第八章 文化祭前夜、眠れないまま
時計の針が、深夜一時を回っていた。
寝室の天井を見つめながら、紬は目を閉じられずにいた。心臓の鼓動が、いつもよりもはっきりと耳に届く。文化祭が、明日。たったそれだけの事実が、まるで全身を包み込むような重さとなっていた。
(……どうしよう。全然、眠れない)
体は疲れているはずなのに、目の奥だけが冴えている。昼間のリハーサルのこと、玲奈の声、失敗した自分の声――そのすべてが、ぐるぐると頭の中をまわり続けていた。
「……紬?」
ノックの音とともに、母の声が扉の向こうから届いた。
「起きてるの?」
「……うん」
ドアが静かに開き、母がそっと部屋に入ってくる。薄い部屋着の上からカーディガンを羽織った姿。目元には少し疲れが見えたが、その声はいつものように優しかった。
「眠れないのね」
紬は小さく頷いた。
母はベッドの端に腰を下ろし、数秒の沈黙のあと、静かに言った。
「……緊張してる?」
「……うん。怖いの。明日、ちゃんとできるかわからなくて」
「ちゃんとじゃなくていいのよ。やってみることが、大事だから」
母の言葉は、まるで深夜の静けさに馴染むように、紬の胸の奥に染み込んでいく。
「紬ね、少し前までは、部屋から出ることすらできなかったじゃない。あのとき、私はずっと悩んでた。どうしたら、あなたが笑ってくれるのかって。でも……最近の紬は、ちゃんと自分で動いてる。頑張ってるって、わかるの」
紬は視線をそらし、毛布の端を指で弄んだ。
「……でも、私……失敗したばっかりだし、みんなの役に立てるかどうか……」
「失敗してもいい。大丈夫。失敗しても、ちゃんと見てくれてる人はいるのよ」
その一言に、紬の胸が少しだけ温かくなった。
(……ちゃんと、見てくれてる人)
思い浮かぶのは、やっぱり――悠真だった。
何も言わなくても、そばにいてくれる。励まさなくても、気づかってくれる。自分が声を失ったあの日も、そっと手を握ってくれた。
母は、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ休みましょうか。無理に眠らなくてもいい。でも、体を横にするだけでも、少しは違うから」
「……うん、ありがとう」
部屋を出る直前、母はふと振り返った。
「明日ね、制服、着てみる?」
「……え?」
「その方が、たぶん……気持ち、強くなれるかもよ」
紬は何も答えられなかった。ただ、布団の中で、その言葉を何度も繰り返し、噛み締めた。
(制服……か)
閉じられないままの瞼の裏で、白くてまだ少し大きめの制服が、ゆっくりと揺れていた。
◇
母が部屋を出てから、十五分ほどが過ぎた。
紬は相変わらず眠れずにいた。だが、先ほどよりも胸のざわつきは少しだけ静まっている。
(制服……着てみる、か)
母の提案が、頭の片隅にやさしく残っていた。
そんな時だった。
スマートフォンが小さく振動した。
【悠真:起きてる?】
画面の文字に、思わず息が詰まった。
迷いながらも「うん」とだけ返すと、すぐに着信が来た。
通話ボタンを押すと、かすかに雑音の混じった優しい声が耳元に届く。
「……ごめん、こんな時間に。なんか、気になっちゃって」
「ううん……ありがとう」
しばらく、言葉が途切れたままの沈黙が続いた。
だが、その沈黙すらも心地よかった。耳の奥で、小さな安心がじんわりと広がっていく。
「今日……練習、できなかったけど、あのノート……すごくよかったよ」
「見たの?」
「玲奈が写真撮って送ってくれた。あれだけのメモ、まとめるのって大変だったでしょ」
紬は小さく息を呑んだ。
あのノートは、何度も迷いながら、書いては消してを繰り返したものだった。
それを見てくれていた。それを、言葉にしてくれる人がいた。
「……嬉しい。伝わったなら、よかった」
「伝わってるよ。ちゃんと、みんなの中にいるよ、紬は」
電話越しに聞こえる悠真の声が、まるでそっと背中を支えるようだった。
