1.子爵令嬢は日陰で真実の愛を育む
「きゃっ」
王家主催の舞踏会。テラスへ急いでいたベロニカはドレスの裾を踏んで思わずよろけた。
周囲に誰もいなければただ体勢を崩すだけで済んだのだが、ここは会場でも人の多い場所だ。
近くにいた令嬢と肩がぶつかり、その場に倒れ込む。
「まあ、なんてこと」
「淑女としての立ち振る舞いがなっていないのではないかしら」
「あの方、確か例の……」
目立つ失態に周囲からくすくすと笑う声がして、ベロニカの白い頬は真っ赤になった。
思わず俯くと、今日に合わせて仕立ててもらった淡い黄色のドレスに濃い赤紫色の染みが出来ているのに気が付いて、はっと息を呑む。
これではとても、あの人のところへ行けない。
せっかく、彼好みのとびきりかわいらしいドレスを仕立ててもらったのに。
「あなた、お怪我はない?」
しっとりとして落ち着いた声にはっと顔を上げると、この世界では珍しい黒髪が目に入った。
雪のように白い肌、黒檀のように黒い髪、凛とした強さを秘めた菫の瞳。
まるでおとぎ話から抜け出てきたかのような容貌は見覚えがあった。
「ヴィルヘルミーナ様……」
ヴィルヘルミーナ・マルグレート・フォン・ブレンネン。
アストルム唯一の公爵家であり、初代がイフリートの加護を受けていたことから「精霊公」とも呼ばれているブレンネン公爵家の長女だ。
そして、ベロニカにとっては恋敵でもある。
……もっとも、向こうはそのようなこと欠片も思っていないだろうが。
「あら、そのドレス……わたくしの葡萄酒で汚してしまったのね」
その言葉通り、ヴィルヘルミーナの手には濃い赤紫色の葡萄酒が注がれたグラスが握られていた。
中身は半分以上減っている。その分だけ、ベロニカのドレスに吸い込まれたのだろう。
相手が格下の男爵令嬢であれば文句を言っただろうが、ヴィルヘルミーナは公爵令嬢だ。
子爵令嬢でしかないベロニカには何も言えなかった。
もともと、よろけてぶつかったのはベロニカの方なので悪いのは彼女の方なのだが。
「いえ、お気になさらず。ヴィルヘルミーナ様こそ、お怪我はされておりませんか」
「ええ。わたくしは大丈夫。それよりも、あなたのドレスを心配した方がよいわ。
今、綺麗にして差し上げるわね」
そういってヴィルヘルミーナはベロニカの元に膝をつき、汚れたドレスに手をかざした。
白い光が一瞬辺りを照らし、濃い赤紫色の染みがみるみるうちに消えていく。
もとの淡い黄色に戻っていく布地を見て、ベロニカは思わず感嘆の声を漏らした。
ヴィルヘルミーナが使用しているのは洗浄の魔法だ。
汚れたものを綺麗にするという一見簡単に見える魔法だが、その加減が難しい。
魔力を込めすぎると元の色まで落ちてしまうし、それを恐れて魔力を減らしすぎると効果がない。
それをここまで完璧に制御して、なおかつ涼しい顔で行使できるのはヴィルヘルミーナが魔法の扱いに長けている証拠だった。
「これでいいわ」
「あ、ありがとうございます」
少ししてヴィルヘルミーナが手をどかすと、ドレスはすっかり綺麗になっていた。
思わず礼を言うと、ヴィルヘルミーナは「いいのよ」と微かに笑い、広げた扇子で口元を隠した。
「あのままでは、あなたがこれからお会いする方に申し訳ないもの」
ヴィルヘルミーナの言う「これからお会いする方」が誰を指すのか、すぐにわかった。
分かって当然だ。
「これはただのお節介なのだけど……あなたには、もっとふさわしい方がいると思うの。
日陰の身となるより、どなたかと家庭を持たれた方があなたの父も喜ぶのではないかしら。
あなたは若く、美しいのだから」
「……ご忠告はありがたく受け取ります。けれど、ご心配なく。
私と彼は政略ではなく真実の愛によって結ばれた仲。父もそれを認めてくれておりますの。
