第二話-2 二人の関係 その二
ベルジェ様たちが来訪して一夜が経とうとしていた朝方未明。
「おはようございます、ファルシエ様」
僕がキッチンで朝食の準備を始めようと袖をまくった丁度その時、そんな声と共にドアが開く音が聞こえた。
「あ、おはようございます、クシロムさん」
僕が振り返りざまに応えると、クシロムさんは相変わらずの綺麗な姿勢で頭を下げていた。
「お目覚めは如何ですか?よく眠れましたか?」
「お陰様で、ゆっくりお休みを頂くことができました。昨夜は申し訳ありませんでした。お手伝いをすることもできず……」
「いえいえ、とんでもないですよ!」
クシロムさんはお客様であるにも関わらず、よく僕の家事の手伝いを申し出てくれる。それを気に病んでいるようだ。
「寧ろ、いつもありがとうございます。お客様なのにいつも甘えてしまってすみません……」
「いえ、お世話になっている身として当然のことですから」
彼は頭を下げつつ、感情を表に出さない。彼のこの冷静さを得るには、僕ならきっとあと五年はかかってしまうだろう。
「坊ちゃんの方も大丈夫でしたか?ご迷惑をおかけしていませんか?」
「あ、全然大丈夫ですよ!ゆっくり色々とお話させて頂いて……」
そこまで言いかけて、昨日の会話を思い出す。結局あの後──ベルジェ様が客間を出て行かれてから、まだ顔を合わせていない。
「……あの、今ベルジェ様は?」
「坊ちゃんなら、いつもの姿に戻って早々部屋を出ていかれました」
「そうですか……」
とすると、今部屋にはいらっしゃらないのか……。すると、クシロムさんは一つ咳払い。
「『リンの奴を叩き起しに行ってやるぜ〜!』と、とても意気込んでおられました」
「……」
突然にクシロムさんの口からクシロムさんらしからぬ元気いっぱいの幼い声が出たのにも驚いたが、それはそれとして。わんぱく坊やのベルジェ様は主様の部屋に向かわれたのか。普段主様が起きる時間にはまだ少し早いのだが……。
「いつももう少し経ってから起こしに行くので、起こすには少し手間取ってしまうかもしれませんね」
「大丈夫です、アレは間違いなくベッドに飛び乗る気満々のご様子でしたので」
「あ、主様の身に危険が……!」
何も大丈夫じゃなかった。ベルジェ様、普通に起こしてくれるなら有難いのだけど……。まあ主様もそれなりに頑丈だし、ビックリして飛び起きるくらいで済む程度であることを願う。
というか……
「クシロムさんもそのまま見送ったんですね……」
「アレが坊ちゃんなりのスキンシップなので、御容赦下さいませ」
一応注意はしておいたので、大事にはならないと思います──謝りつつも相変わらず表情を変えないクシロムさん。ベルジェ様といつも一緒にいて慣れているのかもしれない。確かに子どもの姿のベルジェ様はいつもそんな無邪気な感じではあるけども。
「まあなんだかんだ仲良いですよね、主様とベルジェ様」
「そういうことになるんでしょうね。坊ちゃんにとっても、エリンズ様は気兼ねなく話せる数少ないご友人なのでしょう」
そう言うクシロムさんの顔は変わりなく無表情だったが、少しだけ目が優しくなった気がした。普段はベルジェ様と喧嘩ばかりしているクシロムさんも、自分の主人を大切に思う気持ちは、僕が主様に抱いているものとそう変わらないのだろう。
そこでまたも、昨晩の会話を思い出す。『特別な絆』──ベルジェ様とクシロムさん、主様と僕の間にあるもの。明確に言葉で言い表すことはできないが、確かに存在する絶対的な関係。
そして主様と王妃様の間にある、言葉に言い表すことができる明確で絶対的な『親子関係』。親子だからこそ、王妃様は主様の世話を見ようと干渉してくる。
『血の繋がった母親』、か──
「──ファルシエ様?」
クシロムさんの声で我に返る。つい考え事をしてしまった。
「す、すみませんクシロムさん!少し考え事を……」
「どうされました?もしかして、坊ちゃんが何か変なことでも言っていましたか?」
「ああいえ!あ、えーっと……」
咄嗟に否定してしまったが、確かにベルジェ様の言葉を思い出していたのも事実だ。『変なこと』ではないが、ベルジェ様の口から出たことには間違いない。それに、ベルジェ様の最後の反応もずっと気がかりに思っていた。
「えーっと……」
「……やはり、坊ちゃんに何か失礼な話をされたのですね。少しばかり話をつけて参ります」
そう言うクシロムさんは、踵を返して今にもキッチンを出ようとしていた。
「ま、待って下さい!ベルジェ様は何も悪くないんです!」
僕は慌ててクシロムさんの袖を引っ張った。実際、腑に落ちない所があっただけで、ベルジェ様の言っていたことは間違いではないのだと頭では分かっている。クシロムさんに変な誤解を招きたくはない。
