第五章 閉じ込めたもの、語れないままの影
◇
「……やっぱり、あのときのことが、まだ根っこにあるんでしょうか」
静かな声でそう切り出したのは、紬の母だった。
ダイニングのテーブル越し、彼女の目には疲労と心配が滲んでいた。
悠真は、背筋を伸ばしてうなずいた。
「……そうだと思います」
その場には、もう一人、心療内科医であり家族カウンセラーでもある女性――川嶋医師が同席していた。
定期的に紬の様子を聞き取りに来ており、今日は本人の同意を得て、悠真も招かれていた。
「高坂さん本人から、明確な言葉が出てこない限りは断言はできません。
でも、“外に出た後に急激に気持ちが沈む”という反応が続いているなら、
それは“恐怖の再体験”に近い状態かもしれません」
川嶋の言葉は、冷静ながらも柔らかかった。
「彼女の中では、たぶん“見られること”=“傷つけられること”に直結している。
何気ない視線や、無関心な沈黙さえも、攻撃に感じられてしまうことがあるんです」
悠真の拳が、そっとテーブルの下で握られる。
思い当たる節が、いくつもあった。
彼女がレジの前で動けなくなった日。
玄関で座り込んだあの午後。
そして何より――最近返ってこなくなった「おはよう」のメッセージ。
「でも、少しでも“安全だ”と感じられる場所があるなら、
彼女の心は、ゆっくりとそこに根を下ろしていきます」
「……安全、ですか」
母がそう繰り返したとき、悠真は迷いなく言った。
「僕、でありたいです。……彼女が、そう思える存在に」
その言葉に、母は驚いたように目を見開き、
医師は、静かに微笑んだ。
「その気持ちが、何よりも薬になるかもしれません」
◇
帰り道、夕方の風が静かに吹いていた。
木漏れ日が揺れて、通り過ぎる車の音が遠くに感じられる。
悠真は歩きながら、何度も思い返していた。
――“恐怖の再体験”
――“見られることが、傷になる”
でも、それでも彼女は「外に出よう」としてくれた。
誰にも言わず、誰のせいにもせず、自分で選んだ。
その勇気を、誰かが「意味がない」と笑うなら、
自分は何度でも、そのたった一歩を守りたいと思った。
彼女がいつか話してくれる日が来るまで、
今は、言葉にならない想いごと、黙って抱きしめることしかできない。
でも、それでいい――そう、心から思っていた。
◇
その夜、紬はなかなか眠れなかった。
目を閉じるたび、脳裏の奥に引きずり出されるものがあった。
コンビニの音。
レジの「いらっしゃいませ」
そして、それとは違う――もっと、冷たく尖った音。
カツン、と床を鳴らす靴音。
誰かの咳払い。
机を引く音。
それらは、無数の記憶の断片となって、静かに夢の中へと姿を変えていった。
◇
彼女は中学の教室にいた。
時計の針は進まず、窓の外はいつまでも曇天のまま。
「ねえ、高坂さんって、なんか……無理して笑ってない?」
「わかる~、なんかウケ狙ってる感じ」
「空気読めないよね」
その声が、教室のどこからともなく降ってくる。
誰が言ったかもわからない。
けれど、そのすべてが自分に向けられているのだけは、確かだった。
机の上に置いたノートが、風もないのにめくられていく。
誰かが後ろから笑っている。
イスの脚が、ガタリと鳴る。
誰かが立ち上がる音。
「またアイツ、先生の前では猫かぶってるし」
そう言ったのが誰だったか、いまだに思い出せない。
でも、その言葉がどれほど自分を壊したのか、体は覚えていた。
◇
夢の中で、紬は口を開こうとした。
「……やめてって、言いたい」
でも声が出ない。喉が締め付けられたように、言葉が漏れない。
代わりに、自分の机の上に誰かが投げた水筒の音が、
耳の奥でガシャンと響いた。
誰も謝らない。誰も目を合わせない。
ただ、自分だけが何か間違っているみたいに、空気が流れていく。
◇
――その瞬間、目が覚めた。
喉の奥に苦い感覚が残っていた。
呼吸が浅くて、胸がつかえて、涙が頬に伝っていた。
(……また、だ)
何度も何度も、繰り返し見る夢。
でも今夜のそれは、妙に生々しかった。
まるで、心の奥に貼りついていた古傷が、
少しだけ剝がれて、膿を流し始めたような――そんな感覚だった。
◇
スマホの画面を見つめながら、紬はゆっくりと息を整える。