「明日……来られそう?」
その問いに、紬はふと天井を見上げた。
心の中で、何かが小さく灯る。
「……うん。制服、着ていこうと思う」
「そっか。似合うと思うよ。……前に一度、教室で見たとき、すごく似合ってた」
その一言に、胸の奥がじんと熱くなる。
言葉が詰まり、何も言い返せなかった。
「じゃあ、俺、明日——正門で待ってるから」
「……うん」
小さな約束が、夜の静けさの中に優しく刻まれた。
そのあともしばらく、ふたりは何を話すでもなく、ただ通話を繋げたまま、心だけを寄り添わせていた。
◇
文化祭当日。
目覚ましが鳴るよりも少し早く、紬は目を覚ました。
カーテン越しの光が、部屋の天井をやわらかく染めている。
昨日の夜、母と話し、悠真の声を聞いたあと、ようやく少しだけ眠れた。
深くはなかった。でも、悪くなかった。
(今日、私は……)
制服が、机の椅子にかけられていた。
もう一年以上、袖を通していなかったはずのその服。
襟の白、スカートのひだ、左胸の校章。
全てが懐かしくて、でも少し怖い。
指先でそっと触れると、心臓がドクンと跳ねた。
「……着る」
呟いた声は小さくても、自分の中で確かな響きを持っていた。
制服に袖を通す前、紬はふと立ち止まり、鏡の前に立った。
制服を胸元に当て、少しだけ首を傾けてみる。
「……あれ? なんか、ちょっと照れる」
小さく笑って、くるりとその場で回ってみる。
スカートの裾がふわりと広がり、幼い頃のおままごとの記憶がよぎった。
(こんなふうに、鏡の前で服を合わせるなんて、久しぶり……)
やがて真剣な表情に戻り、ボタンを一つ一つ丁寧に留めていく。
その手は、ほんの少し震えていた。
「……大丈夫、私ならできる」
自分にそう言い聞かせながら、ゆっくりと着替えを済ませた。
鏡の前に立つと、そこにいるのは、少しだけ大人びた自分だった。
制服は、やっぱり少しだけ窮屈だった。
でも、それが逆に背筋を伸ばしてくれる。
――同じ時刻。
学校の一室で、倉持玲奈は机の上に並べられたプリントを黙々と仕分けしていた。
「これが模擬店、こっちが演劇部、で、こっちが……あ、悠真のとこ」
スケジュール表の欄に目を落としながら、ほんの少し、手を止める。
それからふっと笑って、手帳にメモを追加した。
(彼女の分、ちゃんと空けておかないとね)
机の端には、小さなメッセージカード。
「情報班:高坂紬さんへ」と書かれた封筒も添えられていた。
玲奈はそれをそっと撫でながら、心の中で呟く。
(今日、来てくれるといいな)
視線は窓の外へと向かう。朝の光に満ちた空。
(悠真って、ああ見えて優しすぎるからなぁ……)
ぽつりと、誰にも聞かれない独り言。
けれどその声には、少しだけ自嘲と、ほんの少しの切なさが滲んでいた。
「ま、私は私の役目をしっかりやろう」
そう言って、再び手を動かし始める。
その指先には、迷いはなかった。
リビングに降りると、母が驚いたように目を見張った。
「……紬、似合ってるわよ」
その一言で、喉の奥がきゅっと締まった。
けれど、涙は流さなかった。
玄関前で靴を履こうとしたとき、チャイムが鳴った。
「おはよう、紬」
ドアの向こうに立っていたのは、もちろん悠真だった。
制服姿の紬を見て、一瞬だけ彼の表情が揺れた。
けれど何も言わず、ただ、穏やかに微笑む。
「行こうか」
「……うん」
家の門の前まで来たとき、紬の足が止まる。
視線の先には、見慣れた通学路。けれど、一歩が出ない。
(大丈夫、私は……)
ふいに、手を差し出された。
悠真の手。いつものように、温かくて、静かだった。
紬は、その手を取った。
そして、小さく一歩を踏み出した。
門を越えたその瞬間、心の中で何かがふっとほどけた。
制服の裾が、風に揺れる。
「……行ってきます」
小さな声で、そう呟いた。
それは、きっと誰よりも、自分自身に向けた言葉だった。
今日、紬はまた一つ、小さな一歩を踏み出したのだった。