第七章 文化祭、はじまりのページ
◇
文化祭まで、あと一週間。
日が傾き始めた午後、紬はリビングのテーブルにプリントの束を広げていた。
各クラスの出し物一覧、体育館ステージのタイムスケジュール、模擬店の配置図。どれも母が学校から持ち帰ってきてくれたものだった。
「……こんなに、たくさん……」
ページをめくるたびに、内容の密度に目が回りそうになる。それでも、彼女は鉛筆を握り直し、気になった箇所に印をつけていった。
たどたどしい字で、「模擬店 看板係?」「演劇部は外?」「音響機材 どこ?」と書かれたメモが、プリントの余白を埋めていく。
数日前までは、こんなことすら考えられなかったのに。今はこうして「何か手伝いたい」と思えるようになっていた。
そんなときだった。
「高坂さん、いるー?」
玄関から聞こえてきた明るい声に、紬は一瞬驚いて立ち上がった。
「……あれ、紬ちゃん?」
顔をのぞかせたのは、文化部の中心メンバーの一人、倉持玲奈だった。
黒髪をポニーテールにまとめた彼女は、いつもエネルギッシュで、学年でもひときわ目立つ存在だった。
「ごめんね、急に。悠真くんから聞いたの。文化祭のことで、何か手伝いたいって」
「あ……うん」
返事はしたものの、喉が少し乾いていることに気づいた。こんなふうに、学校の人が直接来てくれるなんて、初めてのことだった。
玲奈は靴を脱ぎながら、手に持っていたファイルを広げた。
「これ、実行委員から配られてる作業シート。クラスや部活の分担とか、細かく書いてあるんだ。手伝ってくれるなら、情報まとめ役とかどうかなって思って」
「……情報、まとめ……」
「うん、たとえば『誰がどこにいるか』とか、『必要な物が足りてるか』とか、そういうの。家からでもできるし、電話とかLINEでやり取りできるし」
玲奈の言葉は、まるでこちらの不安を見透かしているようだった。
無理に外へ連れ出そうとはせず、でも、繋がりをくれるような――そんな提案。
紬は少しだけ視線を落とした。テーブルに散らばるプリントの束。自分が印をつけた箇所。
(……もしかして、私でも、できるかもしれない)
「……やってみたい、です」
そう言った自分の声は、小さかったけれど、確かなものだった。
玲奈は目を細めて笑った。
「よかった。じゃあ、一緒に作戦立てよっか」
夕暮れの光が部屋に差し込み、ふたりの影をゆっくりと伸ばしていった。
◇
「じゃあ、読み合わせ、いくねー!」
部室に集まった演劇部のメンバーたちが、それぞれ脚本を手に取り、軽く返事を返す。
倉持玲奈の明るい掛け声に続いて、練習用の机が軽く動かされ、体育館ステージを模した即席の立ち位置が決まっていく。
その場の隅っこに、小さく紬の姿があった。
台詞を読むわけではない。
彼女が担当しているのは、ステージ裏のタイミング調整と、進行表の作成。
しかし、演劇部の雰囲気に少しでも馴染もうと、今日は現地での様子を確認しに来ていた。
(……すごい、声、大きい)
玲奈をはじめ、部員たちは自信たっぷりにセリフを読み上げ、時折アドリブすら交えながら場面を進めていく。
空気の振動が、どこか自分だけを避けて流れているようで――
「……高坂さん、大丈夫?」
気づけば、玲奈が心配そうに覗き込んでいた。
「えっ、あ……ごめんなさい。ちゃんと見てます、えっと……次の照明タイミングは……」
台本の進行表を指差す指が、わずかに震える。
(うまく、話せない……)
大勢の視線があるわけでもない。誰も彼女を責めているわけでもない。
けれど、自分の存在が、その場に『異物』のように感じられた。
「無理しなくていいよ。ここにいてくれるだけでも助かるし、いつでも外して大丈夫だからね」
玲奈の声は優しく、それがまた、紬の胸に刺さる。
(……わたし、何してるんだろう)
帰り道。
校舎を出たあと、いつものように悠真が迎えに来ていた。
「おつかれ。……顔、ちょっと赤いね」
「ううん、大丈夫。ちょっと、恥ずかしいだけ……」
かすれそうな声でそう言った紬の横で、悠真はそれ以上深く追求しなかった。
ただ、その歩幅を紬に合わせ、ゆっくりと家路を辿った。
その静けさが、なによりも救いだった。
◇
その日の夕方、紬は久しぶりに疲れを感じながらも、充実した心持ちで部屋に戻ってきた。
倉持玲奈との打ち合わせ、資料の整理、そして初めて他者と交わした意見交換。どれも彼女にとっては未知の領域であり、同時に「社会」との繋がりを思い出させる時間だった。
だが、それだけでは済まなかった。
夕食後、再び演劇部の通し稽古の録音データが送られてきた。
「……今日の分、確認しとこう」
