第三章 はじめてのコンビニまで
◇
「……こんなに天気のいい日は、どこか行きたくなるよな」
昼下がりの部屋、カーテンの隙間から差し込む光の中で、悠真は何気なくそう呟いた。
その言葉に、ベッドの上で読書していた紬が、ふと顔を上げる。
「……どこかって、どこ?」
「ああ、そうだな……たとえば、コンビニとか」
「……コンビニ……」
その単語に、紬の表情が一瞬だけ強張る。
けれど、それは昨日までのような拒絶ではなく、戸惑い混じりの反応だった。
「……行けるかな」
「行ってみようか。すぐそこの、家の角のところにあるやつ。人も少ない時間だし」
悠真の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
強く勧めるでもなく、ただ選択肢をひとつ、そっと差し出しているようだった。
紬は視線を床に落とし、しばらく黙ったまま指を絡める。
(……ベランダには出られた。じゃあ、次は……)
自分でも驚くほど、頭の中に「行けるかもしれない」という気配があった。
怖くないわけじゃない。
でも、少しだけ「やってみたい」という気持ちが、それに勝っていた。
「……行ってみる」
その言葉を聞いた瞬間、悠真の表情が、ほんの少しだけやわらいだ。
「うん。じゃあ、準備しようか」
◇
玄関に立った紬は、心臓が跳ねるような緊張を覚えていた。
スニーカーを履く手が震える。
でも、その隣で悠真がしゃがみこみ、紐をそっと結んでくれた。
「外、まぶしいと思うから、これ」
そう言って、彼が手渡してくれたのは、白いキャップだった。
「……ありがと」
被り慣れない帽子が、どこかくすぐったかった。
ドアノブに手をかける。
深呼吸を一つ。
(……外、か)
◇
「いってきます」
誰に向けたのか、自分でもよくわからなかった。
でも、その小さな声を口にしたとき、玄関の空気がほんの少しだけ軽くなった気がした。
そして、ドアが開いた。
外の光が、一気に二人を包み込む。
光が目にしみて、紬は思わずキャップのつばを下げた。
足元のアスファルトが太陽に照らされて、ぼんやりと白く光っていた。
「……まぶしい」
「日陰に沿って歩こう。ゆっくりでいいよ」
悠真の歩幅は、彼女に合わせて一歩ずつ、確かに刻まれていた。
歩き出すと、思ったよりも世界が広くて――そして、騒がしかった。
風の音、木の葉のざわめき。
通り過ぎる自転車のチェーンの音。
近所の子どもたちの笑い声。
ひとつひとつが、紬の神経に触れてくる。
(こんなに音が……あったんだ)
心臓が早鐘を打つ。
けれど、彼女の手のすぐ横には、悠真の指先があった。
触れそうで、触れない距離。
だけど、その存在だけで、不思議と心が落ち着いた。
◇
家からほんの数分。
でも紬にとっては、まるで遠足のような冒険だった。
「……あれ、もう見えてきた」
角を曲がった先に、白と青の看板が現れた。
コンビニ――そのたった一文字の看板が、これほど大きく見えるなんて、思ってもみなかった。
「無理そうだったら、戻ってもいいからな」
悠真が、ふと立ち止まってそう言った。
紬は一瞬、立ち止まって、深呼吸をした。
そして、小さくうなずく。
「……行ける。今なら、きっと」
彼女の足が、再び前へ進んだ。
◇
自動ドアの前に立ったとき、指先が冷たくなっているのがわかった。
けれど、足を止めることはしなかった。
――ピンポン。
入店のチャイムが鳴った瞬間、
それは、紬の世界がひとつ拡がった合図のように響いた。
◇
ピンポン――という入店音が、やけに大きく響いた気がした。
紬の心臓は、その音に合わせるように一気に跳ね上がる。
(……やっぱり、ちょっと怖い)
コンビニの中は、思っていたよりも静かだった。
お昼を過ぎていたこともあって、客は二人ほど。
でも、それでも彼女には十分すぎる世界だった。
「落ち着いて。無理に歩かなくていいから」
すぐ隣にいる悠真の声が、心の奥まで染み込むようだった。
紬は、ほんの少しだけ頷いて、一歩だけ前に出る。
足元がぐらついた。
床は滑らかで冷たい。
棚に並ぶお菓子やドリンクの色が、視界の中でチカチカと揺れている。
(頭が、ちょっとくらくらする)
けれど、それでも彼女は歩くのをやめなかった。
◇
「好きな飲み物、選んでいいよ」
悠真の声が、冷蔵コーナーの前で響く。
紬は、視線だけでドリンクの棚を眺めた。
どれも見覚えがあるようで、どこか知らないもののように感じる。
「……レモンティー……ある、かな」
「あるよ。これだ」
悠真が手に取ったペットボトルを、そっと彼女に差し出す。
その動作すら、今の紬にはありがたかった。
手を伸ばして受け取る。
けれど、その指先はかすかに震えていた。
「……ありがとう」
「無理しないで、外出たら車の中で飲んでもいいし」
「……うん」
会話はそれだけだった。
けれど、紬の中にはいろんな想いが渦巻いていた。
(歩くだけでこんなに疲れるなんて……)
(でも、来れた。ちゃんと、ここまで来れたんだ)
◇
レジの前に立ったとき、それは訪れた。
