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黄昏を恋う (短編集)  作者: 新熾イブ
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306号室




 雨は嫌いだ。


 雨のにおいは世界を包んで、部屋さえも湿り気で満たしてしまう。あの人が吸っていた紫煙の匂いも、あの人と共有したベッドの熱も、雨に吸い込まれて消えていく。


 冷ややかな空気が肌に沁みて、無性に泣きたくなった。


 奪わないで。わたしとあの人が共有した熱を。奪わないで。わたしからあの人の残り香を。


 あの人がいない空間では、ささやかな祈りさえも空虚に溶ける。空の涙が、静かに私を嘲笑う。


 雨の湿った音が鬱陶しい。雨粒で風景の輪郭がぼやけて、ふっとあの人の顔が浮かんだ。



 あの人はきっと笑っている。


 私の知らない女と、私の知らない表情で。


 私がここで死にそうになっていることなど思いもしないで、きっとまた煙草を吸っている。



 ああ、もう一度シーツの上で、同じ朝を迎えたかった。



 あの日あなたは言ったわね。


「お前、俺がいないと死ぬんじゃねェの」って。


 その通りだわ。



 ――手首から流れ出るアカが、私の命を蝕んでゆく。



 だって、そうなるよう仕向けたのはあなたでしょう?



 ――あの人の熱が溶けたベッドに、私のアカが満ちる。



 わたしの柔い部分を侵すだけ侵して、

 わたしの心をその色に染めておいて、



 ――『もう306号室には来ないから』



 あの人はわたしを置き去りにした。


 わたしに残されたのはあの人の吸った紫煙のにおいと、よれたシーツの皺だけ。そんなもので、一体どう生きていけと言うのよ。



 ――アイシテル、



 たった五文字の愛の言葉にほだされて、重力で沈む身体はそのまま堕ちた。


 あなたの残り香に縋ってシーツを抱き締めて眠って、そんな毎日にはもう疲れてしまったわ。


 今のわたしを見たら、あの人は何て言うかしら。きっとまた、「馬鹿じゃねェの」って嗤うわね。


 あの人はイイ人なんかじゃないから、死にそうな女を見たって手を伸ばしてはくれない。あの人が優しいのは、熱を共有する一瞬だけ。


 だから分かっていた。あの人が私を本気で好きになってくれる筈がないって。


 でも、わたしには。


 あなたを想って、あなたのために朽ち果てる。


 それくらいの覚悟は、あったのよ。



 だってわたし一途だもの。



 この306号室は、わたしのすべてだったわ。


 あの人が来てくれるなら、他には何も要らなかった。はじめて抱かれたあの日から、わたしには"あなた"だった。


 ひとりで静かに死ぬくらいなら、いっそあなたに殺してほしかったけど。


 最期に瞼の裏に浮かぶのが、あなたの顔ならそれもまた一興ね。



 ――掠れる視界で薄らと微笑って、アカが滲む手首に口づけた。



「……あいしているわ、」



 哀れな女の愛の言葉は、雨音に溶けて空へ昇る――




  【Fin】 




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