再生ボタンを押すと、文化部のメンバーたちの朗読が流れ始める。抑揚のついた台詞、場面転換の効果音、背景に流れるBGM。
それらが紬の部屋の静けさの中に響き、彼女の胸の奥に何かを置いていく。
ふと、彼女は思い出す。昼間、玲奈が悠真の名前を呼んだときのこと。
「……悠真くん、って……呼んでたよね」
胸の奥がきゅっと鳴った。小さな、小さな波紋。でも、それは確かに彼女の中で広がっていった。
嫉妬。そんな感情を、自分が抱いたことに気づいてしまう。
「……私、なに言ってるんだろ」
そんなこと、思いたくなかった。
だけど、彼はずっと自分のそばにいてくれて、笑ってくれて、助けてくれて。
その彼が、他の誰かに名前を呼ばれ、自然に返事をしている。
その光景を想像するだけで、胸の奥がざわついた。
けれど。
「……違う。そんなの、今は考えちゃだめ」
小さく首を振って、手元のメモ帳を開いた。
今日の確認事項、明日の作業、玲奈との連絡予定――その一つ一つに、彼女は目を通していく。
自分の気持ちに押し流されないように。
今はまだ、心が揺れている場合じゃない。
彼に守られてばかりの自分を、少しでも変えていきたいから。
「明日は……文化部の必要物資リスト、まとめよう」
そっと呟いたその声は、小さく震えていたが、
それでも確かに、前を向こうとする意志があった。
カーテンの隙間から月明かりが差し込み、
彼女のノートに静かに重なった。
◇
文化祭まで、あと五日。
紬は自室の机に向かって、そっとノートを開いた。
ページの右上に、小さく「セリフ練習」と書かれた文字。その下には、何度も書いては消されたような跡が重なっている。
「えっと……『次の班、準備お願いしまーす』……」
小さな声が、部屋の静けさに溶けていった。
たったこれだけのセリフなのに、喉がうまく開かない。口の中が乾いて、舌が思うように動かない。
何度も練習しているのに、録音して聞き返すたびに、声が震えていたり、間が不自然だったりする。思わず眉をひそめて再生を止め、スマホを伏せた。
「だめだ……全然だめ……」
指先が震えている。
膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
——やりたいと思ったのは、自分なのに。
——倉持さんにあんなに丁寧に言ってもらったのに。
やらなきゃ、やらなきゃと思えば思うほど、身体が硬くなっていく。
頭の中で、練習のときの玲奈の明るい声が響く。
(あの子、すごいな……ちゃんと、みんなの前で笑って……)
ベッドの上に投げ出された台本。
何度も開いて、ページの角が折れていた。
視線が滲んできて、紙の文字がぼやけた。
「なんで……できないんだろ……」
ゆっくりと深呼吸をして、涙を吸い込むようにまばたきを繰り返す。
できない自分が悔しい。
情けない。
……それでも、諦めたくなかった。
紬は、もう一度スマホを手に取り、録音ボタンにそっと指を伸ばした。
「次の班、準備お願いしまーす……っ」
音が震えていても、言葉が詰まっても、
その声には、確かに「前に進もう」とする意志が宿っていた。
窓の外、夕暮れの空に一番星が光り始める。
その光に見守られるように、紬は何度もノートを開き、台詞を書き写していった。
机の上には、何冊かのノートが広がっていた。
その中の一冊。罫線の間に細かい字がびっしりと書かれている。
——「緊張してもいい。声が震えても、逃げ出さなければいい」
——「玲奈ちゃんの前で、ちゃんと話せた。あれは、偶然じゃない」
——「悠真くんは、私を見捨てなかった。だから、私も私を見捨てない」
紬は、ページをめくりながら、書き込んだ言葉を目で追っていた。
書いているときは、必死だった。
声が出なかった日の夜、自分を責めて涙を流したその直後、何かにすがるようにペンを取った。
まるで、紙の上に「自分がまだ生きてる証」を刻みつけるように。
——「逃げたいって思った。でも、逃げる理由も言葉にできなかった」
——「玲奈ちゃんに、がっかりされたくない。あの笑顔を壊したくない」
ページの隅に、震える手で描かれた小さな花の絵。
それは紬がかつてよく描いていた、自分だけの「お守り」のようなモチーフだった。
その花をじっと見つめたあと、彼女はそっとノートを閉じた。
「……もう少しだけ、頑張ろう」
呟いた声は小さかったけれど、確かに響いた。
壁の時計の針が、午後六時を指していた。
夕暮れの光が部屋のカーテン越しに差し込み、ノートの表紙を淡く照らしていた。
次にページを開くとき、そこには——どんな言葉が綴られるのだろうか。