第九章 文化祭、動き出す影
◇
通学路を歩くのは、いつ以来だろう。
紬の足取りはぎこちなく、それでも確かだった。制服の襟元を指でつまみながら、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
まだ冷たさの残る風が肌をかすめ、緊張で乾いた喉を一瞬潤してくれる。
隣には、悠真がいた。
いつもと変わらぬ表情、変わらぬ歩幅。
その存在が、まるで道そのもののように、紬の進む先を照らしてくれる。
「……あのね、悠真」
ふいに紬が口を開く。
「歩幅、合わせてくれてるよね。ずっと前から」
「うん」
迷いのない返事に、紬は少しだけ笑った。
「ありがと」
その一言は、きっと何百回分の感謝の言葉を込めていた。
学校の門が見えてきた。
登校してくる生徒たちの声、足音、制服の色とりどりの集まり。
その光景に、紬の呼吸が浅くなる。
「……怖くないって言ったら嘘になるけど、でも……」
「大丈夫。紬はもう、ちゃんとここまで来たんだから」
悠真の声は、変わらず穏やかで、強い。
その声に背中を押されるように、紬はもう一歩、門の前へと足を進めた。
そのとき——
「高坂さんっ!」
元気な声が響く。振り返ると、制服の上にクラスTシャツを羽織った倉持玲奈が駆け寄ってきた。
「来てくれたんだ……! ほんとによかった!」
玲奈の笑顔は、太陽のようだった。
思わず目を細めた紬は、反射的に会釈を返す。
「……うん。玲奈ちゃん、ありがとう」
「な、なにそれ、普通に名前呼ばれると照れるんだけど……!」
玲奈はわざとらしく頬を押さえてから、ふっと悠真の方をちらりと見る。
「相澤くんも、ありがとね。ちゃんと連れてきてくれて」
その一言に、悠真の表情がわずかに和らぐ。
「いや……俺は、ただ隣にいただけだよ」
「ふーん、そっか」
玲奈はその言葉に、どこか釘を刺すような笑みを浮かべた。
「じゃあ、紬ちゃんは私がエスコートするね!」
手を取られ、驚く紬。
その手は、温かくて、けれど少しだけくすぐったかった。
「行こう、教室。みんな、待ってるよ」
玲奈に手を引かれながら、紬は振り返る。
悠真は、ほんの少しだけ距離を置いて、いつものように静かに微笑んでいた。
(大丈夫。ちゃんと歩ける。今日だけは)
そう心の中で呟いて、紬はその一歩を確かに踏み出した。
◇
教室の中は、朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。
文化祭当日。班級展示の準備も、いよいよ最終段階に入っている。カーテンの位置を微調整したり、ポスターの角をきっちり貼り直したり、あちこちで誰かの声が飛び交っていた。
「なあ、誰かスピーカーのコード知らない? また外れてんだけど」
「玲奈~、このポップの文字、ちょっとズレてる! 直してー!」
そんな中、倉持玲奈はテキパキと指示を出していた。前日遅くまで残っていたはずなのに、眠気の欠片も見せず、髪をまとめて軽快に動いている。
「はいはい、落ち着いてー。あと十五分でチェックするから、それまでに全部整えてね!」
その頼もしさに、クラスメイトたちの信頼は厚い。彼女が指揮を執ると、自然と場が引き締まる。
けれど——ふとした一瞬、玲奈の視線が、教室の一番後ろの窓際へ向かう。
そこにあるのは、空席。
高坂紬の席。
「……今日は、来るかな」
小さな呟きが、準備の喧騒に紛れて消えていった。
「玲奈、なにか言った?」
近くにいた男子が訊ねると、玲奈はすぐに笑顔を取り戻した。
「ううん、なんでもない」
そんな様子を、別のグループが小声で囁き合う。
「高坂ってさ、来るの? 文化祭だけでもって話、聞いてたけど……」
「どうだろ。ていうか、相澤のやつ、最近ずっと付きっきりだよな」
「マジ、専属介護士って感じ? あれはあれで、すげーわ」
からかうような声もあったが、どこか柔らかくて、悪意は感じなかった。
みんな、知っていたのだ。高坂紬が過去に何かあったことを。だけど、深くは聞かず、そっとしておく。
それが、このクラスのやり方だった。
そして——
その空席が、もうすぐ埋まるかもしれないという期待が、誰の心にも、少しずつ芽生えはじめていた。
◇
教室の前で、紬はほんの少し立ち止まった。
ドア越しに聞こえる笑い声、忙しそうに動く足音、装飾の紙のこすれる音……すべてが現実で、眩しかった。
「……入るね」
小さく息を吸って、彼女はその扉を押した。
一瞬、教室の空気が変わった。
