第一話-1 二人の青年
僕の一日は夕暮れ時から始まる。
空が赤く染まり始めた夕刻。ある王国の中心部から、それを取り囲む広い森を超えたその先にある小さな町。そこから更に少し離れた、雑木林の中にある一つの館──そんな辺鄙な場所にあるそれが、僕たちの住む家だった。白を基調とした大きな館の、ある一室の扉をそっとノックする。 皺一つないシャツに黒のベスト、パンツをキッチリと着用し、長髪をリボンで一つに纏めている。自身の服装を改めて見直し、僕は静かに扉を開けた。
「失礼いたします。主様、夕食のご用意が整いました」
主様の様子を伺いながら、僕は静かにそう言って頭を下げた。
ファルシエ・ヒューゼン──それが僕の名前だ。なかなか幼さが抜けてくれない顔立ち、異常なまでに色白の肌に、異様なまでに目立つ赤い瞳。女性と比べても負けず劣らない程に長く伸ばした髪は金色で、クリーム色のリボンで束ねられたそれは、首の横を周って胸のあたりまで伸びている。僕は深々と頭を下げ続け、黙って部屋の主──もとい、主様の返答を待った。
主様はまるで僕が来ることを事前に分かっていたかのように余裕のある表情をこちらに向けていた。僕より大人びた雰囲気を纏った彼は、僕の姿を見て優しげに口元を緩めた。
「あぁ、今行く」
エリンズ・グランドホーク。彼が僕の主だ。僕より六つ年上の彼は、十分に成熟した男性の出立ちだ。顎あたりで切り揃えられた綺麗な黒髪が僕とお揃いのリボンで纏められ、その下の色白な肌には、吸い込まれそうな程に澄んで綺麗な真紅の目がよく映えている。
彼は丁度仕事の終わるところだったようで、 緑色のベストの襟を正すと、器用な手つきで首元の白いスカーフを留め具で留め直した。机上の資料を片付けると席を立ち、凛とした出立ちで僕の方へと歩み寄る。
「いつも悪いな、任せっきりで」
僕より頭一つ分背の高い主様が、どこか申し訳なさそうに眉を顰めてこちらを見下ろす。住まわせていただいている身としては、寧ろ家事だけをしていて、ちゃんと恩返しが出来ているのかと不安に思われるのだが......。僕は主様の方へ微笑み、返事の代わりとしてこれまでの感謝を述べた。
何気ない会話をしながら二人で主様の部屋を出る。向かうは廊下の突き当たりにある洋間、ダイニングである。中には、派手な装飾で飾られた、僕たち二人が座るのに丁度良い小さめサイズの長テーブルと、それに見合う椅子が二脚、一つは奥に、もう一つはその左手側に置かれている。奥の席が主様で、手前が僕だ。照明や絨毯、その他調度品も豪華な造りで、部屋の雰囲気は華やかに統一されている。ダイニングに到着し、僕が奥にある椅子を引くと主様が腰掛けた。僕は一度隣の部屋へと移動し、先程まで用意していた料理の数々が載ったワゴンを持ってきた。それを綺麗に卓へ並べる。全ての準備が終わり、僕が席に着くと、二人で揃って食事を開始した。
「今日のお仕事の方はどうですか?以前、新しいお仕事が追加されていたようですが」
「あぁ、ちょっとな。全く、上は面倒臭い仕事ばかり押し付けてきやがって」
「あはは、お疲れ様です、主様」
食事と並行して雑談が進む。話の流れで呆れた表情をしていた主様は、ちらりと僕の方に視線を向けた。
「ファルの方はどうだ?そうだ、今夜も勉強見てやろうか?」
「はい!丁度それをお願いしようかと思っていたところでして!」
僕は学校に通っておらず、昔から家で勉強をしていた。方法としては基本的に本を読む独学だが、時折こうして、主様に勉強を見て頂いているのだ。丁度読んでいた本で分からないところがあり、またお願いしなければと思っていた。それを主様に見抜かれ、つい少し前のめり気味に答えてしまった。主様はそんな僕を珍しいものを見るような目で見ていた。
「お前、物好きだよな......そんなに勉強好きなのはお前ぐらいだぞ」
「いえいえ!全ては主様の教え方が分かりやすくて楽しいおかげです!」
「あぁ、そう......」
少し引き気味な主様。そんな顔をされるのもなんとなく心外である。
「そう言う主様こそ、昔は熱心に勉強なさっていたじゃないですか」
「仕事なかったから暇だっただけだよ。ただの暇潰し」
「暇潰しに勉強なされるのも主様ぐらいだと思いますよ......」
主様も似たり寄ったりで少し安心してしまった僕だった。主様もまだ仕事を与えられていなかった若い頃は、すっかり本の虫になっていた。誰も教師がいない状況の中、主様が身に付けた知識量を考えると、先生(代わりである主様)に頼りっぱなしである僕にとっては十分尊敬に値する。
