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5.伯爵夫人は日向の種に水を遣る

 「伯爵家の家宰であるエミール・モルゲンロートが夫に毒を盛って殺した」

 「その罪は長男にあると夫を亡くして精神が弱っていた妻に吹き込んだ」

 「疑いを掛けられた長男を庇うことで信頼を得て、伯爵家を我が物にしようとした」


 明確な証拠も証言もないベロニカの訴えはあっさりと認められた。

 エミールが魔力を持たない平民だからだ。


 アストルムでは平民の地位は低い。

 例えば、貴族に暴行されそうになった平民の娘がその手を払いのけ、傷をつけたというだけで百回の鞭打ち刑に処されるほどに。


 そのうえ、愛しい末娘の名誉を傷つけられたと怒り狂った子爵家が手を回している。

 ベロニカの生家は貴族裁判に自分の息が掛かった者を送り込める力は持っていない。

 だが、平民相手の裁判なら自在に判決を操れるだけの力は持っている。

 いくら有能でも平民でしかないエミールが有罪にならないはずがなかった。


 貴族が貴族を殺せば毒を呷っての自死だが、平民が貴族を殺した場合はさらに罪が重くなる。

 一月後の斬首と、あらゆる権利の剥奪。

 それが、わずか一時間足らずの裁判で有罪とされたエミールに告げられた判決だった。


 権利の剥奪、というのはつまり刑が執行されるまでエミールに何をしても許されるということだ。

 気晴らしに鞭打とうが暴行しようが罪には問われない。

 主君を殺し、高貴な血を引く者を操ろうとしたとされる平民にはふさわしい罰だった。






「ベロニカ様、どうかエミールに対する訴えを取り下げて下さい!

