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初投稿です。読んで頂けたら嬉しいです。
意識が途切れるその瞬間まで、魔王は勇者から目を逸さなかった。轟々と燃え盛る炎色の髪と朝焼け色の瞳。自分を窮地に追い込んだ男を、魔王は決して忘れないだろう。
アスルティーカ暦1200年頃、人類は突如現れた魔物とそれを統べる魔王によって滅亡の危機に瀕していた。世界には魔物が蔓延り王国の騎士たちが討伐にあたったが、増え続ける魔物の数にじわじわと戦力を削られていった。増える魔物に減る戦力。皆が諦めかけたその時、ひとりの青年が現れた。
青年は圧倒的な魔力量と類稀なる剣術センスの持ち主であり一騎当千の兵ともいわれ、そんな青年の登場は世界に希望の光をもたらした。
人々は青年を勇者と呼び、勇者と呼ばれた青年は人々の期待通り魔王を倒す事に成功した。それと同時に魔物たちも姿を消し、とうとう世界に平和が訪れたのだ。
世界は歓喜に満ち溢れ勇者を称えたが、勇者はたった一人で魔王討伐という偉業を成し遂げたあと忽然と姿を消してしまった。
それが今から五十年前の話。
□□□
「リーズ! リーズっ! どこにいるのっ」
広い屋敷に若い女のヒステリックな声が響く。何事か、と手を止める者がいてもおかしくないほどの大きさだが、屋敷で働く者は誰ひとり気にしていない。何故なら日常的に繰り返されている事だからだ。また始まったと頭の端で思うくらいだろう。
叫んでいる女はこの屋敷の一人娘で、名をエーシェルという。そしてリーズとはエーシェルの従姉妹にあたる存在だ。何度も名前を呼ぶエーシェルの声が届いた時、当の本人であるリーズは屋敷の奥まった人気のない廊下の先にある部屋にいた。そこはリーズの母が療養している部屋で、ついさっきようやく母が眠りについたところだった。
(また始まった)
リーズはベッドで眠っている母から視線をあげると座っていた椅子から立ち上がりながら溜め息を吐いた。
重い病を患っている母は少しでも身体を動かせば酷い痛みが全身を走る。お陰で眠ることさえ困難な状態で、薬を飲ませようやく眠りについたのはつい数分前。
リーズを探してエーシェルがここへやって来るだろう事は安易に想像がつき、ここで騒がれても困るとリーズは極力音を立てないよう部屋を出る。少し歩いたところで、廊下の先からこちらに向かってくるエーシェルの姿が目に入った。エーシェルもリーズをすぐに見つけたようで歩く速度を上げて近付いてくる。怒りとも喜びとも取れるような表情を浮かべ口角を歪ませるエーシェルを見て、これからその口から数々の汚い言葉が飛び出すんだろうなとリーズは再度溜め息を吐いた。
「こんなところにいたのねリーズ、何度も呼んだのよ」
「エーシェル」
こんな奥まった場所に来る理由など一つしかない。リーズが母の部屋にいると分かっていてわざわざここまでやって来たくせに、偶然見つけたかのように振る舞うのは何故だろう。
「そんなみすぼらしい格好をしているから一瞬誰だか分からなかったわ」
リーズが着ているのはごく普通の膝丈のエプロンドレスだ。汚れが目立たないようにと選んだ黒のそれは、確かにエーシェルが着ている高価なドレスに比べれば安っぽいが動きやすいし、見るからに窮屈そうなエーシェルのドレスはリーズにとって何の魅力もない。着ろと言われてもお断りだ。
何も言葉を返さずにいると、リーズが自分の言葉に傷ついたとでも思ったのか、エーシェルの表情がほんの少し緩んだのが分かる。
(もしかして、わざわざそんな事を言うために私を探していたの?)
