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第十章 彼女の未来を想うとき

昼休み。


 文化祭の熱気に包まれた校舎の中、賑やかな声が廊下に響く。教室では出し物の片づけや昼食の準備で忙しく、あちこちから笑い声が漏れていた。


 そんな中、紬は静かに教室の隅の席に座っていた。隣にはもちろん、悠真の姿があった。


 「……お弁当、ありがとう」


 紬は小さく笑みを浮かべながら、持参したお弁当のふたを開けた。中には、母と一緒に作ったおかずが丁寧に詰められている。


 「ちゃんと食べられそう?」


 「……うん。今日は、ちょっと頑張れる気がする」


 言葉は控えめでも、紬の表情にはほんの少しだけ誇らしげな光が宿っていた。

 その横顔を見て、悠真は静かに目を細めた。


 (よかった……ちゃんと、ここまで来られた)


 まだ完全ではない。けれど、一歩一歩、彼女は前に進んでいる。その事実が、何より嬉しかった。


 ふと、窓の外に目をやる。秋の陽射しが差し込む中庭では、生徒たちが写真を撮ったり、屋台の準備をしていた。


 (このまま、彼女が少しずつでも前を向けるなら……)


 悠真の胸に、ある想いがふと浮かぶ。


 ——いつか、紬が一人でもこの学校に来られるようになる日が来たら。

 ——そのとき、自分の役割は終わるのだろうか。

 ——それとも、自分はずっと彼女の隣にいてもいいのだろうか。


 目の前で弁当をつつく彼女の手元を見つめながら、悠真は思考を深めていく。


 (……いや、違う。終わりなんて、考えたくない)

 (彼女が進む道を、ただ見送るんじゃなくて、一緒に歩きたい)


 守るだけではなく、共に歩む。

 それが、今の自分の願いだと気づいた。


 「悠真?」


 名前を呼ばれて、我に返る。


 「……ごめん。ちょっと、考えごとしてた」


 「ふふ。珍しいね、悠真がぼーっとしてるの」


 そう言って微笑む紬の笑顔は、柔らかく、どこか儚い。


 ——彼女の未来を、共に支えていきたい。

 悠真は、改めてその決意を胸に刻んだのだった。


午後の出し物は、より本格的なカフェ営業。

 紬は午前中よりも、少しだけスムーズに動けていた。


 飲み物のオーダーを受け取り、慎重にお盆を運ぶ。

 同級生に軽く頭を下げながら、カウンターの前に立つ。

 緊張の中にも、確かな手応えがあった。


 (ちゃんと、できてる……)


 自分でも驚くほど落ち着いている。

 数ヶ月前の自分には、考えられない姿だった。


 「朝倉さん、次のお客さん、お願いできる?」


 「……はいっ」


 返事も自然に出る。

 紬の声に振り返った数人のクラスメイトの目が、ふっと柔らかくなる。


 そんな彼女の様子を、少し離れた位置から見ていた玲奈が、ふっと口角を上げた。


 (……うん、やっぱりあの子、ちゃんとやれる子じゃん)


 午前中の緊張とは裏腹に、午後の紬には微かな余裕すら感じられる。

 その変化を見て、玲奈は心の中で軽くガッツポーズをした。


 (さて、こっからは私の出番だな)


 そう思った玲奈は、タイミングを見て紬に近づいた。


 「紬ちゃん、ちょっとだけいい?」


 「え……う、うん」


 玲奈は小声でささやく。


 「明日ね、後夜祭あるでしょ。出し物のアンケートとか、感想とかまとめて発表する時間があるんだけど……よかったら、あんたも舞台のとこ出てみない?」


 「えっ……」


 「もちろん、いきなりじゃなくて、私が一緒に出るし。言葉詰まってもフォローするから。無理だったら断ってくれていいけど、せっかくここまで頑張ったし、何か形に残せたらって、思ってさ」


 玲奈の目はまっすぐだった。

 決して押しつけではない。けれど、紬にとってそれは――まるで「新しい景色」への扉のように感じられた。


 (私が……舞台の上に?)


 足がすくむ。けれど、心の奥がかすかに震えた。


 悠真の手とは違う、けれど確かに差し出されたもう一つの手。


 「……ちょっと、考えてもいい?」


 「もちろん。無理はしないで。でも、期待してるからね」


 玲奈はウィンクしながら立ち去った。


 残された紬は、まだ高鳴る胸を押さえながら、静かに息を吐いた。


 (……どうしよう)


 でもその心は、ほんの少しだけ、前を向いていた。


 夕方が近づき、文化祭もクライマックスを迎えようとしていた。


 教室の片隅、紬はカーテン越しに射し込む光を浴びながら、一人、ぼんやりと窓の外を見ていた。


 手元には、玲奈から渡された後夜祭の進行プリント。

 ほんの数分間、ひと言ふた言、感想を話すだけの出番。

 たったそれだけのことが、こんなにも重く感じる。


 (……やってみたい気持ちは、ある。だけど……)


 誰かの視線を浴びること。自分の声を、みんなに聞かれること。

 ずっと避けてきた恐怖だった。怖くて、恥ずかしくて、逃げたくなって、布団にくるまってきた。


 でも、今の私は――。


 「……紬」


 背後から聞こえた声に、はっとして振り向くと、そこには悠真がいた。

 彼は何も言わず、そっと紬の隣に座る。


 「玲奈から聞いた。迷ってる?」


 「……うん。出たい気持ちはある。でも、怖いの」


 素直な言葉が、自然に口からこぼれた。

 もう、自分の気持ちを偽らなくていい。そんな安心感が、悠真の隣にはあった。


 「無理に出る必要はない。でも、やりたいなら……俺は応援する」


 静かな声だった。でも、その中にある信頼と優しさは、紬の胸を温かく包み込んだ。


 「……私ね、今日ここまで来て、制服も着て、みんなと話して……少しだけ、自分のことを好きになれた気がするの」


 「それなら、もう十分だよ」


 「でも……もう一歩、進みたいって、思っちゃった」


 紬の手が、小さく震える。

 その手を、悠真がそっと包んだ。


 「だったら、一緒に行こう」


 彼の言葉は、命令でも強制でもない。

 ただ、そばにいるという約束。


 「……うん。ありがとう」


 その瞬間、紬の中で何かが決まった。


 怖さは消えない。けれど、それでもいい。

 怖さと一緒に、前へ進んでみたい。


 それが、紬が選んだ答えだった。

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