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第三章 はじめてのコンビニまで


「……こんなに天気のいい日は、どこか行きたくなるよな」


昼下がりの部屋、カーテンの隙間から差し込む光の中で、悠真は何気なくそう呟いた。


その言葉に、ベッドの上で読書していた紬が、ふと顔を上げる。


「……どこかって、どこ?」


「ああ、そうだな……たとえば、コンビニとか」


「……コンビニ……」


その単語に、紬の表情が一瞬だけ強張る。

けれど、それは昨日までのような拒絶ではなく、戸惑い混じりの反応だった。


「……行けるかな」


「行ってみようか。すぐそこの、家の角のところにあるやつ。人も少ない時間だし」


悠真の声は、いつもと変わらず穏やかだった。

強く勧めるでもなく、ただ選択肢をひとつ、そっと差し出しているようだった。


紬は視線を床に落とし、しばらく黙ったまま指を絡める。


(……ベランダには出られた。じゃあ、次は……)


自分でも驚くほど、頭の中に「行けるかもしれない」という気配があった。


怖くないわけじゃない。

でも、少しだけ「やってみたい」という気持ちが、それに勝っていた。


「……行ってみる」


その言葉を聞いた瞬間、悠真の表情が、ほんの少しだけやわらいだ。


「うん。じゃあ、準備しようか」



玄関に立った紬は、心臓が跳ねるような緊張を覚えていた。

スニーカーを履く手が震える。


でも、その隣で悠真がしゃがみこみ、紐をそっと結んでくれた。


「外、まぶしいと思うから、これ」


そう言って、彼が手渡してくれたのは、白いキャップだった。


「……ありがと」


被り慣れない帽子が、どこかくすぐったかった。


ドアノブに手をかける。

深呼吸を一つ。


(……外、か)



「いってきます」


誰に向けたのか、自分でもよくわからなかった。

でも、その小さな声を口にしたとき、玄関の空気がほんの少しだけ軽くなった気がした。


そして、ドアが開いた。


外の光が、一気に二人を包み込む。


光が目にしみて、紬は思わずキャップのつばを下げた。

足元のアスファルトが太陽に照らされて、ぼんやりと白く光っていた。


「……まぶしい」


「日陰に沿って歩こう。ゆっくりでいいよ」


悠真の歩幅は、彼女に合わせて一歩ずつ、確かに刻まれていた。


歩き出すと、思ったよりも世界が広くて――そして、騒がしかった。


風の音、木の葉のざわめき。

通り過ぎる自転車のチェーンの音。

近所の子どもたちの笑い声。


ひとつひとつが、紬の神経に触れてくる。


(こんなに音が……あったんだ)


心臓が早鐘を打つ。

けれど、彼女の手のすぐ横には、悠真の指先があった。


触れそうで、触れない距離。

だけど、その存在だけで、不思議と心が落ち着いた。



家からほんの数分。

でも紬にとっては、まるで遠足のような冒険だった。


「……あれ、もう見えてきた」


角を曲がった先に、白と青の看板が現れた。


コンビニ――そのたった一文字の看板が、これほど大きく見えるなんて、思ってもみなかった。


「無理そうだったら、戻ってもいいからな」


悠真が、ふと立ち止まってそう言った。


紬は一瞬、立ち止まって、深呼吸をした。


そして、小さくうなずく。


「……行ける。今なら、きっと」


彼女の足が、再び前へ進んだ。



自動ドアの前に立ったとき、指先が冷たくなっているのがわかった。


けれど、足を止めることはしなかった。


――ピンポン。


入店のチャイムが鳴った瞬間、

それは、紬の世界がひとつ拡がった合図のように響いた。



ピンポン――という入店音が、やけに大きく響いた気がした。


紬の心臓は、その音に合わせるように一気に跳ね上がる。


(……やっぱり、ちょっと怖い)


コンビニの中は、思っていたよりも静かだった。

お昼を過ぎていたこともあって、客は二人ほど。

でも、それでも彼女には十分すぎる世界だった。


「落ち着いて。無理に歩かなくていいから」


すぐ隣にいる悠真の声が、心の奥まで染み込むようだった。


紬は、ほんの少しだけ頷いて、一歩だけ前に出る。

足元がぐらついた。

床は滑らかで冷たい。

棚に並ぶお菓子やドリンクの色が、視界の中でチカチカと揺れている。


(頭が、ちょっとくらくらする)


けれど、それでも彼女は歩くのをやめなかった。



「好きな飲み物、選んでいいよ」


悠真の声が、冷蔵コーナーの前で響く。


紬は、視線だけでドリンクの棚を眺めた。

どれも見覚えがあるようで、どこか知らないもののように感じる。


「……レモンティー……ある、かな」


「あるよ。これだ」


悠真が手に取ったペットボトルを、そっと彼女に差し出す。

その動作すら、今の紬にはありがたかった。


手を伸ばして受け取る。


けれど、その指先はかすかに震えていた。


「……ありがとう」


「無理しないで、外出たら車の中で飲んでもいいし」


「……うん」


会話はそれだけだった。

けれど、紬の中にはいろんな想いが渦巻いていた。


(歩くだけでこんなに疲れるなんて……)

(でも、来れた。ちゃんと、ここまで来れたんだ)



