第二章 ベランダに出る、その一歩
◇
その日、紬は朝からそわそわしていた。
いつもなら、悠真が弁当を届けに来る時間までベッドにいるのが当たり前だった。
けれど今日は、まだ朝の空気が冷たい時間に、布団の中で目を覚ましていた。
心臓が、ほんの少しだけ早く鼓動を打っている。
理由は自分でもわかっていた。
(言おう……今日は、ちゃんと)
彼の気配が階段を上ってくる音が聞こえた瞬間、布団の中で小さく息をのんだ。
「おはよう、紬」
いつもと同じ、優しくて、無理をさせない声。
でも今日は、勇気を出さなきゃいけないって決めていた。
だから――
「……あの、ね」
思わず裏返った声に、悠真の動きがぴたりと止まった。
彼女はそっと布団から起き上がり、毛布を肩にかけたまま、目を合わせずに言った。
「……今日……いっしょに、ベランダに……いてほしいの」
言った瞬間、全身が熱くなる。
手の先がじんじんと震えているのがわかる。
けれど、返ってきた彼の声は、やはり変わらず――
「……うん。わかった。行こう」
それだけだった。
◇
ベランダに出るのは、本当に久しぶりだった。
数えるほどしか外に足を出していないこの一年の中で、たぶん、二回目か三回目。
でも、今日は違う。
今日は、自分の意思で出ようとしている。
そして、彼が隣にいる。
彼の背中を追うようにして、紬はゆっくりと窓を開けた。
風が、肌に触れる。
思っていたよりも冷たくなくて、少しだけ驚く。
「寒くない?」
「……うん、だいじょうぶ」
声は小さく震えていたけれど、それでも逃げなかった。
ベランダには、朝の陽が差し込んでいる。
街の音が聞こえる。遠くの犬の鳴き声、洗濯機のまわる音、車の走る音。
それら全てが、どこか懐かしく、そして――少しだけ怖い。
でも。
(……悠真くんの手が、こんなに近くにある)
その事実だけで、胸がぎゅっとなって、少し、泣きそうになった。
彼女はベランダの端にそっと腰を下ろした。
隣にいる悠真は、何も言わず、ただ同じように座って空を見上げていた。
その沈黙が、心地よかった。
何も言わなくても、彼の存在が、背中を支えてくれている気がした。
「……ねえ」
「ん?」
「……わたしね、春の空が……ちょっとだけ、こわいんだ」
紬の声は、風に乗ってほどけるようだった。
彼女はゆっくりと指先でベランダの柵をなぞる。
「中学のとき、春って、いつも新しいクラスになって……」
「席替えがあって、自己紹介して……」
「そのたびに、わたし、失敗してた気がして……」
悠真は黙って、彼女の話を聞いていた。
彼女の声が、何度か途切れながら、それでも少しずつ、重い蓋を開けていく。
「だから、春って、ちょっとだけ……苦手なの」
そう言った紬の横顔は、どこか寂しげだった。
でもその表情の奥には、言葉にできない感情が渦を巻いていた。
悠真は、そっと答える。
「苦手でも、大丈夫。……今の春は、僕がいるから」
その一言に、紬は思わず目を見開いた。
(いまの春、は……)
胸の奥がじんわりと熱くなった。
あの頃と同じ春じゃない、今は、悠真がいる春――そう思えたことが、嬉しかった。
「……ありがと」
かすれた声でそう呟いて、彼女は顔をそらす。
◇
その日の午後。
母が仕事から帰ってきたとき、ベランダに干された毛布を見て、少しだけ驚いた。
「……紬が、干したの?」
「……うん。ちょっとだけ、外に出たくなったの」
返ってきたその言葉に、母は何も言わず、優しく笑っただけだった。
——それだけで、紬の中に小さな確信が芽生える。
(わたし、きっと……少しずつ、歩いていける)
◇
その夜。
寝る前、彼女は枕元のスマホをそっと手に取った。
メッセージアプリを開いて、ためらいながら文字を打ち込む。
〈今日、来てくれてありがとう〉
〈ベランダ、怖くなかったよ〉
〈また、いっしょに……いようね〉
送信ボタンを押したあと、すぐに通知が返ってくる。
〈もちろん。いつでも、そばにいる〉
その文字を見た瞬間、紬はスマホを胸に抱えて、そっと目を閉じた。
カーテンの向こうには、いつもの夜が広がっていた。
でも、彼女の心の中には、確かにひとつ、
“今の春” が灯り始めていた。
◇
朝食を終えたあと、紬はベッドの上でじっとしていた。
体は起きているのに、まだ、心が何かにしがみついているような感じだった。
でも、今日の光は――なんだか、少し違って見えた。
(……昨日、ベランダに出られたんだ)
たったそれだけのことなのに、胸の奥がふわっと温かくなる。
まるで、自分の中に小さな芽がひとつだけ生まれたみたいだった。
カーテンの隙間から、淡い日差しが差し込んでいる。
柔らかくて、静かで、そして……どこか誘うような気配を含んでいた。
(……もう一度、外に出てみようかな)
布団をめくり、足を床に下ろす。
その動作ひとつひとつが、まだおぼつかなくて、けれど確かだった。
◇
ベランダの窓を開けた瞬間、空気がすうっと流れ込んできた。
少しだけ冷たい。でも、その冷たさが心地よかった。
足元にひなたが広がっている。