「しかしファルシエ様……!」
「ほ、本当に違うんです!だから一旦落ち着いて下さい!」
足を止めたが、まだどこか怪訝な顔のクシロムさん。うーん、彼の誤解を解くにはどうすれば……
……そうだ。
「……あの、クシロムさん」
僕の中にポッと浮かんだ一つの選択肢。昨夜、ベルジェ様と話してから色々考えていた。主様の過去、自分の記憶と知識、そして自分なりの意見──ぐるぐると頭の中を巡り、ぐちゃぐちゃになり始めた考えをまとめたいと思っていたから、丁度いいのかもしれない。
「代わりと言ってはなんですが……」
「はい、如何なされました?」
昨日のことを含め話を聞いてもらって、誤解を解く方が早いだろう。
より僕の考えが伝わりやすいように、僕と主様の昔話もして。
僕は強ばったクシロムさんの顔を覗き込む。
「あの、少し僕の昔話を──」
再び口を開いた、しかしその時だった。
ドゴン
大きな音が響いた。何か重いものが床に落ちるような音。
「な、何の音……!?」
僕はビックリして咄嗟にそちらに注意を向けた。しかし一方でクシロムさんは驚いた様子がなく、どちらかというと呆れたような、やれやれと言わんばかりに肩を落としていた。
「本当に、うちの馬鹿がすみません……」
「え?何のこ──」
何のことですか?──そう聞こうとしてすぐに思い当たる。なるほど、あの音の原因は──
「お前アホか!いきなり他人のベッドに飛び乗る奴がいるかよ!」
「寝坊助なリンが悪いんだろ〜?それに、ロムに言われて体の真上は外してやったんだ!僕に感謝しろ!」
「おかげでベッドから落ちたんだろうが!そもそも他人のベッドに飛び込むんじゃねえ!」
頭上から騒がしい声が聞こえてくる。階が違うにも関わらず声が聞こえてくるとは、二人とも朝から声が大きいな……。
「げ、元気ですね二人とも……」
「本当に申し訳ないです……もっとちゃんと注意すべきでした」
クシロムさんは大きなため息を吐きながら頭を抱えた。しかしすぐに僕の方へ向く。
「あ、失礼いたしました。ファルシエ様、何か言いかけていたようでしたが……」
あ、そうだ。昨日のベルジェ様とのことを、昔話を交えて話そうと思っていたのだった。
しかし何と言うか、今から思うと昔話をするには時間を取ってしまうし、少し軽率だった気もする。それに今は、ベッドから転げ落ちたらしい主様の安否の方が心配だ。
「い、いえ、何でもないです!それより主様たちが心配なので、見に行きましょう!」
そう言って僕は足早にキッチンを出た。僕の態度に何かを感じ取ったのか感じ取っていないのか──黙りこくったその時のクシロムさんの考えは、僕には分からない。
「あの野郎……人のベッドで暴れやがって……」
そう言う主様は、窓を鏡代わりにして額右半分を擦っていた。僕はベッドに潜りながら、不服そうに口をへの字に歪めつつもどこか楽しそうな主様の顔を眺めていた。
朝食と、夜中の仕事の残りを片付けた朝方。一通りのタスクを終えた僕はいつものようにお休みを頂こうと部屋に戻っていた。
朝食の際に、夜眠っていたクシロムさんに主様のことを任せた。普段から生活リズムが逆である主様と僕なのでそこまで心配することもないが、一応念の為、である。
それと同じタイミングで、ベルジェ様に昨夜のことを謝った。もし不快に思われることを言ってしまったのなら申し訳ない、と──しかし、ベルジェ様はケロッとして元気な笑みを見せてくれた。
「別に不快になってないし、ルーシーは何も悪くないよ。気にすることは何もない」
ならばあれは一体──そう思ったが、そこまで追及はしなかった。確かに少し気がかりでもあったが、こちらのことを気にする素振りなくクシロムさんの元へ向かうベルジェ様の様子を見て、敢えて聞き出したいとは思えなかった。ベルジェ様も昨夜から起きていて疲れているだろうし、そんな彼を無理に足止めしたくはなかった。今朝の主様とはしゃいでいた様子からも、本人が言っていたように特に不快に思われている様子がないのは確かなので、彼にそれ以上何かを言うことは出来なかった。
それに、ベルジェ様の『いつも通り』の被害者になった主様は『良い』迷惑だっただろう。
「楽しそうでよかったです、主様」
「はっ、別に楽しくねぇし……」
主様は即座に振り返って不満気な顔を見せたが、やはりどこか機嫌の良さそうなお顔をされていた。素直じゃないだけで、ベルジェ様に心を許している証とも言えるのだろう。
それより、と話を切り替える主様。
「さっき母さんから連絡があった。今日の夕方に家具が届くそうだ」
「!」
