表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホテル・ニムロド  作者: 岩橋のり輔
II. Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)
PR
13/21

Menuet de la Triade d’Hécate ――『三面のヘカテー』のメヌエット(メヌエット・ド・ラ・トリアード・デカット)(4)




「一六四八年、ネーデルランド諸州は八十年間の長い歳月を経て、ようやく宗主国スペインとの長い戦いに終止符を打ちました。俗に云う『八十年戦争』です。それにより、ネーデルラント連邦国は独立を承認され、現在で云うオランダの礎を築く運びとなりました」


ハヅキが、哀れっぽい悲鳴を上げて遮った。


「それ、判るわ。一晩中掛かるパターンよ」


しかし、当の衒学的な美術商は、まるで慣れっこと云う風に意に介さず続けた。


「――そもそも、オランダと云う土地はライン河下流の低湿地帯にあり、『低地地方』をその名に冠する国です。それはつまり、泥炭等の安価なエネルギー源の豊富な産地であり、運河での物資輸送に長けていることを意味し、工業の発展及び都市化に多大な影響を与えました。製材所の発明は大規模な造船産業を可能にし、有能な船員や優れた地図職人等を産み出すに至ります。それこそが極東貿易の始まり、世界初の近代証券取引場設立への布石、そしてオランダ黄金時代の幕開けでした」


眼を白黒させながら、わざとらしく欠伸をしてみせるハヅキを尻目に、滔々と西洋史の講義は続く。


「経済の豊かさは文化の発展をも促し、芸術分野もその例外ではありません。オランダに於いて教会のパトロネージュの影響力は低く、市場は次第に一般市民へと動き、風俗画や集団肖像画、象徴的な静物画が多く描かれるようになりました。その代表格がレンブラントとフェルメールで、この二人の偉業は、オールド・マスターの遺産として後の西洋画壇に刻々と語り継がれ、莫大な美術的価値を産むに至ったのです。しかしそれは、贋作の制作が実に魅力のある稼業であることを意味し、そして我々美術商の鑑定眼とのいたちごっこの始まりでもありました。ただ、贋作の定義をややこしく曖昧にしているのが例えばレンブラントで、彼は多くの弟子を抱え、レンブラント風の作品を量産させる工房システムを徹底させたことで、ドロステ、マース、ヘルデル等卓越した技量を持つ愛弟子たちの模写が、レンブラントの真作として市場や美術館に出回ってしまうことも多々あって。パネルの年輪年代学や、他の二十世紀前半の科学的アプローチでは、どれがレンブラント本人のものか、それとも弟子のものか、知れたものではなかったのですね。他にも、真作エッチング二つを合成して一枚の贋作をでっち上げるだなんて、巧妙な手段があったりして、とても一筋縄では行かないもので――大丈夫? まだ頭は痛くなって来ませんかね」


「まあ、辛うじて」


あまりにも饒舌な美術商に、驚きと畏怖の念を禁じ得ない私だったが、ちらりと横を見ると無粋な宿屋の女主人は、ご丁寧にアイマスクまでして、長口上にボイコットの意を示している。その姿が少し滑稽で、私はもう少しばかり美術史の教示をありがたく拝聴しようという心持ちになった。


「で、もう一人の巨匠フェルメールの方ですが――こちらはレンブラント以上に研究が進んでおらず、二十世紀も半ばに画壇を揺るがす大事件が勃発しました。切っ掛けは、一九四五年五月、第二次世界大戦終結も間もない頃、オランダ当局はある男を逮捕したことでした。その名はハン・ファン・メーヘレン。罪状は、悪名高きドイツ第三帝國の高官たちに、国の至宝フェルメールの絵画数点を売却したというものでした。特にその中でも『キリストと悔恨の女』は、中期の傑作とされており、それがかのヘルマン・ゲーリング元帥の城から発見されたから大騒ぎです。しかし、取調に対し、メーヘレンはこう答えました。『あの作品は、私が描いたものだ』と」


更に、彼はロッテルダムのボイマンス美術館所蔵の『エマオの食事』をも、自分の作だと云い始めた。当初は、臆病な罪人の時間稼ぎのはったりだと思われていたものの、法廷で彼がフェルメール風の絵を描く実演をしてみせ、更に最新のX線解析が当該作品を贋作と結論付けると、メーヘレンは売国奴から一転、にっくきナチスドイツを欺いた英雄としての論調が強まった。


メーヘレンの精巧な贋作は、入念な研究と周到な用意に基づいたものだった。当時、フェルメールの研究者は少なく、ごく一部のエキスパートの眼さえ欺けば、容易に真作の鑑定書が出され、特に未開発の分野だった宗教画はその傾向が顕著だった。


