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第五章 閉じ込めたもの、語れないままの影


「……やっぱり、あのときのことが、まだ根っこにあるんでしょうか」


静かな声でそう切り出したのは、紬の母だった。

ダイニングのテーブル越し、彼女の目には疲労と心配が滲んでいた。


悠真は、背筋を伸ばしてうなずいた。


「……そうだと思います」


その場には、もう一人、心療内科医であり家族カウンセラーでもある女性――川嶋医師が同席していた。

定期的に紬の様子を聞き取りに来ており、今日は本人の同意を得て、悠真も招かれていた。


「高坂さん本人から、明確な言葉が出てこない限りは断言はできません。

 でも、“外に出た後に急激に気持ちが沈む”という反応が続いているなら、

 それは“恐怖の再体験”に近い状態かもしれません」


川嶋の言葉は、冷静ながらも柔らかかった。


「彼女の中では、たぶん“見られること”=“傷つけられること”に直結している。

 何気ない視線や、無関心な沈黙さえも、攻撃に感じられてしまうことがあるんです」


悠真の拳が、そっとテーブルの下で握られる。


思い当たる節が、いくつもあった。

彼女がレジの前で動けなくなった日。

玄関で座り込んだあの午後。

そして何より――最近返ってこなくなった「おはよう」のメッセージ。


「でも、少しでも“安全だ”と感じられる場所があるなら、

 彼女の心は、ゆっくりとそこに根を下ろしていきます」


「……安全、ですか」


母がそう繰り返したとき、悠真は迷いなく言った。


「僕、でありたいです。……彼女が、そう思える存在に」


その言葉に、母は驚いたように目を見開き、

医師は、静かに微笑んだ。


「その気持ちが、何よりも薬になるかもしれません」



帰り道、夕方の風が静かに吹いていた。

木漏れ日が揺れて、通り過ぎる車の音が遠くに感じられる。


悠真は歩きながら、何度も思い返していた。


――“恐怖の再体験”

――“見られることが、傷になる”


でも、それでも彼女は「外に出よう」としてくれた。

誰にも言わず、誰のせいにもせず、自分で選んだ。


その勇気を、誰かが「意味がない」と笑うなら、

自分は何度でも、そのたった一歩を守りたいと思った。


彼女がいつか話してくれる日が来るまで、

今は、言葉にならない想いごと、黙って抱きしめることしかできない。


でも、それでいい――そう、心から思っていた。



その夜、紬はなかなか眠れなかった。


目を閉じるたび、脳裏の奥に引きずり出されるものがあった。

コンビニの音。

レジの「いらっしゃいませ」

そして、それとは違う――もっと、冷たく尖った音。


カツン、と床を鳴らす靴音。

誰かの咳払い。

机を引く音。


それらは、無数の記憶の断片となって、静かに夢の中へと姿を変えていった。



彼女は中学の教室にいた。


時計の針は進まず、窓の外はいつまでも曇天のまま。


「ねえ、高坂さんって、なんか……無理して笑ってない?」

「わかる~、なんかウケ狙ってる感じ」

「空気読めないよね」


その声が、教室のどこからともなく降ってくる。


誰が言ったかもわからない。

けれど、そのすべてが自分に向けられているのだけは、確かだった。


机の上に置いたノートが、風もないのにめくられていく。

誰かが後ろから笑っている。


イスの脚が、ガタリと鳴る。

誰かが立ち上がる音。


「またアイツ、先生の前では猫かぶってるし」


そう言ったのが誰だったか、いまだに思い出せない。

でも、その言葉がどれほど自分を壊したのか、体は覚えていた。



夢の中で、紬は口を開こうとした。


「……やめてって、言いたい」


でも声が出ない。喉が締め付けられたように、言葉が漏れない。


代わりに、自分の机の上に誰かが投げた水筒の音が、

耳の奥でガシャンと響いた。


誰も謝らない。誰も目を合わせない。

ただ、自分だけが何か間違っているみたいに、空気が流れていく。



――その瞬間、目が覚めた。


喉の奥に苦い感覚が残っていた。

呼吸が浅くて、胸がつかえて、涙が頬に伝っていた。


(……また、だ)


何度も何度も、繰り返し見る夢。

でも今夜のそれは、妙に生々しかった。


まるで、心の奥に貼りついていた古傷が、

少しだけ剝がれて、膿を流し始めたような――そんな感覚だった。



スマホの画面を見つめながら、紬はゆっくりと息を整える。

何かを言いたい気持ちがあるのに、それがまだ形にならない。


(……どうして、今さらこんな夢を見るの)