そうだ、ベルジェ様たちがいらっしゃっていて忘れてしまいそうだったが、昨日お母様の所で頼んだ家具がもう届くのか。
「分かりました!では少し早めに起きて準備しましょう」
僕は目覚まし時計を手に取り、アラームを仕掛ける。主様は僕の言葉に頷いた。
「あぁ、ファルが良ければ俺が中身の交換とかしておいてもいいけど……」
「いえ!それは申し訳ないです!」
見られて恥ずかしいものは特に無いが、入れ替えや模様替えまで主様に任せてしまうのは申し訳ない。荷物は既にある程度まとめてあるので手間をとるようなことではないが、さすがに家具屋さんが来る時間には間に合うように起きていたい。
主様も分かってくれたようで、ただ「そうか」と頷いてくれた。
「お前がそう言うなら良いけどよ。取り敢えず、今は早く寝な」
「あ、はい!」
主様に促され、改めてブランケットをかけ直す。すると主様も枕元に椅子を運んで腰掛けた。見下ろすように僕を見る主様と目が合う。
「おやすみ、ファル。ゆっくり休めよ」
「はい。おやすみなさい、主様」
ファルシエが床に就いた数分後。安心したようにぐっすりと眠っている彼を確認したエリンズは、静かに従者の部屋を後にした。
さて、何をしようかと考える。従者は眠りについてしまった。お客様の相手──と言っても、ベルジェはファルシエと同様にこれから休みを取るだろうし、夜に睡眠をとったというクシロムも、朝食後すぐにベルジェと部屋に戻ってから姿を見ていない。特に話さなければいけない用事があるわけでもないし、わざわざ暇つぶしに付き合わせるために探し回るのも変な話である。
最近は忙しく仕事をしていたが、そのせいで仕事が早く終わってしまった今となってはやることがなくなってしまった。手元にまだ報告書が残っていればその点検でもしようかと思っていたが、それも昨夜回収されてしまったために手元にない。回収役である例の貴族はこの館の来客用寝室で眠っているだろうから盗めないこともないが、わざわざそんなことをしてまで点検するようなことじゃない。
「というか、普通に見つかりそう……」
普段はフランクに話しかけてくるベルジェ。しかしどこか警戒心が強く、距離を置かれているようにも感じる。こちらが逃げれば追いかけてくるのに、一歩踏み込もうとすると避けられる。そして隙のない佇まい。きっと眠りについた今も深い眠りに入ることはなく、周囲の全ての物事に警戒し、常に神経を研ぎ澄ませていることだろう。
勿論そんなことを本人の口から直接聞いたことはないが、なんとなく分かる。
自分も以前は、同じ狙われる立場だったから。
「……」
国の法整備等で秩序は保たれているものの、財産や名声によって上下が決められている階級制度。その上、混血者とはいえ吸血鬼──一般市民の人間からしたら、おぞましい怪物の血筋。そんな危険の多い環境で育ってきたからこその警戒心。恐らくほんの小さな物音でも立ててみれば、誰かが侵入したのを即座に察知することだろう。
「いや、クシロムさん以外の誰か、か……」
静かな廊下で独り言つ。その時だった。
「──お呼びでしょうか、エリンズ様」
突然声をかけられ、エリンズは思わず足を止めた。聞き覚えのある声と口調から、その声の主にある程度察しをつけて振り返る。そこには予想通り、クシロムが立っていた。
「クシロムさん、いたんですね」
「ええ。驚かせてしまったようで、大変申し訳ありません」
クシロムは恭しく頭を下げる。それにエリンズは「いえいえ」と手を振った。
「別にいいですよ。俺も考え事してたので」
「そうですか。ところで私の名前をお聞きした気がしたのですが、如何なされました?」
「え、いや……」
言葉を濁すエリンズ。流石に「貴方の主人の部屋に忍び込んで資料を奪い返そうと思っていた」とは言えない。エリンズは上手い返しを考えた。
「……ベルジェとクシロムさんって、凄く仲がいいんだなと思って。ただそれだけです」
「坊ちゃんと私が、ですか?」
クシロムはエリンズの言葉にキョトンとする。
「私からすれば、エリンズ様とファルシエ様も非常に仲睦まじくお見受け致しますが」
ところでエリンズ様はどちらに?──と、唐突に尋ねるクシロム。エリンズは脈絡のない質問に戸惑いつつも目的地がないことを伝えると、
「それではよろしければご一緒にティータイムと致しましょう」
と、クシロムは足を踏み出した。彼の自由さに、エリンズはさっきまで頭に浮かんでいた彼の主の顔を再び思い出さざるを得なかった。
「……なんか、あのベルジェに仕えられるのも納得って感じだな……」
足早に歩みを進めるクシロムにスピードを合わせながら呟く。それを聞き逃さなかったクシロムは、またもおやおやとエリンズの方へ振り返った。