当時の真贋判定方法は、主にアルコールを浸した綿で絵画の表面を拭くというもので、彼はそれを回避する為に、絵の表面にフェノール樹脂を塗り、炉で一定時間加熱した。また年代測定も、キャンバス及び額縁にフェルメールらと同じ十七世紀の無名画家の作品から絵具を削ぎ落としたものを使用し、絵具、絵筆から溶剤に至るまで再現することでクリアした。仕上げに、絵の完成後にキャンバスを丸めて作ったクラクリュールで墨を塗るなどして綻びを出せば、もう誰も贋作として疑うことはなかった。


「メーヘレンに関しては、こんな逸話が残っています。彼は現代芸術を軽蔑しており、古典派の具象画こそ真の芸術であるとの持論を持っていた。ある時、ピカソを絶賛する人物の前で、即興でピカソ風の絵を描いたところ、相手にその絵を売って欲しいと頼まれた。ところが、彼は絵を破り捨てて、こう云い放ったのです――『たとえ贋作を描くとしても劣った奴の贋作は描かない』」


つまり、メーヘレンは美を堕落させる者として贋作稼業に勤しんだのではなく、むしろ古典美術を敬愛するが故に、その技法を研究し尽くし、現代にフェルメールを再誕させたのである――と、画商は語った。


「メーヘレンの贋作の特徴は、時にオリジナルとは異なる要素、構図を絵画に盛り込むことです。例えば、『楽譜を読む女』は『手紙を読む少女』の贋作とされています。現にそこには、少女の髪や耳飾りが窓からの光を受けて輝く様を、白い絵具の点で表したポワンティエが見られ、その鮮やかなウルトラマリンは正真正銘のフェルメール・ブルー。しかし贋作の少女の首には、純然と白い大粒のパールの首飾りが輝いており、これはフェルメールが好んで用いたテーマであるにも拘らず、完全なメーヘレンの独創なのです――そうこの絵のように」


そう云って指差す十和子に、私は驚いてその先を見た。


そこには、私のスコットランド土産――白い布を被り、リュートを手にした青いドレスの女性が、市松模様の大理石の床の部屋で、紅いクロスの掛かった机の横で練習している姿が描かれていた。左からの陽光が射し、いかにもフェルメールらしい光と陰影を意識した作品である。


「これには――この絵には、本来ある筈でない物が描かれている、と?」


「いや――というか、人物はメトロポリタン美術館の『リュートを弾く女』なんですが、背景が同時期の『音楽の稽古』で、こちらはバッキンガム宮殿にあるものなんですよ。同系統のメーヘレンの手に依るものに、『音楽を演奏する女』と云うのがあるんですが――たしか、そっちはもうちょっと人物がクロースアップされていて、大理石の床までは映ってないんですよ。はっきりとしたことは云えませんが、もしかしたらこれは、未発見の第二の『音楽を演奏する女』なのかもしれません」


私はあからさまに落胆して云った。


「じゃあ、不幸にも、今回に関しては、親父の審美眼は明らかに間違っていて、私の直感の勝利ということですね。絶対に超値打ち物の品だから、何が何でも手に入れて来いという、親父の最後にして最大の買い付けだったのに。勝負に勝って戦争に負けた気分だ」


見るからに萎れて項垂れている私に対し、生き字引のような画商は柔らかな笑みを浮かべて、優しく語りかけた。


「その意味では、お父様も貴方も、両方勝って両方負けた――つまり引き分けとも云えますよ。もし仮にこれがメーヘレンの新発見の品だとしたら――いや、こんな手の込んだ、ただのレプリカではないキメラみたいな七面倒臭い真似をするのは、古今東西、鐘と太鼓で探しても彼ぐらいのものと私は確信していますが――意外と価値はあるんですよ。メーヘレンが法廷で実演した作品も、二十万ぐらいの値段で取引されましたしね。画壇の面白いところは、時代によって作品の価値が大きく上がったり下がったりすることなんです。特に、ポップアートの流行以降、模写や大量生産による美術品にも価値が産まれましたし、エルミア・デ・ホーリーと云う贋作画家の作品も今ではどうして中々の高値でしてね。それが、贋作の草分け的存在メーヘレンの、それも未発見の新作だとしたら、相当にいい値段になりますよ」


「本当ですか?」


私は眼を丸くした。美術商たちの会話でのいい値段と云うのは、大抵に於いて百万以上のものだから、十和子の言葉を信用するとすれば、それは最低でも私が持ち込んだ買い取り費用を上回っており、利益は充分に見込めた。


「本当ですとも」


十和子はにやりと笑って、懐から一枚の名刺を取り出した。


「まあこの列車の中では太鼓判を押す、と云う訳にも行きませんけれどね。お望みとあらば、後日、鑑定書をお作り致しますよ。その際は、どうぞこちらにご連絡を」


そう云って差し出されたのは、蔦の葉と葡萄をあしらった小洒落た名刺で、そこには


「美術商・岡内十和子――ベイベル第七区〈葡萄燈〉」


とあった。



はて、ベイベル?



