス!? あいつもその一人だっていうの!?」
その騒乱の中で、抱えられていたルラが薄らと目を開けた。「お兄ちゃん……?」
「私の追撃を防いだか。……癪に障るな。そのまま塵になれば良かったものを」
男の姿が掻き消えた。――背後だ。
心臓が跳ねる。(殺される……!)
先ほどと同じだ。私には「見える」。今度は二本の、巨大な赤黒い異形の腕が、私の肉体を完膚なきまでに圧殺しようと振り下ろされる。
直撃の寸前、生存本能が限界を超えた。
私は魔力の反動を利用し、空中に不可視の足場を生成、全力で跳躍した。
ドォォォォォン!!
一対の巨拳が大地を爆砕し、クレーターを作り出す。男は、宙を舞う私を半眼で見つめていた。
「ほう。……小癪な真似を」
その瞳には、未だ眠気が混じったような気怠さが漂っている。
着地と同時に、私は激しい鼓動を感じていた。一瞬の判断ミスが、そのまま死へと直結する薄氷を踏むような攻防。
だが、奴は私に呼吸の間さえ与えない。予備動作も、音もない。攻撃そのものよりも速く、精神を削り取るような「圧」が押し寄せる。
周囲の空気が密度を増し、まるで世界そのものが私を排除しようと圧迫してくる。
(動けない……!?)
足が地面に癒着したかのように重い。次の瞬間、視界から男が消え――私の側頭部を衝撃が襲った。
視認すらできなかった。ただ、世界が激しく回転する。
巨木に叩きつけられ、肺の中の空気が無理やり押し出された。追撃。立ち上がる間もなく、不可視の衝撃が私の胸部を抉る。
「が……はっ……!」
地面を転がり、血反吐をぶちまける。全身の神経が悲鳴を上げ、視界が赤く染まっていく。
「立て」
男の声はどこまでも冷酷だった。「立てぬなら、ここで朽ち果てろ」
震える足で、私は泥を噛みながら立ち上がろうとする。指輪を起動させようとする手は、もはや制御不能なほどに震えていた。起死回生のエネルギートランポリンを仕掛けようとするが、それすらも具現化する前に握り潰される。
無慈悲な拳が、私の腹部を深々と貫いた。
「……ッ、ごほっ!」
「遅い。目は捉えていても、肉体がその領域に達していない」
正論だった。
私の「目」は奴の動きを、巨大な腕を、空気の歪みを完璧に捉えている。だが、この血肉を纏った体が、その神速に追いつけない。
絶望的な実力差。私は防戦一方のまま、構築したシールドは瞬時に霧散し、ただ一方的に蹂躙される。
もはや、左手の感覚は失われていた。
「理解したか。貴様と私では、存在の次元が違うのだ。そして……私の忍耐は、既に限界を超えている」
男が眼前に現れ、手を伸ばした。それは打撃ではない。
巨大な赤い魔手は、私の全身を万力のように締め上げ、骨をきしませる。
(息が……できない……)
意識が急速に混濁していく。
これが、終わりか。
「――カエリン!!」
遠くで、その名が呼ばれた。
霞む視界を無理やりこじ開ける。
上空で叫ぶルン。そしてその腕の中で、恐怖に顔を歪めながらも私を見つめるルラ。
その瞬間、男の動きが凍りついた。
全身を苛んでいた圧力が、わずかに霧散する。
「……あ?」
男は、天を仰いだ。その瞳には、先ほどまでの冷酷さはなく、どこか「あり得ざるもの」を目撃したかのような困惑が混じっていた。
「……子供、か」
魔手の拘束が解け、私は地面に崩れ落ちた。肺を焼くような酸素を必死に吸い込みながら、朦朧とする意識で奴を見上げる。
男は、長く、静かに私を凝視していた。
「貴様が……死を賭してまで抗ったのは、その『騒音』のためだというのか」
言葉にならない。ただ、死線を彷徨う呼吸を繰り返すのが精一杯だった。
「……ふん」
男は、半歩ほど身を引いた。
「見誤ったな。貴様らはただの、無価値でやかましい羽虫だと思っていたが……」
彼の視線は、ルンとルラに固定されていた。その数秒間は、まるで遠い過去を追憶しているかのように見えた。
「……私にも、妹がいた」
男の独白。声は依然として冷ややかだが、そこには確かな「情念」が混じっていた。
「まだ赤子だった。私に残された唯一の家族……だが、数百年前に失われた」
男の拳が、微かに震える。
「私は探し続けている。あらゆる次元、あらゆる世界を。そして――彼女の行く手を阻む者は、神であろうと容赦はしない」
男は再び、底知れぬ眼差しを私に向けた。
「ゆえに、見逃してやろう。慈悲でも敗北でもない。これは……私の気まぐれだ」
「だが、刻んでおけ。小僧」
再び、心臓を鷲掴みにされるような威圧感が放たれた。
「いつか貴様が、あるいはその妹が、私の道を阻むというのなら……」
闇のオーラが爆発的に膨れ上がる。
「その時は、一瞬で塵へと変えてやる」
男は背を向けた。その輪郭は、影に溶け込むように霞んでいく。
「それから、もう一つだ」
男は最後に、振り返ることなく言い捨てた。
「二度と、私の眠りを妨げるな」
漆黒の影が完全に消失し、森に静寂が戻る。
私はただ、泥にまみれたまま、激しく上下する胸を押さえて生きていることを実感していた。
上空では、ルンが震える瞳でこちらを凝視している。
「カエリン……」
私は、消え入りそうな笑みを浮かべた。
生き残った。……ただ、それだけだ。
だが、私は痛いほどに理解してしまった。
この世界には、私の「指輪」の力すら通用しない、天災の如き存在が君臨しているということを。