 彼は無実です。私が証言します!」


 事を知った長男は必死になって親友の無実を訴えてきた。

 無実しか訴えて来なかった。

 まるで、ベロニカが「エミールが夫を殺したのだと心の底から信じている」とでもいうかのように。


「知っているわ」

「……え?」


 だから、ベロニカはそう告げてやった。

 蒼白になる長男を見上げて、言葉を続ける。


「知っていると言ったのよ」

「それなら、どうして……」

「あなたが跡を継いだら、私やディートフリートに復讐するかもしれないでしょう。

 だから先手を打ったのに、エミールが邪魔をするから悪いのよ」

「復讐など……私は、少しも……」


 菫色の瞳が驚愕と悲しみの色を宿してこちらを見下ろした。

 その様子からして、本当に復讐など欠片も考えていなかったのだろう。

 もっとも、そんなことは今更どうでもよいのだが。


「お願いします」


 ベロニカを論理的に説得するのは無理だと判断したのだろう。

 長男はその場に膝をついて、深々と頭を下げた。


「家督は譲りますし、私は家を出ます。どうかエミールだけは助けて下さい」


 ヴィルヘルミーナによく似た顔の男がみっともなく取り乱し、自分に頭を下げている。

 それは彼女を憎んでいたベロニカにとっては胸が軽くなる光景だった。


「あら、変なことをするのね。

 頭なんて下げなくとも、一緒に逃げればいいじゃない。

 お得意の魔法を使えば、エミールを救うことは簡単でしょう?」

「それは……」

「ああ、もしかして断られたのかしら?」


 ベロニカの言葉に長男が小さく息を呑んだ。

 家宰が訴えられたと聞いた彼がすぐにその元へ向かったことは知っている。

 きっと、無実の罪で陥れられた親友を牢から連れ出そうとしたのだろう。

 長男の魔法なら、どれだけ堅牢な牢からでも相手を救い出せる。


 けれど、ベロニカは家宰が逃げるとは思っていなかった。

 家宰にはすでに判決が言い渡されている。

 正規の手順を踏まずに囚人を連れ出せば、理由がどうあれ罪に問われることは間違いない。


 その上、家宰が殺したとされているのは先代の当主、つまり長男の父親だ。

 肉親を殺した犯人を牢から連れ出したと知られれば、長男に掛けられた疑いも再燃する。

 下手をすれば、家宰と共謀して父を殺したのだと糾弾されかねない。

 親友の冤罪を晴らすために動いた家宰が、自らの行動でそれを台無しにするとは思えなかった。


「……私を、日陰の身(犯罪者)には出来ないと……」


 ベロニカの予想通り、長男は辛そうに俯いてそう認めた。

 家宰の言葉など聞かず、強引に連れて逃げるという選択肢は取らないらしい。


 いや、正確には取れないのだ。

 彼の自尊心は幼い頃からベロニカや周囲によってすりつぶされている。

 常に自分を守り庇ってきた家宰の強く正しい主張を押しのけるほどの強さを、長男は持っていなかった。


 だからこそ、こうしてベロニカに縋っているのだろう。

 家宰に着せられた濡れ衣を晴らし、合法的に彼を救うために。

 仮にベロニカが訴えを取り下げたとしても、既に下された判決は覆らないというのに。


「そうねえ……」


 満足げに目を細めたベロニカは、まだ手を付けていなかった紅茶に白い粉をさらさらと注いだ。

 ティースプーンでよくかき混ぜて、それを長男の前に差し出す。


「それを全部飲んだら、あの家宰を助けてあげる」


 探知魔法に長けた長男には、ベロニカが混ぜた粉の正体が分かったのだろう。

 微かに見開かれた瞳が動揺に揺れた。


 紅茶に混ぜたのはソムニウムという即効性の催眠薬だ。適量なら不眠症によく効く薬となる。

 ベロニカも、夫を亡くしてからは時折世話になっていた。


 けれど、今混ぜ入れたソムニウムは明らかに適量を超えている。

 飲んでもすぐに死ぬことはないが、数日間の昏睡は免れないだろう。

 後遺症が残る可能性もある。


「分かりました」


 長男が躊躇ったのは一瞬だった。

 ヴィルヘルミーナ同様の優雅な仕草――何をやらせても不出来だった長男だが、不思議と礼儀作法だけは完璧だった――でカップを取り上げ、口に運ぶ。


 中の液体を一気に飲み干した直後、その身体から力が抜けた。

 床に落ちたカップが絨毯の上に転がり、縦にばかり伸びて頼りない身体がぐらりと揺れて倒れ込む。

 苦しげに呼吸を繰り返している長男の顔には安堵の色が広がっていた。

 きっと、これで親友が助かるとでも思っているのだろう。


「あら、本当に飲んだのね」


 夫が似合うと褒めてくれた黄色の薔薇が描かれた扇を優雅に広げて、ベロニカは嘲るように微笑んだ。


「でも、私は全部と言ったのよ?

 少し零れているじゃない。それでは認められないわ」


 ()()()絨毯を示して告げると、長男は今度は躊躇うことなくそこに口を付けた。

 先ほどの優雅さなど欠片もない滑稽な姿に思わず声をあげて笑う。

 自分の子がこれほど無様な姿を晒していると知ったら、誇り高いヴィルヘルミーナはどう思うだろう。

 涼しげな顔で自分を見下ろしてきた女のことを考えただけで愉快だった。


「これ、で……エミールは……」


 ベロニカの笑い声が聞こえたのか、顔を上げた長男は消え入りそうな声でそう絞り出した。

 薬が効いてきたのか、菫色の瞳はすっかり曇っている。

 そろそろ意識が途切れる頃だろうと判断して、口を開いた。


「あなたって、本当に馬鹿ねえ」


 それは紛れもない本心だった。

 本当に家宰を助けたいのなら、たとえ救出を拒まれても強引に連れ出すべきだったのだ。

 嫌われたくないからと別の道を模索するから――手遅れになる。


「嘘に決まってるじゃない」


 こちらを見上げる瞳が絶望に染まった。


「でも、あなたにしては頑張ったわね。特別に、エミールが死ぬ時は一番近くで見せてあげる。

 それまでは部屋で大人しく()()しているといいわ。

 大量の催眠薬を自ら服用するなんて、錯乱以外にあり得ないもの。

 きっと、父親が親友に殺されたと知って精神を病んでしまったのね。可哀そうに。

 精神が落ち着くまで毎日ソムニウムを処方するよう侍医に言ってあげるから、安心して休むといいわ」


 もちろん、これは単なる皮肉だった。

 ソムニウムは大量に服用すると効き目が切れてもしばらく意識が混濁する。

 その状態で魔法を使うことは出来ないし、父の死と親友の裏切りによって精神が錯乱したと公表すれば他の貴族家だって口を出しては来ないだろう。

 伯爵家を簒奪しようとした大罪人、それも平民を救うために他家の事情に口を挟むなど正気の沙汰ではない。


 唯一この状況を変えられるのは長男の祖父――つまりブレンネン公爵家の当主くらいだ。

 だが、彼は娘の命と引き換えに生まれた孫を「娘を奪った人殺し」と疎んでいる。

 ベロニカが長男に罪を着せた時も全く口を出してこなかったほどだ。

 長男の取れる手段は既に潰えていた。


 あとは目の前で家宰が処刑される様を見せつけて、その心を折るだけだ。

 心が折れれば自殺か失踪か、あるいは仕事を放棄して屋敷に引きこもるに違いない。

 そうなれば家督をディートフリートのものに出来る。


 ……本来なら、ベロニカはここで気が付くべきだったのだろう。

 ただ家督をディートフリートに継がせたいだけなら、長男が「家督を譲る」と言った時点で受け入れればよかった。

 それを受け入れず、長男の願いを踏みにじって嘲笑ったのは息子の為ではない。


 彼を苦しめることが、愛する夫を奪って自分を日陰の身(愛人)に追いやったヴィルヘルミーナへの正当な復讐だと彼女が考えていたからだ。

 でも、ベロニカはそれを全く自覚せず、ただ「かわいいディートフリートのため」だと思っていた。


 それから一月後。

 主君殺しのエミール・モルゲンロートは、予定通り処刑された。

 自ら薬を服用した日から薬漬けにされていた長男も、その日ばかりは量を減らされて僅かに明瞭な意識を取り戻していたから、処刑の光景はよく見えたはずだ。

 エミール、エミールと親友だった男の名前を何度も唱えている長男の菫色の瞳に光はない。


 きっと、心が折れたのだろう。

 もともと、少しきつい言葉を投げかければすぐに泣きだすような心の弱い子だ。

 このまま放っておけば、何もせずとも望んだ結果が出るに違いない。


 一時は邪魔が入ったが、結果的には自分の思い通りに事が進んだ。

 やはり、自分は神に愛されているのだ。

 それを実感したベロニカは、神に深く感謝した。

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長男が親友を蘇らせるために頑張る話
悪魔の道具は今日も真摯に絶望させる

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マシュマロ
― 新着の感想 ―
[一言] 〉常に自分を守り庇ってきた家宰の強く正しい主張を押しのけるほどの強さを、長男は持っていなかった。 あー、うん。持ってなかったよね。 だから別の「強さ」を身に着けちゃったんだよなぁ〜(視線は『…
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