第二話-1 二人の関係 その一
夜十時。主様が寝付いたのを確認してから部屋を出て、家事を済ませようと洗面所に向かう。
今日は色々なことがあった。町へ行って、お母様に会って、市場の人たちにもご挨拶して……それまでは予定通りだったが、その後ベルジェ様たちが来たのは想定外だった。そうだ、明日は家具入れ替えもあるから、ある程度まで整理も終わらせておかなければいけないな。普段通りの家事に合わせると、結構仕事が多そうだ。お客様たちも部屋に戻られているようだし、今が家事を片付けるチャンスかもしれない。よし、気合いを入れなければ!
主様もお疲れだったのだろう、毛布をかけるとすぐに寝息が聞こえてきた。
「ゆっくりお休みになられますように……」
主様の寝顔を思い出しながら呟く。と、そこである部屋へ意識が向いた。
「……あれ?」
まだ客間の明かりが付いていた。なんとなく消した気でいたが、消し忘れていたのだろうか?
しかし近付いてドアの隙間から部屋を覗こうとすると、
「お、いい所に来たな」
中からそんな声が聞こえた。扉を開けると、そこにいたのはベルジェ様だった。
「……ベルジェ様!」
「誰も来ないからつまらなかったんだ。入って来い」
そういう彼の風貌は先程とは違い、主様と同等の背丈がある成人男性の姿だった。ベルジェ様は普段から幼い格好をされていてついつい忘れてしまいがちだが、実年齢は主様よりも歳上。つまりは今が年齢相応の姿なのだ。
「こちらにいらっしゃったんですね。クシロムさんは?」
「アイツは今寝かせた所だ」
「そうでしたか、珍しいですね」
ベルジェ様たちの寝る時間はその時によってまちまちで、主様と同じように夜寝たり、僕と一緒で昼に寝たりする。しかしながら二人はいつも一緒にいる印象があったので、ベルジェ様がいらっしゃるということは、てっきりクシロムさんも一緒にいるものかと思ったのだが……。ともあれ折角ベルジェ様がいらしているので、家事を続けるのも失礼だろう。時間はまだあるし、とりあえずは後に回すことにしよう。僕は先程の挨拶後に客間に用意しておいたティーセットを準備し始めた。
「ああ、お構いなく。部屋で寝てるロムを起こしちゃ悪いと思ってここへ来ただけだからな」
そう言う彼の膝の上には、お客様宿泊用の部屋に置いておいた本があった。いつも一緒にいるパートナーが眠ってしまって、手持ち無沙汰な所もあったのだろう。クシロムさんに比べれば使用人として至らない所もあるが、僕だって話し相手ぐらいにはなれるはず。
「遠慮なさらずに。どうぞ」
僕はベルジェ様の前にカップを置いた。彼は本を脇へ置くと、組んでいた足を崩した。
「本当に様になっているな、ルーシー」
「……?ありがとうございます……」
突然に褒められ、我ながら素っ頓狂な声を出してしまった。しかしそれをさほど気にしていないかのようなベルジェ様は、優雅に紅茶に口を付けた。
あ、そうだ。
「あの、ベルジェ様。先程はありがとうございました」
明日また会った時にでもお礼を言おうと思っていたのだ。主様と話した後直ぐに去って行ってしまって、お礼を言う隙もなかったから。
「ん?何のことかな?」
「パーティへの同伴を許可して下さったことです。主様のあのご様子では、僕も心配だったので」
「ああ、あれか」
僕の説明に、はてと首を傾げていたベルジェ様も微笑んだ。静かにカップを置く。
「アイツはいつも一人で隅の方にいるからな、見ているこっちがいたたまれなくなってくるんだよ。それに、流石に直前の出席命令でリンにも同情できる所があったからな」
うーん、普段パーティーに参加する時には離れ離れになってしまうことも多くて、パーティー中での様子をあまり知らなかったのだが、いつも独りになってしまっていたのか。それは主様の精神衛生上でも良くない。今後も何かの招待状が来たとしても、使用人同伴可能なものだけ参加できないか相談してみようかな。
「まあアイツが断ったのも悪いけどな。王室主催だから十中八九家族と再開することになるだろうし、拒否したくなる気持ちも分からなくないが──だからこそ、『元王子』として参加する義務があるんだよ」
『元王子』として──か。いくら王室を離れたとは言え、血筋を否定することは出来ない。
「それに、いくら嫌だと断ったところで、見つかれば王妃殿下に出席するよう命令されることぐらい、アイツにだって予想できただろ。リンも考えが甘かったな」
まあ、殿下が何百通もある手紙の中からアイツの手紙を見つけるのだって相当低い確率だし、総合的に見て今回のアイツは運が悪かった──ベルジェ様はそう言ってソファに背を預けた。大きく伸びをし、脚を組みなおす。
しかし確かに言われてみると、王妃様から何かしら命令が下ることが多い。ベルジェ様たちがここに来るようになった当初の理由も、王妃様からのお達しがあってのことだったらしいし……。
「王妃様は何故、そんなにも主様にこだわるのでしょう……」
僕は答えを求める意味でベルジェ様を見た。だが一方でベルジェ様は──
「……」
何かに驚いたように目を丸くしていた。……いや、え?
