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第七章 文化祭、はじまりのページ

文化祭まで、あと一週間。


 日が傾き始めた午後、紬はリビングのテーブルにプリントの束を広げていた。

 各クラスの出し物一覧、体育館ステージのタイムスケジュール、模擬店の配置図。どれも母が学校から持ち帰ってきてくれたものだった。


「……こんなに、たくさん……」


 ページをめくるたびに、内容の密度に目が回りそうになる。それでも、彼女は鉛筆を握り直し、気になった箇所に印をつけていった。

 たどたどしい字で、「模擬店 看板係?」「演劇部は外?」「音響機材 どこ?」と書かれたメモが、プリントの余白を埋めていく。


 数日前までは、こんなことすら考えられなかったのに。今はこうして「何か手伝いたい」と思えるようになっていた。


 そんなときだった。


「高坂さん、いるー?」


 玄関から聞こえてきた明るい声に、紬は一瞬驚いて立ち上がった。


「……あれ、紬ちゃん?」


 顔をのぞかせたのは、文化部の中心メンバーの一人、倉持玲奈だった。

 黒髪をポニーテールにまとめた彼女は、いつもエネルギッシュで、学年でもひときわ目立つ存在だった。


「ごめんね、急に。悠真くんから聞いたの。文化祭のことで、何か手伝いたいって」


「あ……うん」


 返事はしたものの、喉が少し乾いていることに気づいた。こんなふうに、学校の人が直接来てくれるなんて、初めてのことだった。


 玲奈は靴を脱ぎながら、手に持っていたファイルを広げた。


「これ、実行委員から配られてる作業シート。クラスや部活の分担とか、細かく書いてあるんだ。手伝ってくれるなら、情報まとめ役とかどうかなって思って」


「……情報、まとめ……」


「うん、たとえば『誰がどこにいるか』とか、『必要な物が足りてるか』とか、そういうの。家からでもできるし、電話とかLINEでやり取りできるし」


 玲奈の言葉は、まるでこちらの不安を見透かしているようだった。

 無理に外へ連れ出そうとはせず、でも、繋がりをくれるような――そんな提案。


 紬は少しだけ視線を落とした。テーブルに散らばるプリントの束。自分が印をつけた箇所。


 (……もしかして、私でも、できるかもしれない)


「……やってみたい、です」


 そう言った自分の声は、小さかったけれど、確かなものだった。


 玲奈は目を細めて笑った。


「よかった。じゃあ、一緒に作戦立てよっか」


 夕暮れの光が部屋に差し込み、ふたりの影をゆっくりと伸ばしていった。



「じゃあ、読み合わせ、いくねー!」


 部室に集まった演劇部のメンバーたちが、それぞれ脚本を手に取り、軽く返事を返す。


 倉持玲奈の明るい掛け声に続いて、練習用の机が軽く動かされ、体育館ステージを模した即席の立ち位置が決まっていく。


 その場の隅っこに、小さく紬の姿があった。


 台詞を読むわけではない。

 彼女が担当しているのは、ステージ裏のタイミング調整と、進行表の作成。


 しかし、演劇部の雰囲気に少しでも馴染もうと、今日は現地での様子を確認しに来ていた。


 (……すごい、声、大きい)


 玲奈をはじめ、部員たちは自信たっぷりにセリフを読み上げ、時折アドリブすら交えながら場面を進めていく。


 空気の振動が、どこか自分だけを避けて流れているようで――


「……高坂さん、大丈夫?」


 気づけば、玲奈が心配そうに覗き込んでいた。


 「えっ、あ……ごめんなさい。ちゃんと見てます、えっと……次の照明タイミングは……」


 台本の進行表を指差す指が、わずかに震える。


 (うまく、話せない……)


 大勢の視線があるわけでもない。誰も彼女を責めているわけでもない。


 けれど、自分の存在が、その場に『異物』のように感じられた。


 「無理しなくていいよ。ここにいてくれるだけでも助かるし、いつでも外して大丈夫だからね」


 玲奈の声は優しく、それがまた、紬の胸に刺さる。


 (……わたし、何してるんだろう)


