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ホテル・ニムロド  作者: 岩橋のり輔
II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)
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Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(7)

まあそりゃそうだわな? まさか、くるりんおヒゲのお友達が、妙な匂いを発散させている食物塗れになって、大の字になって転がっている状態になろうとは、到底予想も付かないものな?

 ふと私は思いついて、思い切って提案した。

「バロウさんバロウさん。アンタ、一体どうやってこの列車から脱出する心算だったんですか? 方法に依っては、わたし達お手伝いすることもやぶさかじゃありませんぜ」

 それを訊いて一番吃驚したのはバロウの筈なのだが、それよりもハヅキが驚愕の余り立ち上がったため、その声は掻き消えとなった。




「一体何の真似よ、江津英吉! 恐怖の余り、頭でもおかしくなった?」


「どこをどうしたらこんな前代未聞の間抜けな窃盗事件で、頭がバカになるほどビビれるって云うんですか。僕はこの上ないぐらい正気ですよ。ちょっと考えれば判ることじゃないですか。この二人は、目当ての品物――そのヘカテーだかムカデだか知らないけれど、古びた骨董的価値もあやふやなただ重たいだけの石の塊さえ頂けて、無事脱走できさえすれば、わたし等に何の危害も与えないって云ってるんですよ。そうしなきゃ、ロンドンのキングスクロスの駅の壁にこの列車は正面衝突で、それを回避するには、運転手さんと――まあ車掌さんはいいや(「そりゃないぜ!」とリッチ車掌が情けない声を上げた)――彼の縛めを解かなきゃいけなくって、それをするにはバロウさんにリスクが大きすぎるんです。となったら、一番安全なのは、わたし等三人を痛い目にあわせて大人しくさせることで、ぼくはこんな訳の分からない石ころの為にそんな不幸な目にあうのは真っ平御免なんですよ。あなた達六人と心中なんてもっと嫌ですしね。どうです、十和子さん一人が納得してさえくれれば、総てが円く収まるんです」


私の話を大人しく聴いていた十和子は、渋々ながらも頷いた。


「まああれ運ばせるのは、チップも嵩みますしねえ――致し方ないか」


私は手を合わせて、勢いよく立ち上がった。


「それじゃあ決まりですね。バロウさんも文句ないでしょ? 文句あるなんて云わせませんよ、あなた達にとってはこの上なく好都合な話なんだから。で、どうやってこの動く箱から脱出する予定だったんです? まさか飛び降りるだなんて云いませんよね?」


興奮の余り若干ハイ気味の私に圧倒されたのか、バロウは戸惑いつつも素直に答えた。


「ああ、異論はない。こっちもパーカーがこの状態じゃ二進も三進も行かんしな。先方に提示された段取りはこうだ――ドンカスター駅に入りそうなタイミングを見計らって、車内を制圧する。この列車は、先頭の三両と残りは行き先が別だから、切り離しを考えて三両目と四両目の間は通り抜けが出来ない。荷物のやたら多い銀髪の女を急襲して、『ヘカテー』を頂く。その際、乗客が三両目に居れば、荷物だけを残して前の方に移動させて、しかし今回のように二両目に居た場合は、目当ての品物を持って我々が三両目に移動する。そしてその後、二両目と三両目の連結部分に先方が予め設置した爆弾を起爆させて、三両目以降を置いてけ堀にさせる。動力を失った客車が停止するのを見計らって、わたし等は車両から飛び降り、そこから先は先方の車が迎えに来ることになっていた」


あまりにも杜撰な犯行とは裏腹に、大胆で用意周到な『先方』の下準備に、私はあんぐりと口を開けざるを得なかった。


ハヅキは呆れ返った表情で、頭をポリポリと掻きながら、


「策を弄して策に溺れるタイプね、あなたの云う先方って人は。これだけ緻密なプランを練っても、実行する手下がこんなか弱い女子二人と、まだ尻の青そうな坊主相手に手こずるヘッポコだったら意味がないってことを、もっと真摯に受け止めるべきじゃないかしら」


誰の尻が青いって?