「……」
「……あの、僕、何か変なこと言ってしまいましたか?」
僕の声に、我に返ったようにハッとして見せるベルジェ様。彼は座り直して紅茶を一口含むと、僕の方へ改めて向き直った。
「ルーシー」
「は、はい!」
名前を呼ばれ、思わず背筋を伸ばす。一体何を言われるのか──
「──実は今度、隣の国に一週間出張することになったんだ」
……え?
「……はあ、そうですか」
ベルジェ様が突然に話を逸らしたので、内心驚きながらも相槌を打った。つい反応が遅くなってしまったが、急に何の意図でその話をしているのだろうかと疑問が浮かぶ。
「それは、えっと……お気を付けて行ってらっしゃいませ」
「……」
ベルジェ様は再び紅茶に口を付ける。そして、小さく微笑む。
「──というのは嘘でな、隣国に出張に出るよう命令されたのは、リンの方なんだ」
「……えっ!」
僕は驚きのあまり前のめり気味でベルジェ様の方へ振り向いてしまった。いや、でもだって……『リン』って、主様が!?隣国に出張!?そんな、僕は聞いていない!
「そんな、急になんでまた──」
「実はリンにだけ、前々からこっそりと情報共有していたんだ。リンも承諾していたし、ルーシーの同伴も要らないと言っていた」
「そ、そんな……」
ぜ、全然知らなかった……そんな話が僕の知らないところで進んでいたなんて……!しかも主様お一人で異国へ……!
そんなの、大丈夫なのだろうか?いや、主様がか弱いとかそういうのではないが、なんだかんだ日をまたぐような出張の経験はないし、長年ずっとここに篭もりっぱなしなのだ。そんな、いきなり一週間この家を離れるだなんて……!
ベルジェ様はその話を元から知っていて黙っていたのか……パーティの件と言い、出張の件と言い、今日はベルジェ様に驚かされてばかりだ。本人は優雅に紅茶を飲んでいる。彼は紅茶を飲み終えて空になったカップを置くと、優雅さを保ちつつ微笑んだ。
「ま、これも嘘なんだがな」
「そうですか……えっ、嘘!?」
一人ショックを受けていた僕は、ベルジェ様の言葉にまたもや驚かずにはいられなかった。
「嘘なんですか!?本当に!?どこからどこまで!?」
「全部だよ。最初から最後まで。リンにも話していないし、そもそも僕にもリンにも出張の話など出ていない」
「ぜ、全部、嘘……」
そう言葉を繰り返し、僕は改めてその言葉の意味を理解する。肩の力が徐々に抜けていくのが分かった。僕が完全に状況を把握するまでどれだけの時間が経っていただろう。
「……よ、よかった……」
「ふふふ、これまでに見ない程の動揺っぷりだったな」
ベルジェ様が腕を組んで笑う。ベルジェ様は見ていて面白かったかもしれないが、僕は初めて知った事実(いや、事実でもなかったのか?)に戸惑いを隠せなかったし、我ながら今までの人生で一番の驚きようだっただろう。実際は全てベルジェ様が吐いた嘘だったとはいえ、本当に心臓に悪かった。
「わ、笑い事じゃないですよ!本当にビックリしたんですからね!」
「悪い悪い。まあそれはそれとして──」
僕の反論を軽く受け流すベルジェ様。しかし直ぐにその笑みを違う種の微笑みに変える。赤い左目はこちらをじっと見据えている。
「さっき、僕が出張に行くと言った時とリンが出張に行くと言った時、ルーシーの反応はそれぞれ違ったよな。『僕が行く』と言った時には特に大きな反応を示さなかったが、『リンが行く』と言った時には大きく動揺した。それは何故だ?」
「それは……」
何故って、主様は僕の主人で、従事する者として心配になるのも当然のことで……大抵の予定は把握しているつもりだったから、突然自分が把握していない予定の話を切り出されたら、普通驚くだろう。それにベルジェ様は、目上の方でお偉い方とはいえ、主様ほど近くにいてお世話になっている訳ではないし、ベルジェ様との関係は主様との関係とはまた違うもので……
