ドールハウスのお姫様
あれはいつのことだったろうか。
そう、彼女がうちにやってきたときのことだ。
「どうか、これを預かっていただけませんか」
僕と紅子さんの暮らす屋敷にやってきた女性ーー原科アスカさんは、前のめり気味に言った。
アスカさんは、家主に急に呼びつけられた僕に大きな手荷物を押し付け、出された紅茶もろくに飲まずに、そそくさと立ち上がる。そして、このひとことだけを言い残して、逃げるようにして去っていったのである。
「あ、返却は不要ですので! それでは!」
僕と紅子さんは、呆気にとられるしかなかった。
「……紅子さん、何なんですか、あの失礼な人は」
「うーん、悩める子羊?」
残されたお茶を片付けながら、僕は困り顔の紅子さんに尋ねる。紅子さんは間を置かずに明快な返事を返してくれたが、それでも僕は納得がいかない。それは何故か。それは、彼女が僕の自信作を飲んでくれなかったからだ。そんな僕を見て、紅子さんは笑う。
「まあまあ、へそを曲げないで、征宏。彼女だって困っているんだから、ね」
「ですけど……」
「ほらほら、口答えしている暇があったら、その大荷物の中身を確認しなさい」
「はいはい……。解りましたから、紅子さんも少し手伝ってくださいね」
僕は折れ、紅子さんの指示に従って、アスカさんが残した大きな紙袋を開封した。紙袋と言っても、高さにして一メートルはありそうな、巨大なものだが。僕は同居人、あるいは屋敷の女主人である紅子さんの協力も得つつ、なんとかそれの中身をリビングのテーブルの上に引きずり出す。
「これは……」
「まあ! 素敵だわね」
それは、古びているがとてもきらびやかで、そして大きな大きなドールハウスだった。
「で、これの何が問題なんですか? ただのドールハウスじゃないですか」
僕はドールハウスのドアや窓を開閉しながら、紅子さんに問う。すると、彼女は大げさに咳払いをしてみせた。この時点で、この人が何をしようとしているか見えてしまうのが、悲しいところだ。
「……夜な夜な、このドールハウスから物音がするんですぅ! 三日に一回は笑い声もするし、すごくすごくうるさくて、何より怖いんです! あたし、これを持っていたくないので、預かってくださいー!」
なんと紅子さんは、アスカさんのものまねをしながら、彼女の話を再現してくれたのだ! 僕としては、呆れるばかりである。
「……ものまね、上達しましたね。この短時間で、よくもまあ」
「うふふ、ありがとう。私とってもうれしいわ」
皮肉を皮肉と受け取ってくれない女主人は放っておいて、僕は話を進める。手は引き続き、ドールハウスの窓を開ける作業をしたままだ。無論、僕も紅子さんもわざとである。
「アスカさんは、このドールハウスから奇怪な物音がして怖がっていた、と」
「そのとおりよ。まあ、十中八九ーー」
「!?」
僕が開いていない最後の窓に手を掛けた、そのときである。その窓が内側から押し開けられる感覚がし、そしてーー。
「やーっと出られたのだわ!」
「ーー十中八九、音の妖精のしわざだと思われるわね」
中から飛び出してきたのは、背に片翼を生やした小さな女の子だった。彼女は僕をみとめるなり、翼で飛び上がってガラス玉のような澄んだ瞳で僕の顔を覗き込んだ。大きさは、三十センチくらいだろうか。
「あたしはメイメイ、いわゆる妖精なのだわ。あなたは?」
「……征宏」
メイメイと名乗った女の子は、僕の驚きなど意に介さず、からからと笑う。
「マサヒロね! 素敵な名前なのだわ! こっちの女の人は……」
僕はそんなメイメイに、戸惑いつつ答える。
「紅子さん」
メイメイは、僕と紅子さんを交互に見て、やがて納得したかのように微笑んだ。
「紅子かあさまなのだわ! 覚えたのだわ!」
「かあさま?」
「かあさまだからかあさまなのだわ!」
僕は慣れない呼称に戸惑いつつ、紅子さんの周りを飛び回るメイメイを目で追った。
「決めたのだわ! あたしはこれから、マサヒロたちの家でお世話になるのだわ! よろしくなのだわ!」
「あらあら、家族が増えるのね、大歓迎よ」
僕は紅子さんのあっさりすぎる決定に呆れることしかできなかった。
ドールハウスを僕の部屋に移し終えるころには、すっかり夕方になっていた。紅子さんは特製のアイスティーで僕をねぎらいつつ、こう言った。
「征宏、知ってる? 妖精には、真実を見抜く力があるのよ」
彼女の目は、とてもやさしげだった。