第一章 遅滞の春日
彼女はずっと、カーテンの向こうにいた。
春の光にも、学校のざわめきにも、触れようとしなかった。
僕の幼なじみ・高坂紬は、中学時代のいじめをきっかけに、家に閉じこもってしまった。
心を閉ざし、制服を着ることもなく、誰とも会わずに眠る日々。
でも――それでも僕は、毎朝彼女の家に通って、手作りの弁当を届ける。
ほんの少しの変化を信じて。今日よりも、明日を、少しでも。
これは、遅れて始まる春に、ゆっくりと心が溶けていく物語。
守ることでしか伝えられない想いと、ひとつひとつ積み上がる優しい日常。
――小節一:朝の弁当と、眠り姫の吐息
朝の空気は、まだ春の名残を引きずったまま、どこか鈍く、柔らかい。
相澤悠真は、右手に小さな弁当袋を提げながら、玄関の前に静かに立っていた。
ピンポンは鳴らさない。
いつもどおり、無言で鍵をひねる。合鍵を渡されたのは、もう何年も前のことだった。
ギィ……と静かな音を立てて開いた扉の向こう。
家の中は、まるで時間が止まっているかのような静寂に包まれている。
「おはよう、紬」
玄関に入ってすぐ、小さく声をかける。返事はない。予想どおりだ。
靴を脱ぎ、音を立てぬよう廊下を進む。床は磨かれ、薄く光を帯びているが、その冷たさが肌を刺すような気がした。
二階への階段を静かに上がる。ドアは半開きだった。
薄暗い部屋の奥、カーテンは閉じられたまま。
その中で、ベッドに小さく身を丸めるようにして、彼女は眠っていた。
高坂紬――。
俺の幼なじみで、今はほとんど、外に出ることのない彼女。
「……入るよ」
声は静かに。
それでも彼女のまぶたがぴくりと動いた。反応はある。
布団の端を少しだけめくって、寝顔を覗く。
体温の気配は微かで、白い頬に寝癖の髪がかかっている。
呼吸は浅く、規則正しい。
「弁当、ここに置いとくね。今日は、卵焼きちょっと焦がしたけど」
枕元の小さなテーブルに弁当をそっと置く。
その動作の合間に、彼女の瞼がゆっくりと持ち上がった。
「……ゆう、ま……くん?」
掠れた声。
まるで夢と現の間に引き裂かれるようなその声に、俺は小さく笑ってみせた。
「おはよう、紬。まだ眠い?」
「……うん……もうちょっとだけ」
また瞼を閉じる。
だがその口元には、ほんの少しだけ、安心したような緩みが見えた。
——この一瞬の表情だけで、俺の朝は報われる。
彼女にとっては、ただの日常の一瞬。
けれど、俺にとっては確かな意味を持つ、一日の始まりだった。
彼女がまた眠りに落ちたのを確認して、俺はそっとカーテンに手を伸ばす。
完全に閉じ切っていた厚手の布を、少しだけ開けた。
眩しくない程度に、光が差し込む。
春の陽射しはやわらかく、部屋の空気を少しだけ動かした。
「今日は、風が気持ちいいよ」
聞こえているかどうかはわからない。
けれど、彼女の表情が一瞬わずかに変わった気がした。
こういう、小さな変化。
それを見つけるために、俺は毎日ここへ来ているのかもしれない。
◇
リビングに降りて、台所を軽く片付ける。
昨日の夜、彼女の母親が遅くまで看病していた形跡がある。
「……あの人、また何も食べてないな」
残された冷えた味噌汁に目を落とし、ひとりごちる。
家族もまた、彼女と一緒にこの「止まった時間」を生きている。
そして――その時計の針を、もう一度動かすのは、たぶん俺の役目なんだ。
◇
帰る前に、もう一度だけ彼女の部屋を覗く。
ベッドの中で、彼女は先ほどより少しだけ呼吸が深くなっていた。
光が射し込むことで、夢の中にも何か違う景色が映るといい。
