幕間Ⅰ 『僕』と『主様』の話
これは、『僕』と『主様』の話。
昔から、主様の匂いが好きだった。
幼い頃、時々主様と喧嘩することがあった。そして仲直りの時には必ず、お母様に促されてハグをしていた。
「よしよし、二人ともいい子だね」
お母様はそう言っていつも僕たちの頭を撫でてくれた。その手とハグから伝わってくる熱で、とてもポカポカして、それまで抱えていた暗い感情が消えていって──その時にフワッと香る、主様の匂いはとても心を癒してくれる匂いだった。昔は主様に引っ付いて、その匂いに包まれるのが好きだった。
そしてその時は突然にやってくる。いや別に、喧嘩をしている訳でも、主様と仲直りのハグをしている訳でも、ましてや幼子さながら主様に引っ付いている訳でもない。敢えて今のこの状況を説明するのならば寧ろ──
「主様!ここで力尽きないで下さい!」
「全ての気力を使い果たした……」
引っ付いているのは主様の方だし、僕は引っ付かれている側なのである。
主様は時々こうなる──緊張の糸が切れ、全身の力が抜けた状態になるのである。嵐のように押しかけてきたお客様たちを見送った後、客間の片付けを終えたところで主様はソファに倒れ込んだ。客間で寝るなど風邪を引いてしまう──僕は何とかして主様を担ぎ、二階の寝室を目指して運んでいた。
「ダメですよ、主様!ここで寝たら風邪を引いてしまいます!」
「おー、めっちゃ足引きずられてる」
「も、文句言うなら自分で歩いて下さいよ!」
「嫌だ!」
まあ、なんとわがままな主様だ。いつも自由気ままなご友人に文句を垂れているが、主様も他人のことを言えないじゃないか。大柄な主様を抱えなければいけない僕の気にもなって欲しい。いや、実際のところ僕は全然構わないのだけれど。
「回復に二週間以上は必要だな。残念ながらパーティには行けなさそうだ」
「だ、ダメですダメです!そうなったら僕がベルジェ様の家まで運びますからね!」
「……足引きずりながらでも?」
「む……!足引きずりながらでもです!」
さすが主様、余計なちょっかいは忘れない。しかしいつも通り僕を弄れる程の元気はまだあるようだし、疲れもあるとは思うが大したことはなく、ただ僕で遊んでいるだけなのだろう。夜になってテンションも普段よりちょっと高い(というかおかしい)のかもしれない。別に主様とこうしてじゃれ合うのは好きだし、主様が楽しそうなので、僕としてはいつもの主様の様子に安堵の思いである。
それに、背中から感じる主様の熱と匂い。この、とても懐かしい感じ。やはり僕は──
「……ほら、着きましたよ、主様」
主様の足を引きずりながらも階段を上り、寝室に到着。僕は扉を開けて、主様に声をかけた。主様は「えぇ」などと不満げな声を漏らしながら僕に寄りかかるのをやめ、ベッドに体を移した。
「あーあ、着いちゃった」
「着いちゃった、じゃないですよ。軽食をお持ちしますから、それまでに着替えておいて下さいね」
「はーい」
素直に返事しつつ、またしてもベッドに倒れる主様。僕はそれに呆れを感じながらも、久しぶりに見た主様の無邪気な様子に、思わず笑って返した。
部屋を出る。さて、主様に持っていく軽食は何にしようか。つい先日町で調達できたおかげで、ある程度の食材は揃っている。手短に作れるものを──そんなことを適当に考える。しかし、
「……」
他のことを考えていても、ふとした瞬間に蘇る。蘇ってしまう。あの、主様の匂い。気分を落ち着かせてくれるような、逆に興奮させるような、不思議で、けれどとてもいい匂い。
『僕』の好きな匂い。
「……ふふふ」
まだ僅かに体に残る匂いを口元へ手繰り寄せる。夜闇に覆われた閑静な廊下、窓から差し込む月明かり。そこには、大好きなその匂いに酔いしれる『僕』がいた。
『主様』の匂いはとてもいい匂い。
とてもとても、美味しそうな匂い。
これは、『吸血鬼』と『その喰い物』の話。