自然1
闇。
周囲に見えるのは、果てしない虚無だけだった。
俺は一人きりで宙に浮かび、あてもなく漂っている。
「ここは……どこだ? 一体、どういうことなんだ……?」
暗闇を見渡しながら、俺は小さく呟いた。
『こんにちは、想像の指輪の最後の継承者よ』
柔らかく、温もりのある謎の声が耳元に響いた。
「誰だ!?」
困惑した表情で叫び、俺は左右を見回す。だが、そこには誰の姿もない。
その時、俺の指輪が輝き始めた。
白い光に、わずかに青が混じる。
ピィン——!
指輪が虚空へ向かって何かを放ち、それは花火のように弾けた。
その瞬間、ひとりの女性の姿が現れた。
息をのむほど美しい女性だった。
圧倒的でありながら、心を落ち着かせる不思議なオーラを纏い、金の模様が施された純白の衣を身にまとい、優雅に歩み寄ってくる。
「私は、古代樹の守護霊よ」
彼女は俺の前で立ち止まり、そう答えた。
「エンシェント・ツリー?
偉大なる王と、その弟アルドに計り知れない力を与えたという、あの樹か?
どうしてそんな存在が……それに、俺に何の用だ?」
俺は警戒して構えを取った。
彼女は小さく微笑んだ。
「あなたはまだ、学ぶべきことの多い一人の少年にすぎないわ。
そして私がここにいるのは……すべてが、私の過ちだから」
「どういう意味だ?」
「王国が危機に瀕した時、二人の兄弟は純粋で善なる心を持って、ここへやって来た。
私は彼らを哀れに思い、頂へ登ることを許してしまった。
それが、最大の過ちだったの」
彼女は静かな眼差しで俺を見つめた。
まるで、俺の心の奥に渦巻く不安をすべて理解しているかのように。
「私は謝罪のためだけに来たのではないわ」
彼女は静かに続ける。
「あなたの時が来たの。カエリン。想像の指輪の継承者として」
俺は拳を強く握った。
「全部あんたのせいだって言うなら……」
声が震える。
「どうして俺が背負わなきゃいけないんだ!?
人は傷つき、俺の大切な人たちは目の前で死んでいった……それなのに……!」
アルヴィナの両親と、ベニーの父の姿が脳裏に蘇る。
息が詰まった。
「どうして……俺が、こんな目に……!」
古代樹の霊は、しばらく沈黙した。
その周囲の温かなオーラが、そよ風のように揺れる。
「世界はね」
彼女は静かに言った。
「最も準備ができた者を選ぶわけではない。
まだ“変われる”者を選ぶの」
「俺は望んでない!」
堪えていた怒りが爆発した。
「普通に生きたかっただけだ!
でも、この指輪のせいで……タムズ、ルグレス、狂った運命のせいで、全部奪われた!」
闇が震え、感情に呼応するように歪んだ。
「ええ」
彼女は優しく頷いた。
「理不尽よ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
否定も、綺麗事もなかった。ただの事実。
「でも、カエリン」
彼女は続ける。
「闇の指輪を止めなければ、壊れるのはあなたの人生だけじゃない。
すべてのクラン、すべての並行世界が、ひとつずつ崩壊していく」
「並行世界……?」
彼女が手を掲げると、虚無は一変した。
異なる空、異なる色の大地、崩れゆく世界、闇に沈む都市——。
「各クランは、それぞれ異なる世界に存在している」
彼女は説明する。
「人間の世界も、並行世界の一部。
指輪の均衡によって、すべては繋がっているの。
一つが完全に闇へ堕ちれば、破滅の連鎖が始まる」
俺は唾を飲み込んだ。
「……何も知らない人たちも?」
「ええ」
怒りは、次第に恐怖へと変わっていった。
自分のためではない。
選ばれなかった、無関係な人々のための恐怖だ。
「私は指輪の使い手たちを導きたい」
古代樹の霊は言った。
「過去の過ちを償うためでもあり、無数の命を守るためでもある。
ルグレスとリンを、決して解放させないために」
長い沈黙が流れた。
拒めば、すべては終わる。
受け入れれば、背負いきれない重荷を抱える。
「……全部、嫌だ」
俺は低く呟いた。
「でも……俺が逃げたせいで、誰かが苦しむのは、もっと嫌だ」
彼女は微笑んだ。
それは安堵ではなく、希望に満ちた笑みだった。
「その選択こそが、あなたを相応しい者にする」
彼女は近づき、指先で俺の額に触れた。
温もりが広がり、やがて繊細な刻印のような感覚に変わる。
痛みはない。ただ、力が整えられていく感覚。
「これはエンシェント・ツリーの刻印」
彼女は告げた。
「力を増やすものではない。制御するためのものよ。
もう、感情だけで力が暴走することはない」
白く青い光が瞬き、やがて消えた。
「想像で指輪を使いなさい。感情ではなく」
それが最後の言葉だった。
「そして忘れないで、カエリン。あなたは一人じゃない」
彼女の姿は闇に溶け、消えていった。
「……ありがとう」
そう呟いた瞬間——
「カエリン!」
俺ははっと目を開けた。
自然の光が眩しく、澄んだ空気が肺を満たす。
柔らかな草の上に横たわる俺の傍で、ルンが膝をついていた。
その後ろには、俺の妹が涙を浮かべながら、服の裾を握って立っている。
「妹!?」
俺は飛び起きた。
「無事か!?」
彼女は勢いよく頷き、俺にしがみついた。
その時になって、俺は気づいた——
彼女をポータルに連れて行くのを、忘れていたことに。
「どうして……ここに?」
驚きながら尋ねる。
「タムズが強大な力を使った瞬間、私の拘束が壊れたの」
ルンは左腕を押さえながら答えた。
「逃げようとした時、この子が泣いているのを見て……体が勝手に動いた。
そのままポータルに飛び込んだの」
俺は反射的にアルヴィナを抱きしめた。
無意識だった。
アルヴィナは驚き、顔が一瞬で真っ赤になる。
「妹を助けてくれて……ありがとう」
次の瞬間——
「バカ!」
俺は勢いよく投げ飛ばされた。
「なんでいきなりそんなことするのよ!
人間は本当に下等な生き物ね!」
俺は痛みに呻きながら、小さく笑い、慌てて謝った。
胸いっぱいに、安堵が広がっていく。
俺は、また失うところだった。
……そして、ようやく周囲を見渡した。
目の前に広がる光景に、言葉を失う。
金色に輝く葉を持つ巨木。
光のように澄んだ川。
青緑色の空が、魂を癒すように穏やかに輝いている。
高くそびえる山々と、その周囲をゆっくり流れる雲。
「ここが……」
俺は息を呑んだ。
「ALLAM……」
すべての混乱が始まって以来、初めて思えた。
——まだ、希望は残っている。




