第六章 ゆっくりと解けていく日常
◇
朝。
紬は久しぶりに、カーテンを自分で開けた。
一気に部屋に差し込んでくる光に、思わず目を細める。
眩しさではない。
どこか、くすぐったいような違和感。
(……本当に、朝って明るいんだ)
そんな当たり前のことすら、今の彼女には新鮮だった。
机の上は、前夜に少し整えたままの状態が保たれていた。
それだけで、部屋の空気が違って感じられる。
「……もうちょっとだけ、やってみよう」
自分の声に、自分でうなずく。
昨日の「やってみよう」は布団の中の独り言だったけれど、
今日のそれは、確かに体を動かす意思と結びついていた。
◇
本棚から、教科書を取り出してみる。
ページを開くと、手が止まった。
(……中学の内容じゃん)
そう、彼女が高校に入ってから手をつけた教科書はほとんどなくて、
いつか「いつか読もう」と思ってしまい込んでいたそれらが、
今になってようやく開かれた。
書き込みのないページ。
何も貼られていない付箋。
でも、ページのすみに押された「1年1学期」の印字が、
確かに彼女が「在籍している高校生」であることを証明してくれていた。
「……私、まだここにいていいんだ」
ぼそりと漏れたその声が、部屋の空気を少しだけ動かす。
◇
掃除機をかけようか――と思ったけれど、それは少し先に取っておくことにした。
今日は、机の中をもう少し片づけて、
洗い物を一度キッチンに持っていくくらいで、ちょうどいい。
急がない。
全部きれいにしなくてもいい。
「今日できることを、ひとつだけやる」
そう決めたことで、心の中に小さな「安定」が生まれた気がした。
◇
その日の昼、悠真からメッセージが届いた。
〈調子どう?〉
〈今日のご飯、何にしようか迷ってる〉
そんな何気ない一文に、紬はふふっと笑った。
〈机、ちょっとだけ片づけた〉
〈あと、洗い物もした。えらい?〉
しばらくして返ってきたのは、こうだった。
〈すごくえらい。あとでご褒美の卵焼きな〉
読んだ瞬間、胸の奥がふわっと温かくなった。
◇
ゆっくりでも、いい。
少しずつでも、変わっていけるなら。
今日できたことを、ちゃんと「できた」って思えるだけで――
(……私、もう少し、毎日を信じてみたい)
そんな気持ちが、春の光と一緒に、彼女の部屋を包んでいた。
◇
ある日、母が食卓でふと口にした。
「文化祭、今年もやるみたいよ。生徒の参加も自由になってきたって、学校から連絡が来たわ」
「……文化祭?」
聞き慣れた言葉なのに、紬の中ではどこか遠い出来事のように響いた。
誰かと何かを作る。
笑い合う。
同じ空間を共有する。
――それらすべてが、今の自分にはまだ、遠くてまぶしい世界だった。
けれど、母の口調は、どこか自然だった。
「無理にとは言わないけど……“準備だけ手伝ってみる”っていう子もいるって。
担当の先生が、希望があれば案内してくれるって言ってたわ」
“準備だけ”
その言葉が、妙に心に残った。
◇
その週末、紬は勇気を出して、学校の生徒会サイトにログインしてみた。
「準備スタッフ募集」のバナーが小さく揺れている。
クリックすると、申し込みフォームと、名前が並んでいた。
何人かの名前には見覚えがあった。
そして、その中に――
倉持 玲奈
という名前を見つけた瞬間、紬の心が一瞬だけ跳ねた。
◇
玲奈。
中学一年のとき、隣のクラスだった。
廊下で何度かすれ違ったことがあって、体育祭の練習で一緒に水を配ったことがある。
深く話したことはない。
でも、そのとき「ありがとう」と笑ってくれたのを、紬はずっと覚えていた。
あの頃、誰の顔も見られなかった日々の中で、
彼女だけが「無理に距離を詰めてこなかった」ことが、妙に心に残っていたのだ。
◇
結局、申請フォームには名前を書けなかった。
けれどその夜、久しぶりに手帳を開いて、ページの隅にこう書いた。
『文化祭スタッフ? → 倉持さん、まだ同じ空気?』
手帳を閉じると、胸の奥に、かすかな緊張と期待が同時に芽生えた。
◇
翌週。
悠真が、コンビニの紙袋を持って紬の家にやってきた。
「文化祭、気になる?」
「……ちょっとだけ。でも、こわい」
「そっか。無理はしなくていい。でも、もしその気になったら――一緒に準備見に行く?」
その言葉に、紬は目を見開いた。
「……行く、かも。まだ“かも”だけど」
「“かも”で十分。俺は、その“かも”を待つから」