もう乗り越えたと思っていた。

外に出られたから、変われたと思っていた。


でも、それはまだ「夢の中では」壊れていなかった。

時間の止まった教室の中で、彼女の心はまだ、置き去りにされていた。



朝方、眠りの浅いまま布団にくるまっていた紬のもとに、スマホが震えた。


〈おはよう。昨日、よく眠れた?〉

〈……今日は、少しだけ声が聞きたい〉


悠真からのメッセージだった。


一文字一文字が、まるで布団の隙間から差し込む光のように、じわじわと彼女の心に染み込んでくる。


少しの間、画面を見つめたまま、何度も指が入力欄の上を迷った。


でも、送れたのは、たったひと言だけだった。


〈……こわい夢を見た〉



夕方。


「入ってもいい?」


ドア越しの声に、紬はゆっくりと体を起こした。


「……うん」


それだけで、ドアは静かに開いた。

悠真は、変わらぬ穏やかさで部屋に入ってきて、何も言わず、彼女の隣に座った。


部屋には微かに夕日の残り香が漂っていた。


紬は、まだ語る準備ができていなかった。

けれど、彼が「何も聞こうとしない」ことが、今はただただ救いだった。


「……夢の中でね」


言葉が、ふと漏れた。


「……机を、蹴られた音がして……ノート、破られて……」


それ以上は、うまく言葉にならなかった。


ただ、悠真の手がそっと、彼女の手の上に重ねられた。


「……それ、ずっと、ひとりで抱えてたの?」


「……うん」


その答えに、彼は少しだけ目を伏せたあと、こう言った。


「……ありがとう。教えてくれて」


その言葉に、紬は不意に喉の奥が熱くなった。


「……ぜんぜん、強くなんてなれないよ……」


「強くならなくていいよ」


即答だった。

その言葉に、彼女の心が小さく崩れ落ちる。


守られている。

理解されている。

そんな実感が、胸の奥を押し広げていく。



それからしばらく、二人は言葉を交わさなかった。


ただ、夕暮れの部屋の中、沈黙が柔らかく彼らを包んでいた。


「……いつか、全部話せる日が来るのかな」


紬がぽつりと呟いた。


「その日が来るまで、僕は隣にいるから」


その言葉が、まるで約束のように響いた。



その夜。


紬はようやく、夢を見なかった。


代わりに、目を閉じたまま胸に残ったのは、

彼の指先のぬくもりと、何も言わずにそばにいてくれた気配だった。


言葉が届かなくても、想いは伝わる。


そんな夜が、ようやく訪れ始めていた。



夜が明けたあと、紬は、静かに天井を見上げていた。


夢は見なかった。

でも、それが「よかった」と言い切れるわけではなかった。


何も映らなかったということは、何も掴めていないということだから。


ただ、確かにあった。

手の甲に残る、悠真の体温。

隣にいた沈黙のぬくもり。

何も言わなくても、そこにいてくれたという、確かな事実。


(……なんであの人、いつもそうなんだろ)


優しすぎる。

まっすぐすぎる。

そして、ずるいくらいに何も求めない。


だからこそ、紬の胸はきゅっと締め付けられる。


(わたし、ちゃんと立ちたい)


そう思った。

立ち上がることが、彼の優しさへの恩返しになるとは思っていない。

でも――


(せめて、わたし自身のために)


机の上に、いつかのまま放置されたままのノートがある。

栞も曲がって、ページの端が折れている。


引き出しの中は、プリントが無造作に突っ込まれていて、ペンのキャップも閉まっていない。


そういう、誰にも見られない乱れの風景が、

今の自分そのものに見えて、少しだけ、直視する勇気が出てきた。


「……片づけてみようかな」


小さな声。

誰に向けたわけでもない、ただの“言い出してみた言葉”。


でもその言葉が、布団から身体を引っ張り出した。


床に置いたままのスリッパを履く。

クローゼットの奥にしまったタオルを取り出す。


そして、机の上を――手の届くところから、ゆっくりと整えていく。



部屋の空気が、少しずつ変わっていく。

それは見えないけれど、確かに流れ始めた温度だった。


(わたし、何もできないわけじゃない)


そう思えたことが、紬にとっては大きな一歩だった。


カーテンの隙間から入り込んだ朝の光が、

整えた机の上に落ちる。


その光は、昨日までのものとは、ほんの少しだけ違って見えた。

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