主様はこの会話が似たもの同士の不毛な会話に思えたのか、一つため息を吐いて話を切り替えた。
「まあ勉強のことは分かったから。他も大丈夫か?」
「はい、大丈夫です......あ、えっと......」
僕は主様に返答する途中で、また別のことを思い出してしまった。それは、まあそれなりに必要不可欠なことだった。ただ同時に、あまり僕から持ちかけたくない話でもあった。その行為は主様にも負担になるし、迷惑だろうし、それに──
ただ、僕たちの関係には必ずしなければいけないことだった。僕は躊躇いながらも、口を開いた。
「その......もし宜しければ、今夜またアレを......」
「……」
僕の声は自分が思っていたよりも小さく聞こえた。実際他人からしたらどうなのか分からないが、しかし主様はしっかりと聞き取れたようだった。僕が言う前から察していたのか、はたまた予想しておらず驚いたのか、主様は食事の手を止めた。
「......ファル」
「は、はい!何ですか?」
主様の、少し憤りを含めたような、呆れたような声に背筋が伸びる。僕は無意識の内に逸らしていた視線を、再び主様の方に向けた。こちらを真っ直ぐ見据える彼と目が合う。
「別に恥ずかしがることでもねぇし、俺もそろそろじゃないかなと思ってい たところだ。いつも言ってるが、遠慮せず欲しくなった時言ってくれ」
「......」
主様の言葉に少し戸惑う。主様が、僕のことを心配してくれて言葉を掛けてくれているのがひしひしと伝わってくるのだ。で、でも......!
「でも主様の負担が大きいですし、それに......」
そして何より── 僕は続きを言うか言うまいか迷い、口ごもった。主様は静かに微笑み、僕の肩に手をかけた。
「大丈夫だって。今までもこうしてやってきてるんだからな。それとも、俺のことが信じられないとでも?」
「そ、そんなんじゃないです!でも......」
僕がまだ頷けずにいると、主様がスっと僕の顔を覗き込み、じーっと目を見つめる。……うう、主様にはどうしたって敵わない。僕は素直に負けを認めた。
「……分かりました、次から気を付けます」
「気を付けるというか、別に素直に言ってくれりゃいいだけなんだけどな」
いつの間にか食事を再開して夕食を完食していた主様は席を立つと、「ま、とりあえずアレは今日の勉強が終わってからな。それじゃあ俺は先に行って準備してるから、他の用が済んだら俺の部屋に来い」 などと言い残してさっさとダイニングを去って行った。
「はぁ......」
主様の姿を見送り、僕は独り大きくため息を吐いた。全く主様は、変な所でマイペースで強引なのだ。まあ、それが主様のいい所でもあるけれど。
「......よし」
僕は一人で静かに気合を入れると、お皿に残っていた料理を急いで口に運んだ。食事を終え、主様の食器と自分の食器を片付ける。全てが使用前のように綺麗になったことを確認すると、僕は自室へと足を向けた。
僕たちの家の一階には、ダイニングに客間、掃除用具部屋、キッチン、ランドリー室、バスルームと、主様が先程使っていた書斎があり、僕たちの寝室はというと二階にある。階段を上がってからお客様用の空き部屋を二つ超えたところにある主様の部屋をノックしようとした所で、目の前の扉が開いた。開けたのは、もちろんのことながら主様だった。
「お、丁度来てたのか、ファル」
「はい、お待たせしました……主様、どうかなされたんですか?」
僕の姿を見た主様は少し驚いた様子だった。僕の来るタイミングを見計らって出てきた訳ではなさそうだ──ということは、他に用事があったのだろうか?僕が素直に尋ねると、 主様は「ああ」と肯定しながら視線を下へ落とした。
「色々本の準備とかしてたらさ、本棚が古くなってて、ささくれ立ってるところがあってさ。指切っちまった」
そう言って主様は右手を見せた。その親指には── 血。
傷口から溢れ、粒のように溜まった血。 深みのある真っ赤な色の血。
綺麗な、赤い血。
──美味しそうな、血。
「──ファル?」
「は、はい!」
主様の呼びかけに、僕はまたまた思わず大声を出してしまった。ボーッとしていた頭が冴え、我に返る。主様の前でつい気を緩めてしまった、情けない。
「す、すみません!今すぐ救急箱を──」
