第十一章 風の帰り道、未来の約束
◇
ざわざわとした音が、教室の外から響いてくる。
午後五時を過ぎ、文化祭の喧騒も少しずつ落ち着いてきていた。
飾りつけは少しずつ剥がされ、仮装姿の生徒たちが名残惜しそうに写真を撮っていた。
紬は、教室の隅の椅子に静かに座っていた。
制服の袖がほんの少し汗ばんでいる。頭も、ほんのり熱い。
昼からずっと気を張りっぱなしだったせいか、足に力が入らない。
(でも……ここまで来た)
目の前には、みんなの笑顔。笑い声。
少し前の自分なら、こんな光景を想像するだけで苦しくなっていた。
けれど今は、ほんのり胸が温かい。誇らしくもある。
「……紬、大丈夫?」
声をかけたのは、もちろん悠真だった。
彼の表情はいつもよりほんの少し、心配そうだった。
「うん……ちょっと、疲れちゃったかも」
言葉に出してみると、全身の力が抜けた気がした。
ごまかすことも、強がることもなく、正直にそう言えたことが、少しだけうれしかった。
悠真は、数秒だけ考えるように目を細め、やがてふっと笑った。
「……じゃあ、今日はもう帰ろうか。残りは、俺が片づけとく」
「でも……」
「いいから。ほら、立てる?」
差し出された手を取ろうとした瞬間、足がふらついた。
そのまま、よろけそうになった紬の身体を、悠真がすぐに支えた。
「おっと……ダメだな、これは」
そして、ほんの一瞬のためらいのあと——
「よいしょ。……じゃ、背負うよ」
「えっ……!? や、やだ、そんなの恥ずかしい……!」
「恥ずかしいのは俺だよ。でも、背負わないと帰れないでしょ」
言いながら、彼はすでに紬をおんぶしていた。
視線が高くなり、背中に伝わる鼓動が、不思議と安心感をくれる。
「……変なの。子どもみたい」
「でも、安心したでしょ?」
「……うん」
校門を出ると、夕焼けが空を染めていた。
オレンジと藍が溶け合う空の下、二人の影は長く、細く伸びていた。
風が吹いた。制服の裾と髪が、ふわりと揺れる。
「悠真……」
「ん?」
「……ありがとう。今日、ほんとうに、楽しかった」
背中越しに伝わるその言葉に、彼の歩みがほんの一瞬だけ止まった。
けれどすぐにまた、ゆっくりと歩き出す。
「俺も、楽しかったよ」
夕暮れの道を、二人はゆっくりと歩いていく。
誰もいない帰り道に、二人だけの時間が静かに流れていた——
◇
家までの道のりは、驚くほど静かだった。
夕方の町はすでに文化祭の余韻から解放され、ゆっくりと夜へ向かっていた。
紬の腕が悠真の首に回されている。
彼の背中越しに感じる呼吸と、一定の歩調。
不思議なことに、その揺れがとても心地よかった。
「……重くない?」
小さな声で尋ねると、彼はすぐに答えた。
「ううん。むしろ、軽すぎるくらい」
「嘘ばっかり」
「ホントだって。紬が、どれだけ頑張ったか、ちゃんと知ってるから」
その一言が、背中越しに心の奥に沁みていく。
目頭がじんわりと熱くなるのを、紬はこっそりと堪えた。
「……私さ、今日、制服着て外に出るって決めたとき、怖かったんだ」
「だけど、あの門を越えてから……すこしずつ、景色が変わって見えた」
「うん」
「でもね……正直に言うと、途中で何度も逃げ出したくなった」
「また誰かの目が怖くなって、また部屋に戻っちゃうんじゃないかって、ずっと思ってた」
「そう思いながらも、最後までいたんでしょ? それがすごいんだよ」
「……悠真」
彼は立ち止まり、振り返らずに言った。
「俺ね、別に紬が毎日学校に来なくてもいいと思ってる」
「え……?」
「たとえ今日がたった一日の勇気でも、ずっと忘れないって思えるような時間だったら、それでいい」
「……でも」
「でも、できるなら——また一緒に、制服を着て、あの道を歩きたい」
その言葉が、紬の心に静かに届いた。
まるで、風が心の隙間をそっと撫でていくように。
「……うん、私も。次は……自分の足で、歩いてみたいな」
「約束だよ」
「……うん。約束」
そのまま、二人は歩き出した。
風が、柔らかく吹き抜ける。季節が、少しだけ進んだような気がした。
◇
目を覚ましたとき、カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋を静かに照らしていた。
文化祭から一晩経った朝。
身体のあちこちが、まだ少し重い。けれど、どこか心地よい疲労だった。
ベッドから起き上がり、ゆっくりとカーテンを開ける。
外は、快晴。昨日の喧騒が嘘のように、静かな日常が戻ってきていた。
鏡の前に立ち、しばらくじっと自分を見つめた。
昨日の自分とは、少し違う気がした。
目の奥に映る、まだ少し不安げだけれど、確かに前を向いている自分。
制服の襟を、そっと指でなぞってみる。
昨日、一度だけ通した袖。
でもそれは、「たった一日だけの挑戦」じゃなく、「次につながる始まり」だった。
(また着るんだ、きっと)
スマートフォンを手に取り、画面をタップする。
メッセージアプリを開くと、未読の一通が表示されていた。
《今日も、おつかれさま。また、あの道を歩こう。——悠真》
指先が震える。胸の奥が、きゅっと鳴る。
紬は小さく笑って、短く返した。
《……うん。今度は、ちゃんと並んで、歩こうね》
いつか、制服を着て。
誰の目も気にせず、自分の足で歩いていけるように。
その未来を思い描きながら、窓の外の空を見上げた。
空は、高く澄んでいた。
まるで、何かが新しく始まるのを、静かに祝福しているかのように。
◇
この物語『ひきこもりの幼なじみに、僕は毎朝、弁当を届ける』をここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。
本作は、どこにでもいる少年と、ある日部屋に閉じこもってしまった幼なじみとの、小さな日常の再生物語です。
派手な事件はありません。でも、毎朝の「お弁当」が、彼女の中に積もっていった優しさであり、希望でした。
紬は最初、何もできなかった。けれど、その「何もできない」ことすら受け入れながら、少しずつ変わっていきました。
彼女が制服に袖を通し、自らの意志で門を越えたとき、きっと多くの読者の心にも、小さな風が吹いたのではないかと信じています。
「誰かの役に立ちたい」
「もう一度、学校に行きたい」
「一緒に笑いたい」
そんな願いが、ゆっくりと叶っていく過程を描くことができたことを、作者としてとても誇らしく思います。
本作はここで一区切りですが、彼女たちの物語は、まだ終わっていません。
いつかまた、二人のその後を綴ることができれば嬉しいです。
応援、本当にありがとうございました。
また、どこかでお会いしましょう。




