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第六章 ゆっくりと解けていく日常


朝。


紬は久しぶりに、カーテンを自分で開けた。

一気に部屋に差し込んでくる光に、思わず目を細める。


眩しさではない。

どこか、くすぐったいような違和感。


(……本当に、朝って明るいんだ)


そんな当たり前のことすら、今の彼女には新鮮だった。


机の上は、前夜に少し整えたままの状態が保たれていた。

それだけで、部屋の空気が違って感じられる。


「……もうちょっとだけ、やってみよう」


自分の声に、自分でうなずく。

昨日の「やってみよう」は布団の中の独り言だったけれど、

今日のそれは、確かに体を動かす意思と結びついていた。



本棚から、教科書を取り出してみる。


ページを開くと、手が止まった。


(……中学の内容じゃん)


そう、彼女が高校に入ってから手をつけた教科書はほとんどなくて、

いつか「いつか読もう」と思ってしまい込んでいたそれらが、

今になってようやく開かれた。


書き込みのないページ。

何も貼られていない付箋。

でも、ページのすみに押された「1年1学期」の印字が、

確かに彼女が「在籍している高校生」であることを証明してくれていた。


「……私、まだここにいていいんだ」


ぼそりと漏れたその声が、部屋の空気を少しだけ動かす。



掃除機をかけようか――と思ったけれど、それは少し先に取っておくことにした。


今日は、机の中をもう少し片づけて、

洗い物を一度キッチンに持っていくくらいで、ちょうどいい。


急がない。

全部きれいにしなくてもいい。


「今日できることを、ひとつだけやる」


そう決めたことで、心の中に小さな「安定」が生まれた気がした。



その日の昼、悠真からメッセージが届いた。


〈調子どう?〉

〈今日のご飯、何にしようか迷ってる〉


そんな何気ない一文に、紬はふふっと笑った。


〈机、ちょっとだけ片づけた〉

〈あと、洗い物もした。えらい?〉


しばらくして返ってきたのは、こうだった。


〈すごくえらい。あとでご褒美の卵焼きな〉


読んだ瞬間、胸の奥がふわっと温かくなった。



ゆっくりでも、いい。

少しずつでも、変わっていけるなら。


今日できたことを、ちゃんと「できた」って思えるだけで――


(……私、もう少し、毎日を信じてみたい)


そんな気持ちが、春の光と一緒に、彼女の部屋を包んでいた。



ある日、母が食卓でふと口にした。


「文化祭、今年もやるみたいよ。生徒の参加も自由になってきたって、学校から連絡が来たわ」


「……文化祭?」


聞き慣れた言葉なのに、紬の中ではどこか遠い出来事のように響いた。

誰かと何かを作る。

笑い合う。

同じ空間を共有する。


――それらすべてが、今の自分にはまだ、遠くてまぶしい世界だった。


けれど、母の口調は、どこか自然だった。


「無理にとは言わないけど……“準備だけ手伝ってみる”っていう子もいるって。

 担当の先生が、希望があれば案内してくれるって言ってたわ」


“準備だけ”


その言葉が、妙に心に残った。



その週末、紬は勇気を出して、学校の生徒会サイトにログインしてみた。

「準備スタッフ募集」のバナーが小さく揺れている。


クリックすると、申し込みフォームと、名前が並んでいた。

何人かの名前には見覚えがあった。


そして、その中に――


倉持くらもち 玲奈れな

という名前を見つけた瞬間、紬の心が一瞬だけ跳ねた。



玲奈。


中学一年のとき、隣のクラスだった。

廊下で何度かすれ違ったことがあって、体育祭の練習で一緒に水を配ったことがある。


深く話したことはない。

でも、そのとき「ありがとう」と笑ってくれたのを、紬はずっと覚えていた。


あの頃、誰の顔も見られなかった日々の中で、

彼女だけが「無理に距離を詰めてこなかった」ことが、妙に心に残っていたのだ。



結局、申請フォームには名前を書けなかった。

けれどその夜、久しぶりに手帳を開いて、ページの隅にこう書いた。


『文化祭スタッフ? → 倉持さん、まだ同じ空気?』


手帳を閉じると、胸の奥に、かすかな緊張と期待が同時に芽生えた。



翌週。


悠真が、コンビニの紙袋を持って紬の家にやってきた。


「文化祭、気になる?」


「……ちょっとだけ。でも、こわい」


「そっか。無理はしなくていい。でも、もしその気になったら――一緒に準備見に行く?」


その言葉に、紬は目を見開いた。


「……行く、かも。まだ“かも”だけど」


「“かも”で十分。俺は、その“かも”を待つから」


彼の言葉は、いつもそうだ。

一歩も前に出させないけれど、後ろにも引かせない。


ちょうどよくて、心地よくて、でもじんわりと背中を押される。



その夜、紬はもう一度、生徒会ページを開いた。


今度は、迷わず名前を入力した。


高坂 紬――準備ボランティア希望


画面の送信ボタンを押した瞬間、手が震えた。

けれど、それは恐怖だけじゃない。


「ちゃんと、誰かと向き合うの、こわいけど……」


口に出すと、少しだけ実感がわいた。


(もし、あの人とまた話せたら――)