 帰り道。

 校舎を出たあと、いつものように悠真が迎えに来ていた。


 「おつかれ。……顔、ちょっと赤いね」


 「ううん、大丈夫。ちょっと、恥ずかしいだけ……」


 かすれそうな声でそう言った紬の横で、悠真はそれ以上深く追求しなかった。


 ただ、その歩幅を紬に合わせ、ゆっくりと家路を辿った。


 その静けさが、なによりも救いだった。



その日の夕方、紬は久しぶりに疲れを感じながらも、充実した心持ちで部屋に戻ってきた。


 倉持玲奈との打ち合わせ、資料の整理、そして初めて他者と交わした意見交換。どれも彼女にとっては未知の領域であり、同時に「社会」との繋がりを思い出させる時間だった。


 だが、それだけでは済まなかった。


 夕食後、再び演劇部の通し稽古の録音データが送られてきた。


「……今日の分、確認しとこう」


 再生ボタンを押すと、文化部のメンバーたちの朗読が流れ始める。抑揚のついた台詞、場面転換の効果音、背景に流れるBGM。


 それらが紬の部屋の静けさの中に響き、彼女の胸の奥に何かを置いていく。


 ふと、彼女は思い出す。昼間、玲奈が悠真の名前を呼んだときのこと。


「……悠真くん、って……呼んでたよね」


 胸の奥がきゅっと鳴った。小さな、小さな波紋。でも、それは確かに彼女の中で広がっていった。


 嫉妬。そんな感情を、自分が抱いたことに気づいてしまう。


「……私、なに言ってるんだろ」


 そんなこと、思いたくなかった。

 だけど、彼はずっと自分のそばにいてくれて、笑ってくれて、助けてくれて。

 その彼が、他の誰かに名前を呼ばれ、自然に返事をしている。


 その光景を想像するだけで、胸の奥がざわついた。


 けれど。


「……違う。そんなの、今は考えちゃだめ」


 小さく首を振って、手元のメモ帳を開いた。

 今日の確認事項、明日の作業、玲奈との連絡予定――その一つ一つに、彼女は目を通していく。


 自分の気持ちに押し流されないように。

 今はまだ、心が揺れている場合じゃない。

 彼に守られてばかりの自分を、少しでも変えていきたいから。


「明日は……文化部の必要物資リスト、まとめよう」


 そっと呟いたその声は、小さく震えていたが、

 それでも確かに、前を向こうとする意志があった。


 カーテンの隙間から月明かりが差し込み、

 彼女のノートに静かに重なった。


文化祭まで、あと五日。


 紬は自室の机に向かって、そっとノートを開いた。

 ページの右上に、小さく「セリフ練習」と書かれた文字。その下には、何度も書いては消されたような跡が重なっている。


「えっと……『次の班、準備お願いしまーす』……」


 小さな声が、部屋の静けさに溶けていった。

 たったこれだけのセリフなのに、喉がうまく開かない。口の中が乾いて、舌が思うように動かない。


 何度も練習しているのに、録音して聞き返すたびに、声が震えていたり、間が不自然だったりする。思わず眉をひそめて再生を止め、スマホを伏せた。


「だめだ……全然だめ……」


 指先が震えている。

 膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。


 ——やりたいと思ったのは、自分なのに。

 ——倉持さんにあんなに丁寧に言ってもらったのに。


 やらなきゃ、やらなきゃと思えば思うほど、身体が硬くなっていく。

 頭の中で、練習のときの玲奈の明るい声が響く。


 (あの子、すごいな……ちゃんと、みんなの前で笑って……)


 ベッドの上に投げ出された台本。

 何度も開いて、ページの角が折れていた。


 視線が滲んできて、紙の文字がぼやけた。


「なんで……できないんだろ……」


 ゆっくりと深呼吸をして、涙を吸い込むようにまばたきを繰り返す。


 できない自分が悔しい。

 情けない。

 ……それでも、諦めたくなかった。


 紬は、もう一度スマホを手に取り、録音ボタンにそっと指を伸ばした。


「次の班、準備お願いしまーす……っ」


 音が震えていても、言葉が詰まっても、

 その声には、確かに「前に進もう」とする意志が宿っていた。


 窓の外、夕暮れの空に一番星が光り始める。

 その光に見守られるように、紬は何度もノートを開き、台詞を書き写していった。


 机の上には、何冊かのノートが広がっていた。

 その中の一冊。罫線の間に細かい字がびっしりと書かれている。


 ——「緊張してもいい。声が震えても、逃げ出さなければいい」

 ——「玲奈ちゃんの前で、ちゃんと話せた。あれは、偶然じゃない」

 ——「悠真くんは、私を見捨てなかった。だから、私も私を見捨てない」


 紬は、ページをめくりながら、書き込んだ言葉を目で追っていた。

 書いているときは、必死だった。

 声が出なかった日の夜、自分を責めて涙を流したその直後、何かにすがるようにペンを取った。

 まるで、紙の上に「自分がまだ生きてる証」を刻みつけるように。


 ——「逃げたいって思った。でも、逃げる理由も言葉にできなかった」

 ——「玲奈ちゃんに、がっかりされたくない。あの笑顔を壊したくない」


 ページの隅に、震える手で描かれた小さな花の絵。

 それは紬がかつてよく描いていた、自分だけの「お守り」のようなモチーフだった。


 その花をじっと見つめたあと、彼女はそっとノートを閉じた。


「……もう少しだけ、頑張ろう」


 呟いた声は小さかったけれど、確かに響いた。

 壁の時計の針が、午後六時を指していた。

 夕暮れの光が部屋のカーテン越しに差し込み、ノートの表紙を淡く照らしていた。


 次にページを開くとき、そこには——どんな言葉が綴られるのだろうか。

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