第十章 彼女の未来を想うとき
◇
昼休み。
文化祭の熱気に包まれた校舎の中、賑やかな声が廊下に響く。教室では出し物の片づけや昼食の準備で忙しく、あちこちから笑い声が漏れていた。
そんな中、紬は静かに教室の隅の席に座っていた。隣にはもちろん、悠真の姿があった。
「……お弁当、ありがとう」
紬は小さく笑みを浮かべながら、持参したお弁当のふたを開けた。中には、母と一緒に作ったおかずが丁寧に詰められている。
「ちゃんと食べられそう?」
「……うん。今日は、ちょっと頑張れる気がする」
言葉は控えめでも、紬の表情にはほんの少しだけ誇らしげな光が宿っていた。
その横顔を見て、悠真は静かに目を細めた。
(よかった……ちゃんと、ここまで来られた)
まだ完全ではない。けれど、一歩一歩、彼女は前に進んでいる。その事実が、何より嬉しかった。
ふと、窓の外に目をやる。秋の陽射しが差し込む中庭では、生徒たちが写真を撮ったり、屋台の準備をしていた。
(このまま、彼女が少しずつでも前を向けるなら……)
悠真の胸に、ある想いがふと浮かぶ。
——いつか、紬が一人でもこの学校に来られるようになる日が来たら。
——そのとき、自分の役割は終わるのだろうか。
——それとも、自分はずっと彼女の隣にいてもいいのだろうか。
目の前で弁当をつつく彼女の手元を見つめながら、悠真は思考を深めていく。
(……いや、違う。終わりなんて、考えたくない)
(彼女が進む道を、ただ見送るんじゃなくて、一緒に歩きたい)
守るだけではなく、共に歩む。
それが、今の自分の願いだと気づいた。
「悠真?」
名前を呼ばれて、我に返る。
「……ごめん。ちょっと、考えごとしてた」
「ふふ。珍しいね、悠真がぼーっとしてるの」
そう言って微笑む紬の笑顔は、柔らかく、どこか儚い。
——彼女の未来を、共に支えていきたい。
悠真は、改めてその決意を胸に刻んだのだった。
◇
午後の出し物は、より本格的なカフェ営業。
紬は午前中よりも、少しだけスムーズに動けていた。
飲み物のオーダーを受け取り、慎重にお盆を運ぶ。
同級生に軽く頭を下げながら、カウンターの前に立つ。
緊張の中にも、確かな手応えがあった。
(ちゃんと、できてる……)
自分でも驚くほど落ち着いている。
数ヶ月前の自分には、考えられない姿だった。
「朝倉さん、次のお客さん、お願いできる?」
「……はいっ」
返事も自然に出る。
紬の声に振り返った数人のクラスメイトの目が、ふっと柔らかくなる。
そんな彼女の様子を、少し離れた位置から見ていた玲奈が、ふっと口角を上げた。
(……うん、やっぱりあの子、ちゃんとやれる子じゃん)
午前中の緊張とは裏腹に、午後の紬には微かな余裕すら感じられる。
その変化を見て、玲奈は心の中で軽くガッツポーズをした。
(さて、こっからは私の出番だな)
そう思った玲奈は、タイミングを見て紬に近づいた。
「紬ちゃん、ちょっとだけいい?」
「え……う、うん」
玲奈は小声でささやく。
「明日ね、後夜祭あるでしょ。出し物のアンケートとか、感想とかまとめて発表する時間があるんだけど……よかったら、あんたも舞台のとこ出てみない?」
「えっ……」
「もちろん、いきなりじゃなくて、私が一緒に出るし。言葉詰まってもフォローするから。無理だったら断ってくれていいけど、せっかくここまで頑張ったし、何か形に残せたらって、思ってさ」
玲奈の目はまっすぐだった。
決して押しつけではない。けれど、紬にとってそれは――まるで「新しい景色」への扉のように感じられた。
(私が……舞台の上に?)
足がすくむ。けれど、心の奥がかすかに震えた。
悠真の手とは違う、けれど確かに差し出されたもう一つの手。
「……ちょっと、考えてもいい?」
「もちろん。無理はしないで。でも、期待してるからね」
玲奈はウィンクしながら立ち去った。
残された紬は、まだ高鳴る胸を押さえながら、静かに息を吐いた。
(……どうしよう)
でもその心は、ほんの少しだけ、前を向いていた。
◇
夕方が近づき、文化祭もクライマックスを迎えようとしていた。
教室の片隅、紬はカーテン越しに射し込む光を浴びながら、一人、ぼんやりと窓の外を見ていた。
手元には、玲奈から渡された後夜祭の進行プリント。
ほんの数分間、ひと言ふた言、感想を話すだけの出番。
たったそれだけのことが、こんなにも重く感じる。
(……やってみたい気持ちは、ある。だけど……)
誰かの視線を浴びること。自分の声を、みんなに聞かれること。
ずっと避けてきた恐怖だった。怖くて、恥ずかしくて、逃げたくなって、布団にくるまってきた。
でも、今の私は――。
「……紬」
背後から聞こえた声に、はっとして振り向くと、そこには悠真がいた。
彼は何も言わず、そっと紬の隣に座る。
「玲奈から聞いた。迷ってる?」
「……うん。出たい気持ちはある。でも、怖いの」
素直な言葉が、自然に口からこぼれた。
もう、自分の気持ちを偽らなくていい。そんな安心感が、悠真の隣にはあった。
「無理に出る必要はない。でも、やりたいなら……俺は応援する」
静かな声だった。でも、その中にある信頼と優しさは、紬の胸を温かく包み込んだ。
「……私ね、今日ここまで来て、制服も着て、みんなと話して……少しだけ、自分のことを好きになれた気がするの」
「それなら、もう十分だよ」
「でも……もう一歩、進みたいって、思っちゃった」
紬の手が、小さく震える。
その手を、悠真がそっと包んだ。
「だったら、一緒に行こう」
彼の言葉は、命令でも強制でもない。
ただ、そばにいるという約束。
「……うん。ありがとう」
その瞬間、紬の中で何かが決まった。
怖さは消えない。けれど、それでもいい。
怖さと一緒に、前へ進んでみたい。
それが、紬が選んだ答えだった。
◇