昨日は気づかなかったけれど、朝の光がこんなにも優しいことに驚く。
(……太陽って、こんなだったっけ)
裸足のまま、恐る恐る一歩を踏み出す。
床板の感触が、じんわりと足の裏に伝わってくる。
冷たさとぬくもりが混ざり合った、不思議な感覚。
その一歩が、まるで世界と自分の境界を越えるような、大きな意味を持っていた。
——外に、出た。
ただそれだけのことなのに、涙が滲んでくる。
◇
「あ……っ」
風がふわりと髪を撫でた。
その一瞬、彼女は目を閉じる。
耳の奥で、いろんな音が重なっていた。
遠くの車の音。
近くの洗濯物が揺れる音。
鳥のさえずり。
(世界って……こんなに、音があったんだ)
昨日まで閉じていた扉の向こうで、当たり前のように流れていた風景。
それが、今こうして、自分の肌に触れている。
その事実に、彼女の肩がわずかに震えた。
でも、それは恐怖ではなかった。
どこか懐かしくて、心がほどけていくような震えだった。
風の中で、紬はゆっくりと深呼吸をした。
肺の奥まで空気が入っていく感覚が、くすぐったくて、新鮮だった。
「あ……」
小さく声が漏れた。
昨日まで、こんなことができるなんて、想像もしなかった。
ほんの少し外に出ただけで、こんなにも心がざわつくなんて――。
でも、それは決して不快なものではなかった。
まるで、閉じていた窓の奥に、少しだけ春の音が入り込んできたような、そんな気がした。
◇
リビングの奥から、足音が聞こえてくる。
お母さんが、出勤前に様子を見に来たのだろう。
「紬……?」
開いたベランダのドアを見て、少し驚いた声が聞こえた。
紬は振り向かず、そのまま風に髪を揺らしながら答えた。
「……外に、出てみたの」
その声には、ほんの少しだけ、誇らしさが混じっていた。
お母さんはしばらく沈黙して、そして言った。
「……そっか。無理してない?」
「……うん。平気。風が……気持ちいいから」
その返事に、母は何も言わず、そっとキッチンに戻っていった。
◇
ベランダの柵に手をかけて、紬は空を見上げる。
雲が流れていた。
昨日と同じ空なのに、どこか違って見えた。
「……悠真くん、見てるかな」
ぽつりとつぶやいたその声は、風に乗ってどこかへ溶けていった。
彼がいなくても、彼女は今、ひとりでこの場所に立っている。
でも、それは決して「ひとりぼっち」じゃなかった。
——見守られている。そう思えるだけで、世界は少しだけ、優しくなる。
◇
その日の午後。
悠真のスマホに、久しぶりに紬からの写真が届いた。
〈今日の空、すごく綺麗だった〉
〈ベランダ、ちゃんと歩けたよ〉
そのメッセージに、彼は思わず笑みをこぼした。
ベランダの手すり越しに映った春の空。
それは、何よりも彼の心を明るく照らす景色だった。
◇
午後、陽が少しずつ傾き始めた頃。
ベランダに出た紬は、ひとり静かにその景色を眺めていた。
小さなステップを踏んだあとの心は、不思議なほどざわめいていた。
(……戻っても、いいのかな)
ベランダに出ることはできた。
空を見て、風に触れ、母と会話もした。
けれど――
(戻ったら、また……同じになっちゃうんじゃないかな)
そんな不安が、じわじわと胸に広がっていく。
今日、せっかく一歩踏み出せたのに。
それを終わらせてしまうのが、もったいなくて、怖かった。
「……ねえ、もうちょっとだけ、ここにいてもいいかな」
誰にともなく呟いたその声は、自分自身への問いかけのようだった。
◇
ポケットの中のスマホが震えた。
見ると、悠真からのメッセージが届いていた。
〈今日はどうだった?〉
〈疲れてない?〉
短くて、やさしい言葉。
押しつけがましくなくて、だけど気にかけてくれているのが、伝わってくる。
紬はしばらく画面を見つめたまま、返事を打とうとして、やめた。
言葉がうまくまとまらなかったから。
代わりに、カメラを起動して、目の前の風景をそっと撮った。
手すりの向こうに広がる、ほんのり夕焼けが混じり始めた空。
〈……まだ、戻れないの〉
そう一言だけ添えて、送信した。
◇
メッセージを受け取った悠真は、少しだけ驚いた。
紬が「戻れない」と言うのは、きっと物理的なことじゃない。
外に出たことで、
一歩踏み出したことで、
今の自分を――今のこの「時間」を、まだ壊したくないのだと、彼は感じた。
だから、彼はこう返した。
〈じゃあ、もう少しそのままでいよう〉
〈戻るタイミングは、紬が決めていいよ〉
◇
その言葉を見て、紬は唇をぎゅっと結んだ。
声にならない想いが、胸の奥でひとつ、ゆっくりと解けていく。
(……ありがとう)
今、ここにいるこの感覚を、
この空を、風を、音を――全部、ちゃんと「私のもの」として感じていたい。
それが、今日の「勇気の続き」だった。
◇
夕焼けが濃くなって、街に影が伸びる頃。
紬はようやく立ち上がった。
足元は少しふらついたけど、
その歩みには、確かな重みがあった。
そして彼女は、ゆっくりと、ベランダのドアを閉じた。
(また、来よう。……ひとりでも、来られるように)
その決意が、小さな光となって、彼女の心に静かに灯った。