と云うか、アンタ達どうみてもか弱い女子とは程遠い、世のいかなる男性をも辟易とさせる物凄いアマゾネス達なんだが。


もう一生、女性の影に怯えてしまいそうな様子で小さくなったバロウだったが、ふと思い出したように付け加えた。


「ああ、一つ条件を云い忘れていた。総てを、ネブワース――ウェルウィン=ノース間のトンネルに入る前に終わらせろ、とのことだ」


それを聞いて、十和子はしたり顔で肯いた。


「成程ね、そう云う事か――」


私は、一体なにが成程なのかと尋ねようとしたが、亀甲縛りのままで、どちらかというと危険な性癖を見られたお父さんのようになっているリッチ車掌の大声によって遮られてしまった。


「拙い、時間がないぞ! もうピーターバラをとっくに通過した!」


「仕方ありませんね。ハヅキ、江津さん――二人係りでヘカテーを運んでください。バーロー――じゃなかった、バロウさん、貴方はこのハギスだらけの方を引き摺ってさしあげて。私は、生憎煙管より重い物を一切持てない手なので、悪しからず」


十和子はそう命令するだけ命令して、スリーブの向こうの手をヒラヒラとさせた。


「あの、儂はどうしたら――」


と、まな板の上のコイの様に身悶えしている車掌に対しては、十和子は飛び切りの笑顔で、


「もう暫くその面白い姿を晒していてくださいな」


と、冷たく云い放った。




こうして、瞬時にして現場の指揮権は十和子へと移り、わたし達は呉越同舟の想いで云われた仕事に取り掛かった。


まず、獣臭いままのパーカーを、バロウが顔を顰めながら引き摺って後部車両に。


その後を、私とハヅキが結構な重量級且つ取っ手もなく掴み所のない石像相手に四苦八苦した。


結局、不釣り合いな台座の方を抱えて持つことで話が纏まったのだが、その拍子にハヅキの暖かい手と私の手が触れ合い、何とも云い難い気持ちになった。


いかんいかん。


半分不登校生活で、女性と云えるものは殆ど母親としか接してこなかった自分には、女性と云うものに対する免疫力が著しく低下している。


えんやこらのよっこいせ、と、ハヅキの大変にババ臭い掛け声と共にわたし達は石像を持ち上げたその時、急にハヅキが立ち止ったため、私はつんのめりそうになった。


「急に止まらないでくださいよ、危ないなあ」


「ねえ、アンタ」


と、思案顔のハヅキ。


「これ、あのバカ二人にくれてやるの、惜しくない?」


は?


今更何を云ってるんだこの人。


「惜しいも惜しくないも、これを向こうに引き渡さない限りは、連結部分の切り離しも出来ないし、あの人達を隔離できないんですよ? なんぼ間抜けなお笑い窃盗団と云っても、一応相手は拳銃を持ってるんですからね。そこンとこ、お忘れなく」


「いや、だけどさあ」


と、口籠るハヅキ。


「値打ち物の骨董品を盾にしたら、連中も拳銃ぶっ放したり出来ないと思うのよね」


何をおっしゃってるの? ボク、ワカンナイ。


この段になって、ようやくハヅキ・イェーガーの人となりが判って来た。


この人は、キリスト教が定める七つの大罪で云えばマモンの眷属、マモンも真っ青丸儲けな強欲魔人に違いない!


戦慄する私のことなどまるで眼中にないように、ハヅキは喋り続ける。


「十和さんはね、あなたも大体察しが付いている通り、無神経に骨董品を買い集める蒐集癖があるのよ。で、如何に〈葡萄燈〉の地所が七階建ての細長い集合住宅丸々一棟と云えど、その収容場所には限度ってものがあって、時々嵩張る調度品を安く――時にはタダで、うちのホテルに譲ってくれるのよ。判る? つまり、十和さんの所有物だったらなんであれ、近い将来わたしの物になる可能性があるってこと――」


「判りませんよ! アンタ、そんなふざけた理由で、わたしがやっとこさ拵えた好機を棒に振るって云うんですか? ちょっとは真面目にやってくださいよ!」


「私はいつだって大真面目よ? と云う訳で――」


そう云って、いきなりハヅキは石像から手を放し、その全重量が私の掌に掛かって、危うくぎっくり腰になるところだった。


私がどやしつけてやろうと思って振り返ってみたら、ハヅキは神業的な敏捷さを発揮して、あろうことか私のフェルメール――じゃなかった、メーヘレンを意気揚々と抱えて、後部車両に突進していくではないか!