「そうですか?」
「ええ、クシロムさんって意外にマイペースですよね。ベルジェになんとなく似てます」
「エリンズ様にはそう見えていらっしゃるんですね、自分ではあまりそう思っておりませんが。まあそんなことは置いておきまして」
「そういうところですよ……」
話しながら自分の性格診断を確信に変えるエリンズ。それを全く気にしないマイペースなクシロムは続けた。
「件のパーティ参加で、お二人の信頼関係がよく見て取れたように感じます」
「……」
クシロムは足のスピードを変えることなく、無感情に淡々と告げる。エリンズは一人、昨日の司令を思い出した。
「『同伴して欲しい』というエリンズ様からの信頼と、『同伴したい』というファルシエ様からの思いやり──これらは中々に強いものであるとお見受け致しました」
まあ、他のペアでもそのような信頼関係を築いている者たちは少なくありませんが──クシロムは続ける。
「とはいえお二人のご様子を見ていると、随分と距離が近く感じられます。それこそ──主従関係以上であるかのように」
その言葉に、何か違和感に似たものを敏感に感じ取ったエリンズ。その真意を見定めようと思考を巡らせる。しかしそれを隠すようにすぐに応えた。
「まあ二人っきりでずっと暮らしてきたので。母さんの──養母さんの所にいた時にも対等に接してもらっていたので、『主従関係』よりも『家族』みたいな感覚なんだと思います」
笑って答えるエリンズ。一方相変わらず無表情のクシロムも淡々と返した。
「家族、ですか。とすると、『大事な弟』、という感覚でしょうか」
「……」
エリンズの言葉が思わず詰まる。
「……弟……」
家族──兄弟。
「……そうですね。そう言われると、年齢的にも弟が一番近いかもしれませんね」
そう言い、口元を緩める。しかし、彼の表情はどこかもの悲しげな、複雑な表情だった。
「……」
パートナーを『家族』に例えるほどに、エリンズにとってファルシエの存在は大きい──クシロムは心中を察する。一方でエリンズは緩んだ己の顔に気付き、改めて引き締め直すと、反論の意味でクシロムの方へ向いた。
「というか、クシロムさんたちも他人のこと言えないじゃないですか……」
「そうですか?」
「ええ。お二人の関係も、典型的な主従関係ではないように思います」
「……そうですか?」
「……本当に無自覚なんですか?」
エリンズの言葉に、クシロムははてと首を傾げる。その様子に、驚きを隠せないエリンズ。
「危険を伴ったり倫理的に悪いことでない限り、従者が主人の命令に逆らうようなことは滅多にないですよ。クシロムさんはよくベルジェの命令を無視したりしてますけど」
「無駄に偉そうにされていて癪に障るので」
「だからそういうところですって……」
予想はしていたものの、ハッキリと返された言葉にエリンズは戸惑いを隠せない。
しかし同時に、それはまるで──
「なんというか、お二人は『主人と従者』というより、『友達同士』って感じですね」
対等に渡り合っている様子の二人。それはまるで友人のような関係──そう写った二人の関係を、エリンズは我ながら的を射た言葉で表現できたと感じた。
クシロムは──
「『友達同士』……」
神妙な面持ちで、声のトーンを下げて呟いた。その顔には笑みがあったが、こちらもまた、どこか憂いのようなものを含んでいるように見えた。
「……そうかもしれませんね。私たちは所謂、『友人』と呼ばれるような関係に近いのかもしれません」
クシロムはゆっくりと繰り返し呟く。まるで自分に言い聞かせるように。まるで、何かを答え合わせするように。
「……?」
しかし、それをエリンズがまじまじと覗いていると、クシロムはすぐに普段の無愛想に戻った。
「二組のペアがいれば、それぞれに違った主従関係がある──それぐらい、『特別な絆』による主従関係は力が弱いものであるということですね」
「……はあ」
クシロムの様子に、返事をしながらもエリンズの怪訝な視線は変わらない。そんなエリンズに構うことなく、クシロムは真っ直ぐ正面を見つめて歩いていた。
気が付けば二人は階段を降り、一階の客間へ到着していた。クシロムがドアノブに手をかける。
「続きはお茶を飲みながらに致しましょう。私はキッチンでお茶の準備をして参りますので、エリンズ様はこちらでお待ち下さいませ」
「あ、はい。ありがとうございます……」
これではどちらがお客様か分からない──エリンズは相変わらず、友人の召使いの自由さに曖昧な返事を返す。クシロムはキッチンの方へと爪先を向け、スタスタと去って行く。エリンズはその背をしばらく見つめ、客間へ足を踏み入れた。