「いらっしゃいませー」
明るい女性の店員の声。
その瞬間、紬の呼吸がふっと浅くなる。
(見られてる)
意識の中で、言葉にならない不安が膨らんでいく。
誰も自分のことなんて気にしていない――そう思おうとしても、頭の中は「視線」のことでいっぱいだった。
「大丈夫」
悠真が、レジの前で彼女の背にそっと触れた。
その一瞬、紬の足がまた地面にくっついた気がした。
(……わたしは、ひとりじゃない)
その感覚だけが、彼女をぎりぎりのところで支えていた。
店員はレモンティーと、悠真が手に取ったサンドイッチをスキャンしている。
その音が、妙に機械的で、今の紬には遠い場所の音に感じられた。
「430円になります」
悠真が財布を出すのを横目に見ながら、紬はそっと身を縮めた。
自分の存在が浮いているような、場違いなような――そんな感覚が押し寄せてくる。
でも、そのとき。
「ポイントカードはお持ちですか?」
「あ、ないです」
淡々とやりとりする悠真の声が、静かにその空気を断ち切った。
まるで「ここはいつも通りでいいんだよ」と言っているようで。
紬は、少しだけ目を閉じた。
(……大丈夫。大丈夫。私は今、ここにいる)
買い物袋を受け取った悠真が、店の出口へと歩き出す。
紬もそれに続いた。
足が少しもつれたけど、転ぶことはなかった。
自動ドアが開いて、再び光の中へと踏み出した瞬間、
紬は、息を大きく吐き出した。
◇
「……おつかれ」
店を出たあと、悠真がふっと笑った。
「……こわかった」
「うん。でも、来れた」
「……うん。来れた」
そのやりとりだけで、涙が出そうだった。
言葉を交わすたびに、自分がちゃんとこの世界の中に存在している――そんな感覚が少しずつ形になっていく。
紬は、手に持ったレモンティーを見つめた。
「……飲んでいい?」
「もちろん」
キャップを開けて、一口。
冷たい甘さが喉を通った瞬間、
紬の頬に、涙が一滴だけつたった。
それは、悲しみでも、苦しみでもなかった。
ようやく自分の中に染み込んできた「春」の味だった。
◇
帰り道。
紬はほとんど言葉を発さなかった。
歩けていた。
足は前に進んでいた。
でも、意識の半分はまだコンビニの中に置き去りにされたままだった。
頭がぼんやりとして、風の音が遠くなる。
レモンティーの甘さも、もう記憶の彼方に感じられた。
「無理してない?」
悠真の問いかけに、紬は小さく首を振った。
「……わかんない……でも、だいじょうぶ」
答えになっていない返事。
でも、その不器用な強がりこそが、今の紬の精一杯だった。
◇
家に着いた瞬間、紬は玄関の前でそのままへたりこんだ。
「っ……ごめん、なんか、動けない……」
靴も脱げないまま、彼女はその場にうずくまった。
悠真は慌てず、しゃがみ込んで、彼女の肩に手を添える。
「大丈夫。ほら、深呼吸して。吸って、吐いて……そう、ゆっくり」
その声が、彼女の呼吸のリズムを取り戻していく。
胸の奥に溜まっていた圧力が、少しずつ、吐息と一緒に溶けていくようだった。
◇
しばらくして、ようやく動けるようになった紬は、悠真に支えられて部屋まで戻った。
ベッドに腰を下ろすと、体が重力に引き込まれるように沈んでいった。
「……あのね」
「うん」
「……帰ってこれて、よかった」
そう呟いた紬の声には、ほんの少し涙がにじんでいた。
「うん。……本当に、よく頑張った」
悠真の声もまた、どこか掠れていた。
言葉がなくても伝わる。
今日一日の緊張と達成、そのすべてを分かち合っている空気が、部屋に満ちていた。
◇
「……ありがとう。連れてってくれて」
「……いや、連れてったんじゃなくて、紬が歩いたんだよ」
その返事に、紬はふっと笑った。
笑顔というより、安堵に近い顔だった。
「……そっか。歩いたんだ、私が」
その事実が、じんわりと胸に染みていく。
今日の一歩は、小さくて、歪で、不安定で、途中で泣きそうにもなったけど。
確かに、それは「自分の足」で踏み出した一歩だった。
◇
しばらくベッドに横になったまま、紬は目を閉じていた。
カーテンの向こうで風が揺れている音が、心地よく響いている。
(また……行けるかな)
今日の帰り道、足がふらついたこと。
玄関でへたりこんだこと。
どれも、きっと忘れられない。
でも、それ以上に――
(ちゃんと、帰ってこれた)
この小さな部屋に、自分の居場所があることが、
どこか安心できた。
◇
その夜、いつもより少し早く眠りについた紬は、夢の中でまたあのコンビニを訪れていた。
けれど、そこには誰の視線もなかった。
棚の飲み物はひとつひとつが優しくて、レジの音も穏やかだった。
そして、悠真が笑いながら言った。
「じゃあ、次はもうちょっと遠くまで行ってみようか」
その言葉に、夢の中の彼女は――うん、と、はっきり頷いた。
◇
その翌朝。
いつものように玄関が開く音がして、彼の声が届いた。
「紬、おはよう。……今日は、ゆっくり休んでいいよ」
布団の中で、紬は小さく笑った。
昨日の自分を、今日の自分がちゃんと覚えている。
それが、ほんの少し誇らしかった。