レジの前に立ったとき、それは訪れた。


「いらっしゃいませー」


明るい女性の店員の声。


その瞬間、紬の呼吸がふっと浅くなる。


(見られてる)


意識の中で、言葉にならない不安が膨らんでいく。

誰も自分のことなんて気にしていない――そう思おうとしても、頭の中は「視線」のことでいっぱいだった。


「大丈夫」


悠真が、レジの前で彼女の背にそっと触れた。

その一瞬、紬の足がまた地面にくっついた気がした。


(……わたしは、ひとりじゃない)


その感覚だけが、彼女をぎりぎりのところで支えていた。


店員はレモンティーと、悠真が手に取ったサンドイッチをスキャンしている。

その音が、妙に機械的で、今の紬には遠い場所の音に感じられた。


「430円になります」


悠真が財布を出すのを横目に見ながら、紬はそっと身を縮めた。

自分の存在が浮いているような、場違いなような――そんな感覚が押し寄せてくる。


でも、そのとき。


「ポイントカードはお持ちですか?」


「あ、ないです」


淡々とやりとりする悠真の声が、静かにその空気を断ち切った。


まるで「ここはいつも通りでいいんだよ」と言っているようで。


紬は、少しだけ目を閉じた。


(……大丈夫。大丈夫。私は今、ここにいる)


買い物袋を受け取った悠真が、店の出口へと歩き出す。


紬もそれに続いた。

足が少しもつれたけど、転ぶことはなかった。


自動ドアが開いて、再び光の中へと踏み出した瞬間、

紬は、息を大きく吐き出した。



「……おつかれ」


店を出たあと、悠真がふっと笑った。


「……こわかった」


「うん。でも、来れた」


「……うん。来れた」


そのやりとりだけで、涙が出そうだった。

言葉を交わすたびに、自分がちゃんとこの世界の中に存在している――そんな感覚が少しずつ形になっていく。


紬は、手に持ったレモンティーを見つめた。


「……飲んでいい?」


「もちろん」


キャップを開けて、一口。


冷たい甘さが喉を通った瞬間、

紬の頬に、涙が一滴だけつたった。


それは、悲しみでも、苦しみでもなかった。


ようやく自分の中に染み込んできた「春」の味だった。




帰り道。

紬はほとんど言葉を発さなかった。


歩けていた。

足は前に進んでいた。

でも、意識の半分はまだコンビニの中に置き去りにされたままだった。


頭がぼんやりとして、風の音が遠くなる。

レモンティーの甘さも、もう記憶の彼方に感じられた。


「無理してない?」


悠真の問いかけに、紬は小さく首を振った。


「……わかんない……でも、だいじょうぶ」


答えになっていない返事。

でも、その不器用な強がりこそが、今の紬の精一杯だった。



家に着いた瞬間、紬は玄関の前でそのままへたりこんだ。


「っ……ごめん、なんか、動けない……」


靴も脱げないまま、彼女はその場にうずくまった。


悠真は慌てず、しゃがみ込んで、彼女の肩に手を添える。


「大丈夫。ほら、深呼吸して。吸って、吐いて……そう、ゆっくり」


その声が、彼女の呼吸のリズムを取り戻していく。


胸の奥に溜まっていた圧力が、少しずつ、吐息と一緒に溶けていくようだった。



しばらくして、ようやく動けるようになった紬は、悠真に支えられて部屋まで戻った。


ベッドに腰を下ろすと、体が重力に引き込まれるように沈んでいった。


「……あのね」


「うん」


「……帰ってこれて、よかった」


そう呟いた紬の声には、ほんの少し涙がにじんでいた。


「うん。……本当に、よく頑張った」


悠真の声もまた、どこか掠れていた。


言葉がなくても伝わる。

今日一日の緊張と達成、そのすべてを分かち合っている空気が、部屋に満ちていた。



「……ありがとう。連れてってくれて」


「……いや、連れてったんじゃなくて、紬が歩いたんだよ」


その返事に、紬はふっと笑った。


笑顔というより、安堵に近い顔だった。


「……そっか。歩いたんだ、私が」


その事実が、じんわりと胸に染みていく。


今日の一歩は、小さくて、歪で、不安定で、途中で泣きそうにもなったけど。


確かに、それは「自分の足」で踏み出した一歩だった。



しばらくベッドに横になったまま、紬は目を閉じていた。


カーテンの向こうで風が揺れている音が、心地よく響いている。


(また……行けるかな)


今日の帰り道、足がふらついたこと。

玄関でへたりこんだこと。


どれも、きっと忘れられない。


でも、それ以上に――


(ちゃんと、帰ってこれた)


この小さな部屋に、自分の居場所があることが、

どこか安心できた。



その夜、いつもより少し早く眠りについた紬は、夢の中でまたあのコンビニを訪れていた。


けれど、そこには誰の視線もなかった。

棚の飲み物はひとつひとつが優しくて、レジの音も穏やかだった。


そして、悠真が笑いながら言った。


「じゃあ、次はもうちょっと遠くまで行ってみようか」


その言葉に、夢の中の彼女は――うん、と、はっきり頷いた。



その翌朝。


いつものように玄関が開く音がして、彼の声が届いた。


「紬、おはよう。……今日は、ゆっくり休んでいいよ」


布団の中で、紬は小さく笑った。


昨日の自分を、今日の自分がちゃんと覚えている。

それが、ほんの少し誇らしかった。

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