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第九章 文化祭、動き出す影

通学路を歩くのは、いつ以来だろう。


 紬の足取りはぎこちなく、それでも確かだった。制服の襟元を指でつまみながら、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。

 まだ冷たさの残る風が肌をかすめ、緊張で乾いた喉を一瞬潤してくれる。


 隣には、悠真がいた。

 いつもと変わらぬ表情、変わらぬ歩幅。

 その存在が、まるで道そのもののように、紬の進む先を照らしてくれる。


 「……あのね、悠真」


 ふいに紬が口を開く。


 「歩幅、合わせてくれてるよね。ずっと前から」


 「うん」


 迷いのない返事に、紬は少しだけ笑った。


 「ありがと」


 その一言は、きっと何百回分の感謝の言葉を込めていた。


 学校の門が見えてきた。

 登校してくる生徒たちの声、足音、制服の色とりどりの集まり。

 その光景に、紬の呼吸が浅くなる。


 「……怖くないって言ったら嘘になるけど、でも……」


 「大丈夫。紬はもう、ちゃんとここまで来たんだから」


 悠真の声は、変わらず穏やかで、強い。

 その声に背中を押されるように、紬はもう一歩、門の前へと足を進めた。


 そのとき——


 「高坂さんっ!」


 元気な声が響く。振り返ると、制服の上にクラスTシャツを羽織った倉持玲奈が駆け寄ってきた。


 「来てくれたんだ……! ほんとによかった!」


 玲奈の笑顔は、太陽のようだった。

 思わず目を細めた紬は、反射的に会釈を返す。


 「……うん。玲奈ちゃん、ありがとう」


 「な、なにそれ、普通に名前呼ばれると照れるんだけど……!」


 玲奈はわざとらしく頬を押さえてから、ふっと悠真の方をちらりと見る。


 「相澤くんも、ありがとね。ちゃんと連れてきてくれて」


 その一言に、悠真の表情がわずかに和らぐ。


 「いや……俺は、ただ隣にいただけだよ」


 「ふーん、そっか」


 玲奈はその言葉に、どこか釘を刺すような笑みを浮かべた。


 「じゃあ、紬ちゃんは私がエスコートするね!」


 手を取られ、驚く紬。

 その手は、温かくて、けれど少しだけくすぐったかった。


 「行こう、教室。みんな、待ってるよ」


 玲奈に手を引かれながら、紬は振り返る。

 悠真は、ほんの少しだけ距離を置いて、いつものように静かに微笑んでいた。


 (大丈夫。ちゃんと歩ける。今日だけは)


 そう心の中で呟いて、紬はその一歩を確かに踏み出した。


 教室の中は、朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。


 文化祭当日。班級展示の準備も、いよいよ最終段階に入っている。カーテンの位置を微調整したり、ポスターの角をきっちり貼り直したり、あちこちで誰かの声が飛び交っていた。