聴き慣れぬ地名に、私が疑問に思い口にすると、当の画商は意味深な含み笑いをした。


「そう、ベイベル。縁のある人間にはどこよりも近く、縁の無い人間にはどこよりも遠い――そんな街がこの世にはあるのですよ。私たちは、そこから遥々やってきました。まあご安心を。電話はそこに書いてあるので通じますから」


きょとんと狐に抓まれた気分でいると、だらしなく椅子に沈み込んでいたハヅキが、アイマスクを持ち上げて、灰色の瞳を覗かせながら不機嫌そうに見つめているのに気が付いた。


「終わった?」


「ええ、お陰さまで」


それを聞くと、ハヅキはべちんとアイマスクを外し、私は手早く絵画を再び油紙に包み、十和子に促されるようにして、席に着いた。


「ところで、十和子さんも――ハヅキさんは断じてそうでないってのは、確信を以って云えますがね――美術品の買い付けですか? そこの包み――彫刻か何かですか?」


「ええ。それはですね――」


よくぞ訊いてくれましたと云わんばかりに、顔が明るくなる十和子。


しまった、これはまた彼女の好奇心に火を点けてしまったな、と軽く後悔していると、ハヅキが血相を変えて、悲愴な声音で叫んだ。


「いい加減にしろ!」


その瞬間、車内アナウンスが間もなくドンカスター駅に停車することを告げ、その場は何とか、十和子の美術史講義が始まる事も、ハヅキにめった刺しにされることも免れた。


胸をほっと撫で下ろしていると、背後の扉がガラガラと開き、老年の車掌の声が近付いてきた。


「間もなくドンカスター、ドンカスター――お降りの方は、ってあれ、十和さんハヅキちゃん。お連れの方が増えますな? 行先は一緒ですかい?」


どうやら二人と顔馴染みらしいこの車掌、片目が明らかに紛い物と判る義眼で、ギロリと見開かれた黄金色のそれはヘビのそれを思い出させる。赤銅色に日焼けした顔といい、滑稽なまでに古風に撫で付けられた髪といい、一般的な車掌の固定概念を覆す異相だった。


「いいえ、彼はロンドンよ。どこからともなくやってきて、急に十和子と美術品談義を始める、わたしにとっては傍迷惑な、通り雨とか通り魔とかそれに近しい何かよ」


ははは、これは手厳しい。


相変わらずですなあ、お二人とも――と車掌は苦笑いし、私の顔を覗き込むようにずいと顔面を迫らせた。


近い近い。


「少年、ロンドン行は後ろの方の車両ですぞ。ドンカスターでこの列車は車両切り離しを行って、前の三両以外は後続の列車と連結するんだ。ここにいたら、ロンドンには辿りつけんぞ」


それは知らなかった、と急いで荷物を纏めようとする私に、車掌は手で制して、


「いや、ドンカスターで暫く停車するから、その時で構わんよ。それに、まだ到着まで五分近くあるしな。アナウンスだけはいつも早いんだ――さあて、儂は運転席のパウエルでも冷かしに行くかな。ああ、十和さん、今夜もお店の方にお邪魔させてもらうから、宜しく」


そう云って、怖ろしげなのかコミカルなのか良く判らない車掌は、アシナガグモのような脚を軽妙に動かし、前方へと去って行った。


それを見届けると、これまた親切なのか不親切なのか判らないハヅキが、無表情で耳打ちした。


「リッチ――リチャード・タウンゼンド。十和子は、美術品倉庫に埋もれた一階部分で喫茶店も営んでいてね、リッチと運転手のステュアート・パウエルはグルで、しょっちゅう〈葡萄燈〉にやってきては、寂しい独身男らしく、朝まで酒を呑んだりポーカーや麻雀をしたりしているの。そして、あそこの常連客の例に違わず、飲み食いの代金はツケにして踏み倒しているのよ」


「それに関しては何も云えませんね。うちの区は、提督様までもが財布を忘れただの、小銭が無いだの理由を付けて、トンズラこくようなところだから――まあ、利子を付けてたっぷり返してもらいますよ」


「死んでからね。勿論、あなたの方が、よ」




区、提督等、耳慣れぬ単語が飛び交い、私は戸惑いを隠せないながらも、二人の軽妙な語り口に乗せられ、それから暫くは束の間の雑談を楽しんだ。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