3.伯爵夫人は日向を永遠と信じていた
「おめでとうございます。ご懐妊です」
「まあ……!」
伯爵家お抱えの医師が告げた言葉に、ベロニカは頬を紅潮させた。
ヘルフリートと結婚して十年。一向に恵まれなかった子供をようやく授かることが出来たのだ。
優しいヘルフリートは子が出来なくとも「跡継ぎは既にいるから、君が気に病むことではない」と慰めてくれていたが、ベロニカはやはり自分の子供が欲しかった。
これでやっと、あの人と私は完全な夫婦になれた。
やっと――ヴィルヘルミーナを超えられた。
妊娠が分かったベロニカの胸は喜びでいっぱいだった。
自分は神に愛されているのだと信じて、何度も神に感謝したほどだ。
「ああ、ベロニカ。なんてすばらしいんだ」
その日の夜、妻から妊娠を告げられたヘルフリートは普段冷静な彼にしては珍しいほど喜んだ。
何度も妻に口づけては「ありがとう」「きっとかわいい子が生まれる」と繰り返す。
そんな彼にもっと喜んでもらいたくて、ベロニカは言葉を続けた。
「医師の診断によれば、おそらく男の子だと言っていたわ」
普通の医師は子供の形を探知するのでもう少し大きくならないと性別が分からないのだが、伯爵家お抱えの医師は魔力によって男女を判別できたから、今の時期でも判定できたのだ。
魔力の男女差は非常に僅かなので確実とは言えないそうだが、八割は男だろうとのことだった。
「そう、か……」
「あなた?」
けれど、それを耳にした途端ヘルフリートの表情が僅かに曇った。
一般的に、貴族家では二人目までは男児が喜ばれる。
家を残すには跡を継ぐ長男は必須だし、長男に何かあった時に予備の次男がいればなお安泰だからだ。
長男しかいない伯爵家に次男が誕生するという事実はもっと喜ばれると思っていただけに、ヘルフリートの反応は意外だった。
「ああ、いや……子供と聞いて君に似たかわいい娘を想像してしまったから、少し驚いただけだ」
「まあ、気が早いのね」
苦笑いを浮かべて答えたヘルフリートに、ベロニカはつい笑ってしまった。
思えば、父も息子より娘、特に母に似た自分をよくかわいがってくれた。
男というのは皆そういうものなのだろう。
「子供一人しか産まないわけではないもの。そのうち、娘も生まれるわ。
この子は私とあなた、どっちに似ているかしら」
「どちらでもいい。私たちの愛の結晶であることに変わりはないのだから」
「そうね」
優しげに微笑んで妻の肩を抱く夫と、まだ薄い腹を愛おし気に撫でる妻。
そこにあったのは幸福な夫婦の姿だった。
腹の子供は順調に育ち、やがて生まれた。
ヴィルヘルミーナの件があったからか産後の妻をヘルフリートは非常に心配していたが、元来身体の強いベロニカは特に体調を崩すことなく回復した。
子供には「ディートフリート」と名付けた。
ベロニカと同じ亜麻色の髪に、ヘルフリートと同じ金の目を持ったかわいらしい子供だ。
あの女の子供と全く違う愛らしい生き物に、ベロニカはすっかり夢中になった。
その上、ディートフリートは出来もよかった。
勉強も運動も人並み以上にこなす、明るく素直で心優しい子供。
親の贔屓目を抜きにしても、ディートフリートはよく出来た子だった。
一つ欠点があるとすれば、伯爵家の子供にしては魔力の質や量が劣ることだけだ。
……この子の方が、ヴィルヘルミーナの子より伯爵家の当主にふさわしいのではないかしら。
そのほうがきっと、伯爵家も発展するわ。
ベロニカの心にそんな願望が浮かぶようになったのはディートフリートが生まれて三年後だった。
出来が悪い上に暗くて何を考えているかわからない、取り柄と言えば魔法くらいの長男よりも、自分が産んだ次男の方が当主にふさわしい。
彼女は本気でそれが伯爵家の為になると信じていたから、早速ヘルフリートに掛け合った。
「駄目だ。当主は長男とアストルムの法で決まっている」
しかし、ヘルフリートは頑として取り合わなかった。
普段は優しい夫の思いがけない言葉に、ベロニカは思わず息を呑んだ。
「でも……あなたも分かっているでしょう?