その“もし”が、まだ小さな芽でも、

きっと、未来の扉をノックする音になってくれる気がした。



文化祭準備ボランティア申請フォームを送ってから二日。

紬の部屋には、穏やかな沈黙と、微かな変化があった。


机の上には、母が置いてくれた学校の案内プリント。

横には、久しぶりに開いたノートと、少しだけ書き込まれた「やりたいことリスト」。


そこに、ひらがなで一行――


『ぶんかさい、みんなのじゃまにならないようにてつだう』


丁寧に、時間をかけて書いた。

まるで自分に言い聞かせるように。


(……邪魔にならない、だけじゃなくて)


紬はその行の下に、そっと付け足した。


『少しでも、誰かの役に立てたら、うれしい』


言葉にすることで、少しだけ前に進んだ気がした。



その夜。


悠真が、いつものように玄関に立っていた。

小さな手提げ袋には、紬の好きなフルーツゼリーが入っている。


「おじゃまします」


リビングまで導かれたあと、彼は何気なく声をかけた。


「……最近、部屋の空気変わったよね」


「え?」


「うん。なんか、“これから”の匂いがする」


紬は少しだけ照れたように笑った。


「そんな匂いするの?」


「俺にはする。……何か始まる前の、静かな期待の匂い」


その言葉に、紬の胸の奥で、ふわっと何かが弾けた。


(期待、か……)



ゼリーを食べ終えたあと、彼女は勇気を出して口を開いた。


「……文化祭、ちょっと手伝ってみることにした」


「……ほんと?」


「うん。準備だけ、だけど。……倉持さんって人がいて、中学のとき、ちょっとだけ知ってて」


「倉持さん……ああ、あの玲奈って子かな。生徒会の副代表やってたはず」


紬の表情が一瞬こわばったが、悠真はすぐに言葉を継いだ。


「しっかりしてるけど、ガツガツした感じじゃない。話すと落ち着くタイプ。……合うと思う」


そのさりげないフォローに、紬は自然と肩の力を抜いた。


「……じゃあ、ちょっとだけ信じてみる」


「うん。無理しないで。でも、そうやって自分で選んでることが、すごく大事だと思う」



その夜、ノートのリストにもう一行、追加された。


『ぶんかさいに行けたら、あの教室、少し好きになれるかもしれない』


書いたあとの指先は震えていたけれど、

その震えは、きっと怖さよりも――「ほんの少しの希望」のほうが、強かった。



「倉持さん……ああ、あの玲奈って子かな。」


悠真のその言葉が、胸のどこかに小さく刺さった。


(……れな、って……呼び捨て?)


別におかしくない。中学のときの同級生なら、名前で呼び合うことくらいある。

それに、悠真はそんなに深く考えずに言っただけだって、分かってる。


でも。


(なんで、ちょっとだけ、ざわっとしたんだろう)


心の奥が、ぎゅっとなる。

彼が悪いわけじゃない。

玲奈さんもきっと、いい人なんだろう。


だからこそ、余計に、自分が情けなく思えた。


(……私、まだこんなふうに、勝手に嫉妬してるんだ)


自分に自信がないから。

何もできないくせに、大切にされたいなんて、欲張ってしまうから。


そんな自分が、いちばん嫌いだった。


(……でも、変わりたいって思ったんじゃなかったの?)


目の前の机には、明日からの文化祭準備のためにまとめた資料が置いてある。

プリントされたチェックリストに、彼女は小さく丸をつけた。


「“役に立ちたい”って書いたんだもんね……」


ふっと息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。


(……人と比べるより、昨日の自分と比べていたい)

(そう思える自分になりたい)


嫉妬は、誰かを悪く思う感情じゃなくて、

「本当はもっと、近づきたい」っていう、願いの裏返し。


それを責めるより、前に進む力にしたい。


そんな想いを胸に抱きながら、紬はまたひとつ、新しい一歩を踏み出していた。



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