「だけど、僕たちが混血者である以上、パートナーとの関係は『契約が結ばれた』と言うには効果が薄いもので、そこに絶対的な関係は存在しない。では、ルーシーとは『只の他人』であるはずの僕とリンで何が違うのか」
確かに、主様とは血も繋がってないし、特別な文書で契約を結んだわけでもない。しかし僕にとって主様は、決して『只の他人』ではない。一緒に過ごしてきた時間も違うし、主様とはいっぱい色んな経験を共にしてきた訳で、違いが出てくるのは当然のことで……
「それが世間一般に言われる僕たち混血者と人間の関係、『特別な絆』だ」
ベルジェ様は僕の言葉を肯定するようにこちらを指さした。そしてその手を器用に使って話にジェスチャーを混ぜる。
「ルーシーは当たり前のようにリンの身を案じるし、何か問題が発生すれば助力になろうとするだろう?同様に、僕もロム以外に身の回りの世話を任せることなど考えられない、任せられない。家族のような明確に決められた絶対的な関係性はないが、『友人』などと呼ばれるような薄っぺらいものでも無い。必ずしも縛られることはないが、自然と引き寄せられて時間を共有する。絶対的な関係は無いが、お互いに絶対的な信頼を寄せる──それが僕たち混血者と血を吸われた人間との関係だ」
忙しなく動く手の一方で、深い赤色の左目にじっと見つめられる。それは思わず視線を外したくなるような、しかし外すことが出来ないような鋭い目。
「その何とも表現しがたい関係を適切に表現する言葉がないから、『特別な絆』なんていう大それた名前で呼んでいるんだ。まあ言葉で説明するならこんな所だろ。さて話を戻すと、ルーシーの質問は『何故王妃殿下がそこまでリンにこだわるのか』だったな」
そうだ、初めはそういう話をしていたんだ!ベルジェ様が唐突に出張の話を出すから……本題をすっかり忘れていた。しかし、一体今の話とどういう関係が……
「吸血鬼の混血者と血を吸われた人間との間には、言葉に言い表すことのできない、曖昧であって明確でもある関係がある。しかし、リンと王妃のような血の繋がった者同士には、言葉に言い表すことのできる、より確かな関係があるだろう?」
主様と女王陛下の間……血の繋がった者同士の関係……。そう言われると、一つしか思い浮かばないが……
「血縁関係──『親子関係』と仰りたいのですか?」
「正解」
そう言って肩を竦めるベルジェ様。
「親っていうのはどうしようもなく子を愛しているものらしいからな。特に母親なんて、自分が腹を痛めて産んだんだ、父親以上に愛は深い。だから殿下もリンに執着──いや、リンを大切に想っているんだよ」
まあ子どもの方は嫌がっているがな、なんと長い反抗期だこと──ベルジェ様はやれやれとでも言うように手を広げて見せた。
「リンがどう思っているのかはともかく、殿下のアレはリンのためを思っての行動なのだろう。親になったことのない僕たちには、到底分からない感覚なのかもしれないな」
親になったことのない僕たちには分からない──確かにそうかもしれない。ましてや、血の繋がった親を知らない僕には、全くもって理解の及ばない領域なのかもしれない。
でも──
「──でも、血が繋がっているだけですよね?」
僕は自然と口を開いていた。ベルジェ様の考えに頭では理解していても、心の中では中々納得がいかなかった。
「親子関係ってだけで、こんなことが許されるのでしょうか。離れて住む息子を自分の元へ無理矢理引き戻すなんて……。しかも本人は嫌がっているんですよ?本当に大切なら、本人が嫌がるようなことしないと思うんですけど」
主様が今のように国の外れに住むようになったのも、ある種であの王室のせいもあるらしい。それなのに、親子の血縁関係があるからというだけで、本人が嫌がっているにも関わらず王妃様は主様を何度も呼び出すのだ。それは本当に愛なのか──ただのエゴではないのか?