「もっといい絵は、要らんかねぇっ!」


アンタはナマハゲか。


バロウも、今度は何事かと云った様子であたふたしている。


私は、藁にも縋る気持ちで泣き付いた。


「十和子さん、今の聞いていたでしょ。何とかしてくださいよ、あの人の暴走止めるのは、僕には無理なんですって」


ところが、頼みの綱の十和子は、どこから引っ張り出してきたのか、旅行用ティーセット一式を組み立てて、優雅なアフタヌーン・ティーを楽しみ始める瞬間だった。あの大荷物の中には、ミニテーブルから魔法瓶からポットからソーサーまで、ありとあらゆるものが含まれていたのだ!

 十和子はポットから自分のカップに紅茶を注ぎ、角砂糖を数えて入れながら、目の前の殺虫剤を掛けられた芋虫のような醜態を晒している車掌に問うた。


「ミルクはお入れになる?」


「じゃあたっぷり――と云うか、十和さん、解いてくれないの?」


「フフフ、だーめ。ストローも用意してあるから、それで召し上がれ」


熱々の紅茶にストローって。拷問の新機軸!




――って、そうじゃない!



「十和子さん!」


私の必死の呼び掛けに対して、十和子は飛び切り冷徹な、すンばらしい笑みを浮かべて云った。


「聞こえてますよ、江津さん。それが可能でしたら、私は大昔にそれを遂行していましたよ。あの子に無茶苦茶な大騒ぎを演じさせないためには、喉元にピストルでも突き付けて脅し付ける他にないと思っていましたが、私も衰えましたね、読みが外れてしまいました」


聞こえてるーっ!


もっと前の、聞き逃してほしい陰口まで、しっかりと聞こえちゃってるーっ!


仕方ない。


十和子も当てにならない以上、この場で頼れるのは己自身のみ、頑張れ江津英吉、負けるな江津英吉と自分に云い聞かせて、私は力の限り重たい石像を持って、後部車両に突撃した。


「バロウさん、アンタも男でしょ。さっさと当初の目的をちゃちゃっとはたしちゃって、華麗に退場なさいよ。そんな絵よりも、先方の依頼をきちんと達成するのが職務でしょ!」


ハヅキも負けじと、額を高々と持ち上げて、


「あなた、この絵がどんな貴重な物かご存じないでしょ。フェルメールのようだけれど、フェルメールではない、偽物って云えば偽物だけど、偽物の中の本物、絵画コレクター垂涎の的、メルヘン――いや、メーヘレンの未発見の新作よ? いま貰っておかないと、後々後悔するわよ」

「ですから、先方は端からそんなものご所望じゃないんですって、アンタも判らん人だね。スープの付け合わせ用の黒パンが欲しいって云ってるのに、こっちのほうが甘くてお得だからって菓子パンを売り付けるようなものでしょ、それは。本末転倒なんですよ」


「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない!」


「マリー・アントワネットですか! ギロチンにでも処される他に無いようですね! そもそもここには菓子じゃなくって、パンがちゃんとあるんですよ。ほら、この石像を持ってお行き!」


それぞれ持っている品物を押し出しながら、喧々囂々の言い争いをしている私達に恐怖心を抱いたバロウは、よりにもよって再度拳銃を取り出した。


「貴様ら、いい加減にしろ! これ以上騒ぐと、風穴開けるぞ! 判ったら大人しく――」


「撃てるものなら撃ってみなさいよ。わたしは問答無用でこの分からず屋を盾にするわよ。そうしたら、あなたの雇い主ご所望の品がまず最初にぶち壊されることでしょうけどね!」


そう啖呵を切るハヅキに、私はいよいよ打つ手もなく、ただただ銃弾に打ち抜かれるのはいやだ、かといってハヅキの思う壺になって絵画を手放すのはもっといやだ、と考えあぐねていると――




背後から、落ち着いた声が掛けられた。


「ハヅキ、下がりなさい。時間ですよ」


岡内十和子だった。





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