何かを言いたい気持ちがあるのに、それがまだ形にならない。
(……どうして、今さらこんな夢を見るの)
もう乗り越えたと思っていた。
外に出られたから、変われたと思っていた。
でも、それはまだ「夢の中では」壊れていなかった。
時間の止まった教室の中で、彼女の心はまだ、置き去りにされていた。
◇
朝方、眠りの浅いまま布団にくるまっていた紬のもとに、スマホが震えた。
〈おはよう。昨日、よく眠れた?〉
〈……今日は、少しだけ声が聞きたい〉
悠真からのメッセージだった。
一文字一文字が、まるで布団の隙間から差し込む光のように、じわじわと彼女の心に染み込んでくる。
少しの間、画面を見つめたまま、何度も指が入力欄の上を迷った。
でも、送れたのは、たったひと言だけだった。
〈……こわい夢を見た〉
◇
夕方。
「入ってもいい?」
ドア越しの声に、紬はゆっくりと体を起こした。
「……うん」
それだけで、ドアは静かに開いた。
悠真は、変わらぬ穏やかさで部屋に入ってきて、何も言わず、彼女の隣に座った。
部屋には微かに夕日の残り香が漂っていた。
紬は、まだ語る準備ができていなかった。
けれど、彼が「何も聞こうとしない」ことが、今はただただ救いだった。
「……夢の中でね」
言葉が、ふと漏れた。
「……机を、蹴られた音がして……ノート、破られて……」
それ以上は、うまく言葉にならなかった。
ただ、悠真の手がそっと、彼女の手の上に重ねられた。
「……それ、ずっと、ひとりで抱えてたの?」
「……うん」
その答えに、彼は少しだけ目を伏せたあと、こう言った。
「……ありがとう。教えてくれて」
その言葉に、紬は不意に喉の奥が熱くなった。
「……ぜんぜん、強くなんてなれないよ……」
「強くならなくていいよ」
即答だった。
その言葉に、彼女の心が小さく崩れ落ちる。
守られている。
理解されている。
そんな実感が、胸の奥を押し広げていく。
◇
それからしばらく、二人は言葉を交わさなかった。
ただ、夕暮れの部屋の中、沈黙が柔らかく彼らを包んでいた。
「……いつか、全部話せる日が来るのかな」
紬がぽつりと呟いた。
「その日が来るまで、僕は隣にいるから」
その言葉が、まるで約束のように響いた。
◇
その夜。
紬はようやく、夢を見なかった。
代わりに、目を閉じたまま胸に残ったのは、
彼の指先のぬくもりと、何も言わずにそばにいてくれた気配だった。
言葉が届かなくても、想いは伝わる。
そんな夜が、ようやく訪れ始めていた。
◇
夜が明けたあと、紬は、静かに天井を見上げていた。
夢は見なかった。
でも、それが「よかった」と言い切れるわけではなかった。
何も映らなかったということは、何も掴めていないということだから。
ただ、確かにあった。
手の甲に残る、悠真の体温。
隣にいた沈黙のぬくもり。
何も言わなくても、そこにいてくれたという、確かな事実。
(……なんであの人、いつもそうなんだろ)
優しすぎる。
まっすぐすぎる。
そして、ずるいくらいに何も求めない。
だからこそ、紬の胸はきゅっと締め付けられる。
(わたし、ちゃんと立ちたい)
そう思った。
立ち上がることが、彼の優しさへの恩返しになるとは思っていない。
でも――
(せめて、わたし自身のために)
机の上に、いつかのまま放置されたままのノートがある。
栞も曲がって、ページの端が折れている。
引き出しの中は、プリントが無造作に突っ込まれていて、ペンのキャップも閉まっていない。
そういう、誰にも見られない乱れの風景が、
今の自分そのものに見えて、少しだけ、直視する勇気が出てきた。
「……片づけてみようかな」
小さな声。
誰に向けたわけでもない、ただの“言い出してみた言葉”。
でもその言葉が、布団から身体を引っ張り出した。
床に置いたままのスリッパを履く。
クローゼットの奥にしまったタオルを取り出す。
そして、机の上を――手の届くところから、ゆっくりと整えていく。
◇
部屋の空気が、少しずつ変わっていく。
それは見えないけれど、確かに流れ始めた温度だった。
(わたし、何もできないわけじゃない)
そう思えたことが、紬にとっては大きな一歩だった。
カーテンの隙間から入り込んだ朝の光が、
整えた机の上に落ちる。
その光は、昨日までのものとは、ほんの少しだけ違って見えた。