 「なあ、誰かスピーカーのコード知らない? また外れてんだけど」

 「玲奈~、このポップの文字、ちょっとズレてる! 直してー!」


 そんな中、倉持玲奈はテキパキと指示を出していた。前日遅くまで残っていたはずなのに、眠気の欠片も見せず、髪をまとめて軽快に動いている。


 「はいはい、落ち着いてー。あと十五分でチェックするから、それまでに全部整えてね!」


 その頼もしさに、クラスメイトたちの信頼は厚い。彼女が指揮を執ると、自然と場が引き締まる。


 けれど——ふとした一瞬、玲奈の視線が、教室の一番後ろの窓際へ向かう。


 そこにあるのは、空席。

 高坂紬の席。


 「……今日は、来るかな」


 小さな呟きが、準備の喧騒に紛れて消えていった。


 「玲奈、なにか言った?」


 近くにいた男子が訊ねると、玲奈はすぐに笑顔を取り戻した。


 「ううん、なんでもない」


 そんな様子を、別のグループが小声で囁き合う。


 「高坂ってさ、来るの? 文化祭だけでもって話、聞いてたけど……」

 「どうだろ。ていうか、相澤のやつ、最近ずっと付きっきりだよな」

 「マジ、専属介護士って感じ? あれはあれで、すげーわ」


 からかうような声もあったが、どこか柔らかくて、悪意は感じなかった。


 みんな、知っていたのだ。高坂紬が過去に何かあったことを。だけど、深くは聞かず、そっとしておく。

 それが、このクラスのやり方だった。


 そして——

 その空席が、もうすぐ埋まるかもしれないという期待が、誰の心にも、少しずつ芽生えはじめていた。


教室の前で、紬はほんの少し立ち止まった。

 ドア越しに聞こえる笑い声、忙しそうに動く足音、装飾の紙のこすれる音……すべてが現実で、眩しかった。


 「……入るね」

 小さく息を吸って、彼女はその扉を押した。


 一瞬、教室の空気が変わった。

 話していた声が止まり、数人が振り返る。だが、それはほんの一拍のことだった。


 「——紬ちゃん!」

 一番に声を上げたのは玲奈だった。


 笑顔のまま駆け寄ってくる彼女に、紬は少し驚きながらも、ぎこちなく微笑んだ。


 「来てくれて、ありがとう。……制服、すっごく似合ってる」

 「……うん。ありがとう、倉持さん」


 玲奈はそのまま紬の手を軽く取り、教室の中へと引き込んだ。


 「みんなー、高坂さん来たよ!」

 玲奈の呼びかけに、クラスメイトたちがちらちらと視線を向ける。誰かが小さく手を振り、誰かが「おー」と声を上げる。


 「よう、久しぶりだな」

 「……おかえり」

 そんな何気ない言葉たちが、どれほど紬の心を軽くしただろうか。


 悠真が少し後ろで様子を見守っていたが、特に手を出すことはなかった。ただ、彼女の一歩一歩を信じていた。


 「座っていい?」と紬が尋ねると、玲奈が笑顔でうなずいた。


 「もちろん。紬ちゃんの席、ちゃんと残ってたから」


 椅子に腰を下ろすと、いつか見慣れていたはずの風景が、ほんの少し違って見えた。


 「……やっぱり、緊張する」

 「最初だけだよ。文化祭、楽しまなきゃ損だよ?」


 玲奈の軽やかな言葉に、紬はくすっと笑った。


 彼女は今、教室の中にいる。

 その事実だけで、十分すぎるほどの勇気だった。


 午前十時、校内放送のチャイムが鳴り響くと、文化祭の幕が正式に上がった。


 校門から続々と来客が入り、廊下には笑い声や足音があふれ出す。教室の展示ブースも次々と開店し、賑わいが一気に広がっていった。


 紬のクラスは、教室の一角を使って小さなカフェスペースを設けていた。紙のランタン、手書きのメニュー、そして手作りのスイーツ。素朴だけど、どこか温かい空間だった。


 「紬ちゃん、こっち手伝ってもらえる?」

 玲奈が紬にトレーを手渡す。注文を受けたクッキーと紅茶を載せたそれは、ほんの少し重かった。


 「うん……やってみる」


 トレーを両手で持ち、席まで慎重に歩いていく。客は他校の生徒らしい女子グループ。彼女たちは紬の制服姿を見て、少し驚いたように目を丸くした。


 「……どうぞ。クッキーと、紅茶になります」


 声は小さくても、丁寧に。深く頭を下げると、相手の表情がふわりとやわらいだ。


 「ありがとう。制服、かわいいね」

 「えっ……あ、ありがとう」


 嬉しさよりも、むしろ戸惑いの方が勝った。けれど、その感情もまた新鮮だった。


 ふとカウンターに戻ると、悠真がガラス越しにこちらを見ていた。

 目が合うと、彼はいつものように柔らかく笑った。


 (……私、ちゃんとやれてるよ)


 心の中で、そっと呟く。


 やがて紬の周囲にも、小さな変化が生まれていた。

 「それ、運ぶの手伝おうか?」

 「お皿、こっちに置いていいよ」

 クラスメイトたちが自然に声をかけてくる。


 会話はまだぎこちない。でも、確かに繋がりははじまっている。


 そのうち、玲奈が紬の肩をそっとたたいた。


 「ね、紬ちゃん。昼休み、少し抜けてまわらない? 他のクラスも面白いよ」

 「……うん。行ってみたい、かも」


 笑い合うふたりの後ろで、悠真が静かに立ち上がる。


 彼女の「居場所」が、少しずつ確かになっていく音が、学園のざわめきに紛れて聞こえた気がした。


昼の光が、教室の窓ガラス越しに差し込んでいる。

 カフェスペースの隅、誰にも気づかれないような位置から、悠真は静かに紬の様子を見守っていた。


 彼女が、注文の品を丁寧に運ぶ。

 クラスメイトに微笑み返す。

 時折、ぎこちなくも確かに言葉を交わしている。


 (……ちゃんと、踏み出してる)


 その姿に、ほっと安堵する一方で、胸の奥には複雑な感情も渦巻いていた。

 喜びと、誇らしさ。

 そして、少しの寂しさ。


 ——自分の手を借りず、ひとりで立とうとする彼女。


 それは望んでいたはずの姿なのに、どこか遠くへ行ってしまいそうで、少しだけ怖かった。


 (でも、それでいい)


 彼は拳を握る。


 自分が背中を押す役目ならば、それでいい。

 紬がまた歩き出せるのなら、いつか、自分のいない場所でも笑えるようになるのなら。


 そのとき、はじめて——彼女は「本当に戻ってきた」と言えるのかもしれない。


 (……文化祭が終わっても、止まらせない。今度こそ、ゆっくりでも前に)


 学校の中で、自分の言葉で、人と繋がって、

 少しずつでも「外の世界」と向き合えるように。


 ——いつか、制服じゃなくても外に出られるように。

 ——誰かに言われてじゃなく、自分で選んで笑えるように。


 悠真は、紬の背中を見つめながら、静かに願った。

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