何より、私は彼の隣に立つ者として誰よりもふさわしいと自負しておりますので」
ベロニカの固い声に、ヴィルヘルミーナはただ穏やかな笑みを浮かべたまま「そう」とだけ言った。
「では、今の言葉はどうかお気になさらず。
それから、ヘルフリート様に陛下のご挨拶までには戻ってくるよう伝えて頂けるかしら。
陛下にご挨拶をするのに、婚約者が揃っていないのでは無礼ですもの」
それだけ言うと、ヴィルヘルミーナはベロニカの返答を待つことなく友人らしき令嬢がいる輪へ戻っていった。
まるで、ベロニカは必ず自分の意のままに動くだろうと確信しているかのように。
敗北感を感じながらその場を後にしようとするベロニカの耳に、令嬢たちの抑えきれない声が届く。
「よろしいの? あの方を放っておいても」
「ええ、構いません。
あの方のおっしゃる通り、わたくしとヘルフリート様は政略による婚約で結ばれた仲。
他に愛する人を持ちたいのなら、それを認めて差し上げるのも妻の務めですから」
「でも、結婚前に……はしたないわ」
「真実の愛なんてロマンチックな言い方をしているけれど、ただの横恋慕でしょう。
王命による婚約を蔑ろにするなんて、あのお二人に貴族としてのご自覚はあるのかしら」
好奇心交じりの嘲笑と涼やかな声に耐え切れず、ベロニカは咄嗟に駆け出した。
愛しい人が待つテラスへ。
「ベロニカ」
「ああ、ヘルフリート!」
テラスでは、ベロニカの恋人であるヘルフリートがすでに待っていた。
理知的な光を宿した金の目に見つめられて、ベロニカは思わず熱い吐息を漏らす。
先ほどの屈辱はほとんど薄れていた。
「遅れてごめんなさい」
「ああ、構わない。私も今来たところだから。
何かあったのか?」
心配そうに尋ねてくるヘルフリートに、ベロニカは先ほどあったことをすべて話した。
ここへ来る途中、ドレスに葡萄酒が掛かった事、その相手がヴィルヘルミーナだった事、ヘルフリートとの仲をあてこすられ、友人たちに嘲笑された事……。
涙ながらに語られるその仕打ちに、ヘルフリートは形のいい眉をひそめた。
「……ヴィルヘルミーナが、君にそんなことを言うなんて」
「仕方ないわ。私が日陰の身であることは変わらないもの」
「すまない。家の為には、彼女との婚約を破棄することは出来ないんだ。
本当は、君と日の当たるところで堂々と愛し合いたいのだが……」
「いいのよ。たとえ結婚出来なくとも、私とあなたの愛は変わらないもの」
申し訳なさそうに謝るヘルフリートの金の瞳を見つめて、ベロニカは首を横に振った。
裕福な子爵家の三女であるベロニカと、辺境の地を治める伯爵家の跡継ぎであるヘルフリート。
本来なら似合いの夫婦となれたはずの二人が結ばれないことは、出会った時に分かっていた。
三年前に開かれた王家主催の舞踏会で出会ったヘルフリートには、当時からすでに婚約者がいた。
それがヴィルヘルミーナだ。
ヘルフリートが生まれた時から、二人の婚約は王命によって決められていた。
ただでさえ爵位が下の者から婚約破棄を申し出るのは難しいのに、まして王命による婚約を破棄すればどのような咎を受けるか分からない。
ベロニカとて、貴族の娘だ。それが分からないほど愚かな女ではなかった。
愛する人に「すべてを捨てて私と逃げて」と迫るほど薄情でもない。
駆け落ちで幸福になれるのは小説の中だけ。実際には、貴族としての生き方しか知らないベロニカたちが平民として暮らしていくのは難しいと分かっていたから。
だから二人は何度も密会を重ねた。
それしか愛を育む方法はなかったし、この恋を諦めることは出来なかったから。
「もし私とヴィルヘルミーナの婚約が成立していなければ、君を日陰の身になどしなかったのに」
金の目を伏せて、ヘルフリートが辛そうに呟いた。
さらりとした赤褐色の髪を撫でて、ベロニカがそっと囁く。
「あなたは悪くないわ」