僕なら、主様が独りぼっちになるようなことは、絶対にしたくない。
ベルジェ様は──
「──じゃあ逆に聞くが」
こちらに改めて向き直る。今度ベルジェ様に向けられた目は、目じりの下がった、優しさのあるものだった。
「ルーシーにとって、リンはどういう存在なんだ?」
「僕にとっての、主様……?」
また突然、話の矛先が僕の方へと向けられた。うーん、僕にとっての主様……。
「主人であり、大切にしたい存在、ですかね?そういうことで合っていますか?」
「まあ合っているが、もう少し具体的に話して欲しいな。そうだな、例えば──」
言葉を選び、紡ぎながら彼は人差し指を立てる。
「──『親友のような存在』とか」
「親友……ですか……?」
なるほど、主従関係以外の具体例を使って僕にとっての主様を表現するのか。僕にとっての主様……。
改めて冷静な分析を試みる。確かに、僕にとって主様はただの主人ではない──しかしながら、『親友』と言われてもあまりしっくりとこない。そもそも友人と呼べるような人が僕の身の回りにいなかったのもあるだろうが、なんというか、僕が想像する『親友』とは少し違う気がする。こう、なんというか、『友達』の距離感と言ってしまうと、僕と主様の間にある実際の関係よりもなんとなく遠く感じてしまう気がして……。
「うーん、親友、友人……」
「……その様子だと、どうやら違う様だな」
ベルジェ様が手を口に当てて笑う。
「『親友』ではなさそうか」
「はい……上手く言葉に出来ないんですけど、友人関係と言うには、主様とはもっとこう、距離が近い感じがして……」
上手くまとまらなくてつい身振り手振りを付け加えてしまった。我ながら乏しい語彙力だ、などと呆れてしまったが、
「なるほど、じゃあもっとグッと距離を近付けて──」
彼はそう言いながら、僕の動きを参考にしたように両手の人差し指を近付けて見せた。
「『家族のような存在』──とかどうだ?」
「……!」
『家族のような存在』か!確かに言われてみるとずっと一緒に一つ屋根の下で生活を共にしていて、所謂『家族』や『兄弟』と呼ばれるものに近いのかもしれない。なんとなく『親友』の方が縁が遠くて素っ気ない感じがするし、『家族』の方がしっくりくる気がする。
まあ、明確に『家族』と呼ばれる存在も、『友人』と呼ばれる者もいたことはないんだけど。
……恐らくベルジェ様やクシロムさんのような存在を『友人』と呼ぶのだろう、きっと。僕なんかがベルジェ様たちを『ご友人』と呼ぶなんて、不相応かもしれないが。
「確かに僕にとっての主様は、『親友』よりも『家族』に似ているのかもしれません」
そうすると、お母様──メリア様も家族に近いのだろう。実際、『お母様』と呼ばせて頂いているし。
「……なるほど」
ベルジェ様はこちらを見つめていた目を伏せて大きく笑った。
「ルーシーにとっては、アイツが家族か……」
彼は小さく一言漏らすと、横に置いてあった本を手に持った。
「いい話を聞かせてもらった。ありがとうな」
「え?いえ……」
僕の話のどこに褒められる程の『いい話』があったのだろうか?そう不思議に思っている間に、ベルジェ様はソファを立ち上がった。そのまま客間を出て行かれようとする。
「さて、僕はそろそろ部屋に戻るとしようかな。ルーシーも何か仕事があって来たんだろ?邪魔して悪かったな」
「いえ、とんでもございません……!」
僕は慌てて応える。ベルジェ様はこちらに振り返ることなく、ただ軽く手を振って客間を後にした。
突然どうされたのだろう。僕は変なことを言ってしまったのだろうか。もしかして、また何か恥ずかしいことを言ってしまった!?もしくは『いい話』というのは皮肉の意味で、実はお気を悪くされていたとか!?そうだったらどうしよう、どうやって謝ろうか……。
ベルジェ様が去って残されたカップを片付ける。もし失礼なことを言っていたらどうしよう、何が悪かったのか、ベルジェ様のあの『いい話』という言葉はどういう意味だったのか──いくら考えても答えは出るはずもない。僕は悶々と頭を巡らせながら、仕方なく後回しにしていた家事に戻ることにした。