僕は慌てて踵を返す。しかし駆け出そうとする前に、主様に腕を掴まれた。驚くのも束の間、部屋に引っ張りこまれる。
「悪い、俺が迂闊だった」
そう言いながら主様は扉を閉めた。そのまま僕を扉に背を向けるよう導き、 その上から覆い被さるように扉に手をついた。
「あの、主様──」
早い展開に状況を把握出来なかった僕はそう口を開きかけたが、その口は主様の次の行動で止めざるを得なかった。 主様は無言で、僕の目前に右手の親指を突き出した。指からは、綺麗な血が滴り落ちていた。
「......あぁ......」
ああ、血、ち、チ。
チ、ホシイ。
気が付けば僕は、主様の手を取って自分の口元に持って来ていた。美味しい。 そうだ、これが血だ。 指から垂れていた血を伝って傷口を舐める。そのまま指を咥え、舌で転がす。 鉄に近い血の味が口全体に広がった。 指は僕の舌に血を押し付けるように力が入ったのが分かった。そのままスルスルと奥歯の方へ移動する。歯をなぞるように動く指をもっと味わいたくて思わず軽く噛むと、指は少し驚いたように震えたが、隙間に沿って前歯の方へ移動してきた。指が唇の方に移ると同時に、僕は顎を持ち上げられ、つられて視線を上へ向けた。 暗闇の中、真っ赤に光る主様の目と目が合う。主様は左手で器用に襟のボタンを外して広げ、僕に首筋を見せていた。
「来い、ファル──」
僕は主様の手を離し、彼の首に噛み付いた。
数分後。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいー!主様ー!死なないで下さいー!」
「うっるさ......死なねぇから......」
僕は懺悔の言葉を並べていた。
ベッドで横になる顔面蒼白の主様は、いつも通りには動けないながらも安否確認には応じてくれた。 顔面蒼白、と言っても、別に恐怖体験をしたとかそういうものではない。これは単なる貧血だ。体内の血が足りていないから単に顔が真っ青なだけなのだ。
「僕が大量に血を飲んでしまったせいなんですけどねー!あーもう本当にいつもいつもごめんなさいー!」
「いつもいつも血飲んだ後はうるせぇな、お前は......」
「これぐらいじゃ死なねぇっての」と、本心なのか僕を安心させるためなのか、 苦しそうに呟く主様。いや、でも僕のせいであることには変わりないし ──!
まだ主様を心配に思い見つめていると、主様は変わらぬ元気の無い声で、それでも少し微笑みながら呟いた。
「それにお前はハーフだからな。純血に比べればまだ軽い方だろ」
純血──混じりっけのない血。
そして僕は純血ではない──吸血鬼のハーフ。 吸血鬼の血が半分だけ混じった不完全なもの。
「とりあえず、そろそろ寝かせてくれ......ちょっと顔動かしただけでも目の前がグラグラする......」
少し考え事に集中してしまったところで、主様の言葉で我に返る。
「ああごめんなさい!ゆっくりお休みになって下さいねー!」
「だからあんまり大声出すなって......」
「す、すみません......」
主様はそっと目を閉じた。静かにその寝顔を眺めていると、ほんの少ししただけで小さな寝息が聞こえてきた。
「よかった、ちゃんと生きてます......」
僕はまたもや生存確認をして一人ホッとしてしまった。頭の中で主様に「だから死なねぇって」と文句を言われる。しかしいつものことながら、やはり心配になってしまうのだ。
僕には、主様しかいないから。
「......」
この国は、近年になって他国からの先進的な知識や技術を輸入し、少しずつ 『近代化』が進んできている。
しかしまだ──いや、例外的に、というべきか。この国は人間と人外の境界が曖昧で、当然のように怪異たちが社会の中に組み込まれていた。
そのため怪異の血を引く者も多い──そして僕が、その一人だった。
吸血鬼──血を吸う鬼。
吸血鬼に血を吸われた人間は、そのまま命を落とすか、吸血鬼と主従関係で結ばれるかのどちらかである。 吸血鬼の血にそれ以外の血が混ざれば、当然、人間との間に築かれる主従関係の力も弱くなる。そのためこの国では、吸血鬼の混血者と血を吸われた人間の間にできる関係を『特別な絆』と呼び、完全な主従関係を縛るものではないとして区別した。しかしそれを純血の吸血鬼と人間の関係に当てはめて、主従関係を築く者も少なくなかった。
「......絶対」
僕は吸血鬼の混血者。
「この命に代えてもお守りします、エリンズ様」
エリンズ様は、僕の主。