「じゃあ、また放課後に来るよ。弁当、無理に食べなくていいからね」
そっと言って、ドアを閉めた。
その瞬間――
「……ありがとう」
小さな、けれど確かに聞こえた声。
それは布団の奥から、まるで枕に押し付けられたような声だった。
思わず足が止まる。
振り返ることはせずに、ただ、階段を降りる。
胸の奥が少しだけ温かくなっていた。
——ありがとう、なんて。
その一言だけで、今日一日、頑張れる気がした。
――小節二:静かな読書時間と、昼の教室のざわめき
放課後――ではなく、まだ昼休み。
教室の窓際に腰を下ろしながら、俺は手元のスマホをちらりと見た。
〈食べたよ、少しだけ。卵焼き、しょっぱかった〉
たったそれだけの短いメッセージ。
でも、俺は思わず笑みを漏らしていた。
高坂紬が、今日も生きてる
……そんなふうに思ってしまうのは、たぶん、彼女と向き合い続けた年月のせいだ。
「おーい相澤ー、また弁当女の子に作ってんのかよ〜?」
向かいの席から茶化すような声が飛んできた。
声の主は、同じクラスの三浦。
いつも軽いが、悪気はない。俺たちのことを本気で詮索するような奴じゃない。
「まあな。あいつ、好き嫌い多いからさ」
「マメだなー。俺なんてコンビニで済ませるのも面倒で、もう昼抜いてるわ」
「体壊すぞ」
「お前にだけは言われたくないなー。だってさ、お前……」
言葉が途中で止まる。
俺の目が、一瞬だけ鋭くなったのに気づいたのかもしれない。
——紬のことを、知らない者が軽く触れると、俺は少しだけ冷たくなる。
「……ごめん、悪かった」
「気にすんな。俺が神経質なだけ」
それ以上、話題は続かなかった。
教室には昼休みらしいざわめきが広がっていた。
誰かがジュースを買いに走り、誰かがノートを見せてと頼み、誰かが眠そうに机に突っ伏していた。
そんな空気の中で、俺は静かに弁当箱を閉じた。
◇
その頃、紬は部屋の中で本を読んでいた。
体調は悪くなかった。
けれど、誰かに会いに行く勇気は、やっぱり湧いてこなかった。
開いた本のページに目を落としながらも、意識は何度も逸れる。
悠真くん……今、学校かな。
誰かと話してるかな。
笑ってるかな。
そんな想像ばかりが、頭の中でぐるぐる回る。
(我ながら、どうしてこんなに気にしてしまうんだろう)
自分でもよくわからない。
けれど、今朝のことを思い出すだけで、心臓が少しだけ早くなる。
彼が開けたカーテンの隙間から入ってくる光。
手の温もり。
「卵焼き、焦がしたけど」って、恥ずかしそうに笑った声。
それだけで、胸がくすぐったくなる。
——そして、ほんの少しだけ、外の世界に手を伸ばしてみたいと思ってしまう。
ページをめくる指先が震える。
でも、それは寒さのせいじゃない。
……もしかしたら、明日はもう少しカーテンを開けてもいいかもしれない。
そんなふうに、ほんの少しだけ前を向いた思考が生まれた瞬間、
「……ただいま」
玄関の扉が開く音が聞こえた。
お母さんだ。
時計を見ると、まだ午後の早い時間。仕事を少し早めに切り上げてきたのだろう。
紬は慌ててブックカバーを閉じて、身を起こした。
枕元に置かれていた弁当箱は、すでに空。
卵焼きのしょっぱさが、まだ口の中にうっすらと残っていた。
「おかえりなさい……」
声は、少しかすれていたが、ちゃんと届いた。
階段を上ってきた足音が止まり、戸の外から母の声がした。
「紬、今日はちゃんと食べたのね。……よかった」
その声は、紬の心にふわりと落ちてきた。
厳しくもなく、押しつけがましくもない。
ただ、彼女の存在をちゃんと肯定する声だった。
(お母さんも、見てくれてる……)