そう心の中で呟いたつもりが、どうやら口に出ていたらしい。エーシェルの顔はみるみる真っ赤になり、表情が醜く歪んでいく。このままではくしゃくしゃに丸めた紙のようになってしまうのでは、などとどうでもいい事を考えていると、エーシェルが右手を振り上げるのが視界の端に見えた。リーズの頬を叩くつもりだろう。それにすぐ気付く事が出来たリーズだが、あえて避ける事はせずエーシェルに左頬への暴力を許した。矛先が母へ向けられたら困る。だったらエーシェルに頬を叩かれるくらいどうって事ない。
じんわりと叩かれた左頬が痛むが、リーズは気にせずエーシェルと視線を合わせる。エーシェルはリーズを叩いた事で気を取り直したのか、嬉しそうに口角を釣り上げた。
「まあ、そんな気味の悪い真っ赤な髪じゃいくら着飾ったところで意味ないわよね。目だって赤くてまるで獣のようだわ」
「……」
ここで変に反応すると面倒な事になりそうで何も返さずにいると、エーシェルがフン、と鼻を鳴らす。
「アンタっていつもにこにこしてて本っ当気持ち悪い」
そう言われ、リーズは頬を叩かれてなお笑っている事に気が付いた。これはもう癖のようなものだった。
リーズは物心つく前から泣いてはいけないと両親に言い聞かされて来たからだ。しかも両親が禁じたのは悲しみや痛みで出る涙だけではない。嬉し涙も笑いすぎて出る涙も、あくびをして出る涙でさえも駄目だと言われてきた。感情のコントロールが難しい子供になんて無茶な事を要求する両親の真意は不明だが、リーズは泣かない──泣けない子供として育てられたのだ。
そんな幼少期を過ごしたリーズは喜怒哀楽すべてが涙へと繋がっているため感情そのものが邪魔になると早々に気付き、涙を我慢するのではなく原因となる感情を抑え込むように努めるようになった。
お陰で涙とは無縁の子供となったが、今度は感情と直結している表情に問題が起きる。リーズは無表情の子供になってしまったのだ。何をしても無表情の娘。それに気付いた両親が慌ててどうして笑わないのと言い始める。
泣くなと言ったり笑えと言ったり勝手だなと思ったが両親があまりにも心配するので、リーズは笑顔を作るようになった。無理矢理表情筋を使っただけのそれに感情は伴っていないが両親は娘の笑顔を見て安心してくれたようで、この時リーズの中に『とりあえず笑っておけ』という言葉が深く刻まれたのだ。
成長した今はコントロールが出来るようになったので、喜怒哀楽の感情を出せるようになり、無理に笑わなくてもいいと分かってはいるがやめられない。人と話をする時、つい無意識に笑顔を作ってしまう。
しかしそんな話をエーシェルにしても仕方がない。そもそもエーシェルはリーズを傷つけたいだけだ。気持ち悪いと言われようが笑顔を崩さずにいると、気が済んだのか削がれたのか分からないが、エーシェルは最後に念押しするかのようにもう一度「本当に気持ち悪い」と吐き捨てて去っていく。
リーズは視界からエーシェルが消えるのを見届けてから母の元へと戻ると、部屋を出た時と変わらず眠っている母の姿が目に入った。どうやら今の騒ぎで起こさずに済んだらしい。
まるで嵐が去ったかのような静けさがリーズの元に訪れ、母から漏れる小さな寝息が聞こえてくる。規則正しいそれに薬がちゃんと効いているのだと分かり安堵のため息を吐いた。
ずっとひとりで母を看病しているリーズが唯一気を抜ける時間、それは薬が効き母が深く眠れているときだ。母はもう随分長いこと薬を常用しているせいか最近は薬を飲んでも眠れない時がある。強い薬故量を増やせば体力のない母にとって毒になってしまうので、追加で飲ませる事も出来ないのだ。
(もうどれくらい話せてないかな)
薬は痛みを感じなくさせるだけで根本的な治療になっていないため、日に日に母の病状が悪化している事はずっとひとりで看病を続けているリーズには手に取るように分かる。意識はあるようだが、会話らしい会話は随分としていなかった。
(──自分の家に戻りたいな)
母の寝顔を見ながら、リーズの中にふとそんな考えが過ぎる。
元々リーズは両親と共に【西の森】の奥に建てられた赤い屋根で二階建ての小さな一軒家に暮らしていた。狩りを生業とし家族三人で慎ましく生活していたのだが、リーズが十三歳になった頃、父が流行り病に倒れそのまま亡くなってしまった。母と二人きりの生活が始まると、リーズは父に代わり狩りに出るようになり、父を失い悲しみに暮れる母を支えた。
父の死から一年が経った頃、母もどうにか立ち直りこれからは二人で父の分まで生きていこうとなったところで、今度は母が体調を崩した。母を苛む痛みは次第に大きくなっていき、日常生活に支障をきたすまでになってしまったところで、母の提案で母の実家を頼ることとなったのだ。
(ここに来たばかりの時は、これで母さんの病気も治るって思ってたな)
初めてこの屋敷を見た際、あまりの広さに驚いた。母が貴族のお嬢様だったことを知ったのはこの時だ。母の両親はすでに亡くなっていて、母の妹でリーズにとっての叔母が出迎えてくれた。
しかしどうやら母は父と駆け落ち同然で家を飛び出したらしく、叔母からは母を心配する素振りなんて欠片も感じられなかった。表情からも母とリーズを疎ましく思っている事は明らかで、それでも見捨てられなかったのは世間体を気にしての事だろう。
そうして始まった屋敷での生活はそろそろ三年経とうとしていた。
(もう三年かぁ)
エーシェルからの嫌がらせは最初のうち無視される程度だったのだが、半年と掛からずに理不尽な暴言を受けるようになった。暴言に関しては聞き流す事が出来るのである意味楽で、でもそれが良くなかった。今日もそうだがリーズはエーシェルが欲しがる反応が出来ない。特に泣かせたいなんて思っているのなら絶対に叶わない。結果嫌がらせは更にエスカレートして、最近は手が出るようになってしまったのだ。
だったら嘘でもエーシェルの希望通りに反応してやればいいのではと考えた事もあった。だが仮にもしも──万が一にもないとは思うが、感情が乱され泣いてしまったら。こんな人間のせいで涙を零すなんて事になったら、自分が許せないだろう。
それに矛先が母に向いてしまっても困る。リーズに嫌がらせをする事で満足してもらえるならそれでいい。屋敷にいれば母の薬を処方してもらえる。そのためならエーシェルからの度重なる暴言も暴力もどうって事ない。
「おやすみ、お母さん」
小さく呟き母の額にキスを落とすと、リーズは音を立てず母の寝室を後にした。