ディートフリートには才能があるわ。あの女の子供よりずっと。
あの子は……王宮魔法使いにでもすればいいじゃない。陛下もそれをお望みなのでしょう?」
ディートフリートが生まれて以来、国王から頻繁に「ヴィルヘルミーナの子供を王宮魔法使いとして取り立てたい」という内容の手紙が来ていることは知っていた。
けれど、ヘルフリートは首を横に振った。
「素行に問題のない長男を後継から外すのは法に反する。
アストルムの民として、国家を支える貴族が自ら法を破る姿を民に見せてはいけない」
「そんなこと……」
「それに、この地の領主はあの子の方がいい。
あの子の魔力なら、魔物からこの地を守ることが出来る」
伯爵家が治める地はアストルムで唯一海に面した土地だ。
海を渡って攻めてくるかもしれない他国への脅威はもちろんのこと、海に住まう魔物の被害から民を守るため、毎年莫大な資金を投入していた。
国から支給される防衛費では足りず、得られる収入の大半がそこに回されている。
そのため、伯爵家は収入の割に蓄えが少なかった。
しかし、魔力に長けた長男ならその魔法を駆使して海の魔物を殲滅することも可能だ。
領地の防衛に費やしている金を少しでも削減できれば、領地の整備などに資金を回せる。
ヘルフリートはそう主張して、ヴィルヘルミーナの子供の後継から外すことを拒んだ。
「ディートフリートは賢い。将来は大臣にもなれるだろう。
もちろん私も推薦状を書くし、出来る限り援助はする。
だが、魔力が足りない以上領主には出来ない。分かってくれるね、ベロニカ」
「……ええ」
一度はそう答えたものの、ベロニカの胸は敗北感と屈辱でいっぱいだった。
自分が腹を痛めて産んだディートフリートはあんなに優れているのに、魔力という一点でヴィルヘルミーナの子に負けたのだ。
確かに魔力は貴族を貴族たらしめる重要な要素だ。
魔力を持つのは王侯貴族のみで、平民は魔力を一切持たない。
その為、平民がどれだけ功績を積んでも爵位が与えられることはなかった。
与えられるのは貴族の娘か息子だ。彼らと結婚して子供をもうけ、その子供が魔力を持っていたら初めて功績に見合った爵位が与えられる。
故に、爵位と魔力は比例した。
高貴な血が流れていることを示すには、平民が決して持ちえない魔力の豊富さを誇示するのが最も有用だからだ。
魔力の高い子供を婿や妻、養子として取り入れてきた高位貴族の魔力は必然的に高くなる。
だから、ブレンネン公爵家の娘であるヴィルヘルミーナを母に持つ長男の魔力も高かった。
ではディートフリートの魔力が低いのは?
……子爵家の娘である、自分を母に持つためだ。
ベロニカの頭の中には、すでに「自分はヴィルヘルミーナに負けた」という思いが渦巻いていた。
最初は愛する人を奪われ、ようやく死んだと思ったら今度は自分の子の将来を邪魔された。
湧き上がる怒りと憎しみは、死んだヴィルヘルミーナではなくその忘れ形見に向けられた。
使用人に指示してヴィルヘルミーナの子供の食事にだけ毒を盛り、事故を装って階段から突き落とさせ、真夏に偶然窓のない物置に何日も閉じ込めさせる。
成功すればそれでいいし、失敗しても長男の心が追い詰められれば自死を選ぶかもしれない。
そうすれば、自分とヘルフリートの子供が領主になれる。ヴィルヘルミーナに勝てる。
毎日のように仕掛けられる悪意にヴィルヘルミーナが残した子の表情がどんどん抜け落ちていく様を見るたび、ベロニカの心は慰められた。
「奥様。最近、使用人の質が少々悪いようです。
旦那様や奥さま、ディートフリート様に危害が及んではなりません。
使用人を入れ替えられてはいかがでしょう」
それを邪魔してきたのは、若くして父の跡を継いだ家宰だった。
表面上は愛想よくにこやかに振舞っているが、夜明けの空を思わせる濃い青色の瞳は冷静にこちらを見据えている。
先日成人したばかりとは思えないほど優秀なこの家宰が、ベロニカは大の苦手だった。
「そうね。考えておくわ」
「あまり悠長にされていては危険かと」
「私にもいろいろとすることがあるのよ。忙しいの」
「それは失礼いたしました。
しかし、当主である旦那様やその血を引くディートフリート様の安全を脅かす者を放置しておくわけにはまいりません。
新たな使用人を選定しておくよう、執事に伝えておきます。奥様の手を煩わせてはなりませんから」
「…………そうしてちょうだい」
夫や子供の安全を盾に取られては、使用人の入れ替えを認めるよりほかはない。
内心でぎりぎりと歯噛みしながら、ベロニカはなんとか平静を保って家宰に頷いた。
さいわい、家宰は使用人の選定に直接は関われない。
侍女頭と執事を通じて自分の意のままになる人間を雇用することはまだ可能だったが、不愉快であることに変わりはない。
優秀で忠誠心が高い家宰は、親友として長男を支えている。
味方に引き込もうとして高い給与や地位をちらつかせても一向に動じない家宰に、ベロニカの苛立ちは増していた。
家宰を味方に出来ないのなら、いっそ死んでしまえばいいのに。
そうすれば、家宰に依存しているあの子も自殺するでしょう。
ベロニカはいつしか、神に長男と家宰の死を願うようになっていた。
正確には「願う」とは違うのかもしれない。ベロニカは必ず願いが叶うと信じていたから。
神は二回も――ヴィルヘルミーナの死とディートフリートの誕生――願いを叶えてくれた。
今度もきっと、叶えてくれるはずだ。
転機が訪れたのは、ディートフリートが生まれてから八年後。
ヴィルヘルミーナの子供が十八になったころだった。