彼女の目に、ほんのり熱いものがにじんだ。
「……悠真くんの、卵焼き。焦げてたけど、美味しかったよ」
扉越しに、恥ずかしそうに呟いた。
返事はなかった。
でも、それはたぶん、母がそっと微笑んでいたからだ。
◇
教室では、チャイムが鳴り響いていた。
午後の授業が始まり、生徒たちはばたばたと席に戻る。
窓の外には春の陽光がまだ柔らかく、遠くのグラウンドでは野球部の声が響いている。
その中で相澤悠真は、一人静かにペンを走らせながら、
心の中でひとつ、言葉を反芻していた。
——「焦げてたけど、美味しかったよ」
それだけの言葉に、思わず頬が緩んだ。
そして、こうも思った。
彼女の世界に差し込む「読書の光」を、俺は今日も少しだけ強くできた。
それなら、次はもう少しだけ、窓の外まで連れて行こう。
――小節三:初めてのカーテン、その向こう
◇
翌朝、目覚めた紬は、すぐには体を起こさなかった。
枕に顔を埋めたまま、ふわりと昨日のことを思い出す。
悠真くんが来て、卵焼きを置いていってくれて、
お母さんが早く帰ってきて、「よかった」と笑ってくれて。
——こんな、なんでもない一日が、自分にはとても眩しい。
(……今日も来てくれるかな)
自然とそんなことを考えてしまう自分がいて、
その思考に、ふと胸がちくりと痛む。
「期待しちゃ、だめ……」
小さくつぶやく。
でも、その声にはどこか、甘えるような震えがあった。
◇
朝食を食べ終えた母が仕事に出ていったあと、
部屋にはまた、静寂だけが戻ってきた。
けれど今日は、なぜかその沈黙が少し違って感じられた。
(音が……聴こえる)
鳥の声。
風が木々を揺らす音。
どこか遠くで子供がはしゃぐ声。
——外の世界が、確かにそこにある。
今までは、ずっと耳を塞いでいた気がする。
けれど今朝は、なぜかその音たちが優しく思えた。
そして、気がつくと体が、勝手に動いていた。
◇
ベッドを出て、カーテンの前に立つ。
手は、少しだけ震えていた。
けれど、それでも手を伸ばす。
「……大丈夫、大丈夫、大丈夫」
自分にそう言い聞かせながら、布の端をつまむ。
ゆっくりと引くと、外の光が一気に差し込んできた。
「っ……!」
思わず目を細めた。
眩しさに戸惑いながらも、彼女はほんの少しだけ窓の外を覗いた。
そこには、青空があった。
揺れる洗濯物があった。
自転車に乗る中学生の後ろ姿があった。
(……ほんとに、ただの、なんでもない世界だ)
だけど、それが涙が出そうなほど懐かしくて。
気づけば、ぽろりと一滴、涙がこぼれていた。
◇
その瞬間、インターホンが鳴った。
「っ!」
驚いて一歩引き、カーテンを閉じかけたが、すぐにその声が聞こえた。
「紬、弁当、今日も置いとくよー」
悠真くんだ。
「……っ」
喉がつまって、声が出なかった。
けれど、カーテンの隙間からそっと覗くと、彼が小さく手を振っているのが見えた。
驚くことに、彼は今日もこちらを見ない。
まるで、気配だけを信じてそこに立っているかのように。
(……わかってるんだ)
私は、ここにいて。
今日は、少しだけ、外を見られたこと。
それだけで、彼は満足したように、ゆっくりと玄関に向かって歩いていった。
◇
その背中を、彼女はしばらく目で追っていた。
心の中に、小さな芽のようなものが、確かに息づいていた。
——また、見てみたい。
——外の世界を、もう少しだけ。
そして、
——もう一歩だけ、踏み出してみたい。
彼女の中に芽生えたその感情が、
まだかすかな「勇気」と呼ぶには心許ないものだとしても、
確かに今日、光の中で目を覚ましたのだった。