話していた声が止まり、数人が振り返る。だが、それはほんの一拍のことだった。
「——紬ちゃん!」
一番に声を上げたのは玲奈だった。
笑顔のまま駆け寄ってくる彼女に、紬は少し驚きながらも、ぎこちなく微笑んだ。
「来てくれて、ありがとう。……制服、すっごく似合ってる」
「……うん。ありがとう、倉持さん」
玲奈はそのまま紬の手を軽く取り、教室の中へと引き込んだ。
「みんなー、高坂さん来たよ!」
玲奈の呼びかけに、クラスメイトたちがちらちらと視線を向ける。誰かが小さく手を振り、誰かが「おー」と声を上げる。
「よう、久しぶりだな」
「……おかえり」
そんな何気ない言葉たちが、どれほど紬の心を軽くしただろうか。
悠真が少し後ろで様子を見守っていたが、特に手を出すことはなかった。ただ、彼女の一歩一歩を信じていた。
「座っていい?」と紬が尋ねると、玲奈が笑顔でうなずいた。
「もちろん。紬ちゃんの席、ちゃんと残ってたから」
椅子に腰を下ろすと、いつか見慣れていたはずの風景が、ほんの少し違って見えた。
「……やっぱり、緊張する」
「最初だけだよ。文化祭、楽しまなきゃ損だよ?」
玲奈の軽やかな言葉に、紬はくすっと笑った。
彼女は今、教室の中にいる。
その事実だけで、十分すぎるほどの勇気だった。
◇
午前十時、校内放送のチャイムが鳴り響くと、文化祭の幕が正式に上がった。
校門から続々と来客が入り、廊下には笑い声や足音があふれ出す。教室の展示ブースも次々と開店し、賑わいが一気に広がっていった。
紬のクラスは、教室の一角を使って小さなカフェスペースを設けていた。紙のランタン、手書きのメニュー、そして手作りのスイーツ。素朴だけど、どこか温かい空間だった。
「紬ちゃん、こっち手伝ってもらえる?」
玲奈が紬にトレーを手渡す。注文を受けたクッキーと紅茶を載せたそれは、ほんの少し重かった。
「うん……やってみる」
トレーを両手で持ち、席まで慎重に歩いていく。客は他校の生徒らしい女子グループ。彼女たちは紬の制服姿を見て、少し驚いたように目を丸くした。
「……どうぞ。クッキーと、紅茶になります」
声は小さくても、丁寧に。深く頭を下げると、相手の表情がふわりとやわらいだ。
「ありがとう。制服、かわいいね」
「えっ……あ、ありがとう」
嬉しさよりも、むしろ戸惑いの方が勝った。けれど、その感情もまた新鮮だった。
ふとカウンターに戻ると、悠真がガラス越しにこちらを見ていた。
目が合うと、彼はいつものように柔らかく笑った。
(……私、ちゃんとやれてるよ)
心の中で、そっと呟く。
やがて紬の周囲にも、小さな変化が生まれていた。
「それ、運ぶの手伝おうか?」
「お皿、こっちに置いていいよ」
クラスメイトたちが自然に声をかけてくる。
会話はまだぎこちない。でも、確かに繋がりははじまっている。
そのうち、玲奈が紬の肩をそっとたたいた。
「ね、紬ちゃん。昼休み、少し抜けてまわらない? 他のクラスも面白いよ」
「……うん。行ってみたい、かも」
笑い合うふたりの後ろで、悠真が静かに立ち上がる。
彼女の「居場所」が、少しずつ確かになっていく音が、学園のざわめきに紛れて聞こえた気がした。
◇
昼の光が、教室の窓ガラス越しに差し込んでいる。
カフェスペースの隅、誰にも気づかれないような位置から、悠真は静かに紬の様子を見守っていた。
彼女が、注文の品を丁寧に運ぶ。
クラスメイトに微笑み返す。
時折、ぎこちなくも確かに言葉を交わしている。
(……ちゃんと、踏み出してる)
その姿に、ほっと安堵する一方で、胸の奥には複雑な感情も渦巻いていた。
喜びと、誇らしさ。
そして、少しの寂しさ。
——自分の手を借りず、ひとりで立とうとする彼女。
それは望んでいたはずの姿なのに、どこか遠くへ行ってしまいそうで、少しだけ怖かった。
(でも、それでいい)
彼は拳を握る。
自分が背中を押す役目ならば、それでいい。
紬がまた歩き出せるのなら、いつか、自分のいない場所でも笑えるようになるのなら。
そのとき、はじめて——彼女は「本当に戻ってきた」と言えるのかもしれない。
(……文化祭が終わっても、止まらせない。今度こそ、ゆっくりでも前に)
学校の中で、自分の言葉で、人と繋がって、
少しずつでも「外の世界」と向き合えるように。
——いつか、制服じゃなくても外に出られるように。
——誰かに言われてじゃなく、自分で選んで笑えるように。
悠真は、紬の背中を見つめながら、静かに願った。