悪いのは、あなたを独占しているあの女だもの。
礼儀作法は完璧で、高位貴族らしい豊富な魔力と教養を備えた才色兼備の淑女。社交界の黒薔薇。
全てにおいて非の打ち所がないヴィルヘルミーナが、ヘルフリートの婚約者という地位にいるくせに嬉しそうな素振り一つ見せない彼女が、ベロニカは大嫌いだった。
何もかも持っていてなお、ベロニカの愛する人まで奪おうとするのだから当然だ。
あの女が、不慮の事故か病で死んでしまえばいいのに。
ベロニカはいつしか、毎朝の祈りの最中にそんなことを願うようになっていた。
「愛しているよ、ベロニカ」
「私もよ、ヘルフリート」
時は流れ、ヘルフリートは予定通りヴィルヘルミーナと結婚した。
けれど、ベロニカとの関係は途切れることはなかった。
今年で十七歳になるベロニカに婚約者はいない。
末っ子である彼女に甘い子爵が「ヘルフリート以外の人と結婚したくない」というベロニカの願いを聞き入れたためだ。
――ヘルフリートとの関係が噂になった彼女には碌な貰い手がなかった、というのも娘のわがままを受け入れた理由の一つではあるが。
「……ねえ、ヘルフリート。噂で、ヴィルヘルミーナが妊娠したと聞いたのだけど……」
「ああ、事実だ。医師に調べさせたが、男らしい」
その言葉を聞いて、ベロニカの胸は喜びでいっぱいになった。
魔法を使えば、生まれる前から赤ん坊の性別を診断することが出来る。
直接確認するわけではないので確実ではないけれど、その精度は高かった。
無事に男児が生まれれば――ヘルフリートはもう、自由だ。
貴族の婚姻は家同士の結びつきを強化し、血を残すための政略だ。
結婚して跡継ぎが生まれれば、外で愛人を囲うのは自由だった。
予備として次男を作っておく人が多いけれど、長男さえいれば最低限の義務は果たしたことになる。
つまり、ヘルフリートはもうヴィルヘルミーナと閨をともにせずともよくなるのだ。
自分だけのヘルフリートでいてくれる。
喜びに頬を染めるベロニカだったが、一方で微かなしこりが生まれたことにも気づいていた。
――ヴィルヘルミーナさえいなければ、私が彼の妻になれるのに。
――私が、彼の子供を産めるのに。
初めはほんの小さなものだったしこりは、時が経つにつれて――恋敵の腹の中で愛する人の子供が順調に育っていくにつれて、次第に大きくなっていった。
どうか、彼女が死にますように。
ヴィルヘルミーナが出産間近だと噂で聞くようになってから、ベロニカは毎日のように祈っていた。
出産は命懸けだ。跡継ぎの誕生が掛かっている伯爵家も、娘を愛してやまない公爵家も名の知れた医師を付けるだろうが、それでも命を落とすことはある。
彼女さえ死ねば、ヘルフリートはきっと自分を娶ってくれる。
ベロニカはずっと神に祈り続けた。
「……ヴィルヘルミーナが、死んだ?」
彼女の願いは聞き入れられた。
「産後の肥立ちが悪かったらしい。
医師も手を尽くしたが、息子を生んだ数日後に……」
憔悴した、しかし金色の瞳だけはきらきらと輝いているヘルフリートがそう言って微笑んだ。
誰も悪くない、ただ運命だったとしか言いようのない結末。
自分の前で跪いた愛しい恋人を見つめて、ベロニカの胸が大きく高鳴った。
「では……」
「ああ、ベロニカ。喪が明けたら、どうか結婚してほしい」
「嬉しい……! ありがとう、ヘルフリート。私、幸せよ!」
喪服姿のヘルフリートに抱き着くと、彼は柔らかな微笑みを浮かべてベロニカを抱き返してくれた。
これでようやく結ばれる。人の目を慮ることなく、誰からも祝福されて寄り添うことが出来る。
私はきっと、神に愛されているのだ。
だって、神様は「ヴィルヘルミーナさえいなければ」という私の願いを聞き届けてくれたもの。
そう思い込んだベロニカは、心の中で何度も神に祈りを捧げた。