彼の言葉は、いつもそうだ。
一歩も前に出させないけれど、後ろにも引かせない。
ちょうどよくて、心地よくて、でもじんわりと背中を押される。
◇
その夜、紬はもう一度、生徒会ページを開いた。
今度は、迷わず名前を入力した。
高坂 紬――準備ボランティア希望
画面の送信ボタンを押した瞬間、手が震えた。
けれど、それは恐怖だけじゃない。
「ちゃんと、誰かと向き合うの、こわいけど……」
口に出すと、少しだけ実感がわいた。
(もし、あの人とまた話せたら――)
その“もし”が、まだ小さな芽でも、
きっと、未来の扉をノックする音になってくれる気がした。
◇
文化祭準備ボランティア申請フォームを送ってから二日。
紬の部屋には、穏やかな沈黙と、微かな変化があった。
机の上には、母が置いてくれた学校の案内プリント。
横には、久しぶりに開いたノートと、少しだけ書き込まれた「やりたいことリスト」。
そこに、ひらがなで一行――
『ぶんかさい、みんなのじゃまにならないようにてつだう』
丁寧に、時間をかけて書いた。
まるで自分に言い聞かせるように。
(……邪魔にならない、だけじゃなくて)
紬はその行の下に、そっと付け足した。
『少しでも、誰かの役に立てたら、うれしい』
言葉にすることで、少しだけ前に進んだ気がした。
◇
その夜。
悠真が、いつものように玄関に立っていた。
小さな手提げ袋には、紬の好きなフルーツゼリーが入っている。
「おじゃまします」
リビングまで導かれたあと、彼は何気なく声をかけた。
「……最近、部屋の空気変わったよね」
「え?」
「うん。なんか、“これから”の匂いがする」
紬は少しだけ照れたように笑った。
「そんな匂いするの?」
「俺にはする。……何か始まる前の、静かな期待の匂い」
その言葉に、紬の胸の奥で、ふわっと何かが弾けた。
(期待、か……)
◇
ゼリーを食べ終えたあと、彼女は勇気を出して口を開いた。
「……文化祭、ちょっと手伝ってみることにした」
「……ほんと?」
「うん。準備だけ、だけど。……倉持さんって人がいて、中学のとき、ちょっとだけ知ってて」
「倉持さん……ああ、あの玲奈って子かな。生徒会の副代表やってたはず」
紬の表情が一瞬こわばったが、悠真はすぐに言葉を継いだ。
「しっかりしてるけど、ガツガツした感じじゃない。話すと落ち着くタイプ。……合うと思う」
そのさりげないフォローに、紬は自然と肩の力を抜いた。
「……じゃあ、ちょっとだけ信じてみる」
「うん。無理しないで。でも、そうやって自分で選んでることが、すごく大事だと思う」
◇
その夜、ノートのリストにもう一行、追加された。
『ぶんかさいに行けたら、あの教室、少し好きになれるかもしれない』
書いたあとの指先は震えていたけれど、
その震えは、きっと怖さよりも――「ほんの少しの希望」のほうが、強かった。
◇
「倉持さん……ああ、あの玲奈って子かな。」
悠真のその言葉が、胸のどこかに小さく刺さった。
(……れな、って……呼び捨て?)
別におかしくない。中学のときの同級生なら、名前で呼び合うことくらいある。
それに、悠真はそんなに深く考えずに言っただけだって、分かってる。
でも。
(なんで、ちょっとだけ、ざわっとしたんだろう)
心の奥が、ぎゅっとなる。
彼が悪いわけじゃない。
玲奈さんもきっと、いい人なんだろう。
だからこそ、余計に、自分が情けなく思えた。
(……私、まだこんなふうに、勝手に嫉妬してるんだ)
自分に自信がないから。
何もできないくせに、大切にされたいなんて、欲張ってしまうから。
そんな自分が、いちばん嫌いだった。
(……でも、変わりたいって思ったんじゃなかったの?)
目の前の机には、明日からの文化祭準備のためにまとめた資料が置いてある。
プリントされたチェックリストに、彼女は小さく丸をつけた。
「“役に立ちたい”って書いたんだもんね……」
ふっと息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。
(……人と比べるより、昨日の自分と比べていたい)
(そう思える自分になりたい)
嫉妬は、誰かを悪く思う感情じゃなくて、
「本当はもっと、近づきたい」っていう、願いの裏返し。
それを責めるより、前に進む力にしたい。
そんな想いを胸に抱きながら、紬はまたひとつ、新しい一歩を踏み出していた。