足掻き
世界の終わりとは、一体どんなものだろう。
今私を照らしている、真っ赤な夕陽が世界を緋色に染めるように、炎が全てを緋色に焼き尽くすのだろうか。
それとも、眩しすぎるくらいの閃光に包まれ、静かに消えてゆくのだろうか。
世界の迎える終焉が、どんなものであっても構わない。
だからどうか、早く。くだらない秩序で埋め尽くされているこの世界を終わらせて。
足掻き続けることに疲れて、狂気に目覚めるその日まで。
私はただ、破滅を願う。
――――――
「文月。ここに居たんだ」
突然ふってきた、聞き慣れた声。その心地好く響くバリトンに振り向けば、幻想的な夕日色が彼を染めていた。
「原稿放り出してホテルから逃げ出したんだって? 文月の行きそうな所に心当たりはないかって、俺の家にまで連絡があったよ」
「……なんて答えたの?」
「ちゃんと、分かりませんって言っておいたよ」
今頃焦ってるだろうねと、彼は悪戯が成功して喜ぶ子どものような顔で笑った。もう今年で26歳になるというのに、変なところで子供っぽい男だ。
……原稿放り出してきた私が言えたことではないけれど。
「よく分かったね。私がここにいること」
「文月のお気に入りの場所だからね、この丘。見に来てみたら予想的中。俺すごい」
ブラウンの髪を揺らし勝手に自画自賛している彼を横目に、夏らしく蒸した空気を肌で感じる。冷房の効いた肌寒い空気より、こっちの方が私は好きだ。暑いけど。
「で、文月は何してたの?」
「原稿に行き詰まったから、ちょっと考え事を色々と」
「へえ、人気作家の考え事か。気になるな」
冗談めかして柔らかく口角をあげた彼に、少しだけ苦笑する。二人の間を、さあっと吹いた夏の匂いのする風が横切った。
「そんな大したことは考えてないよ」
本当に、大したことじゃない。私がいつも抱いている、子供の戯れ言のような小さな願望。
「このまま、この夕陽の赤が、世界を呑み込んでくれたら良いのにって、思ってた」
何も考えず、何も感じず、ただ溶けるように。この目も眩むような赤に溺れて、消えていけたら。
私はどれだけ幸せだろう。どれだけ救われるだろう。
そんなこと出来もしないと知っている。だから焦がれた。音もなく静かに、消えてゆける終焉の日に。
「っ、文月は……」
発せられた彼の哀しそうな声に、少しだけ胸が痛くなる。僅かに伏せられた睫毛が、彼の瞳に憂いの色を落としていた。
「いつも、そうだね。文月の綴る世界はいつだって美しいけれど、その分儚くて脆い」
世界から音が消える。彼の澄んだ声しか、耳に入ってこない。彼が何を言おうとしているのか、なんとなく分かる。
言わないで。それ以上は、言わないで。
崩れてしまう。貴方に聞かれたら、全てを壊して、泣き叫びたくなってしまうから。
お願い、その言葉は、胸の中に留めておいて。
――そんな私の願いとは裏腹に、彼は凛とした声で紡いだ。
「何がそんなに、文月を絶望させてるの?」
彼の、いつになく真摯な眼差しが私を射抜く。
その瞳はいつも優しくて、透明で、切なげで。いつだって私を、大切そうに見てくれる。
でも、でもね。
―――貴方には一生、分からないよ。
素敵な婚約者が居て、もうすぐ結婚する、幸せいっぱいの貴方には。
私の気持ちなんて、きっとずっと分からないよ。
泣き叫びたいのを我慢して、彼に縋りつきたくなる衝動を手のひらに爪を食い込ませることで耐えて。私は今日も仮面を被る。
「絶望なんかしてないよ。ただ、儚い世界観が好きなだけ」
そんな詭弁に彼が騙されることなどないと分かっていながらも、そう言うことでしか取り繕う方法なんて知らなくて。
もっともらしさで固めた言葉を音にして響かせると、酷く柔らかく笑ってみせた。
「……そっか」
彼は私にこれ以上の深入りはしない。私が張った境界線を、ずかずかと踏み越えるようなことはしない。
だから楽だ。
いつも、騙された振りをして笑ってくれる。その残酷な優しさが好きだよ。
「ところで、結婚式っていつだっけ?」
これ以上彼を困らせたくなくて、わざとらしく話題を変えた。彼に視線を合わせて、小さく口許に笑みを浮かべて。くたり、首を傾げてみせる。
「一週間後だよ。式、来れそう?」
「……ごめん、厳しいかも。ちょっと原稿たまってるんだよね。今日も逃げ出して来ちゃったし、締め切りは待ってくれないしなあ」
唇から零れ出たのは、ただの言い訳。自分を守るための、都合の良い言い訳だった。
ごめんね。もし仕事が忙しくなくても、私は式には行かないよ。
貴方が私以外の女と幸せそうに歩く姿なんて、私にはきっと耐えられないから。
「ごめんね、」
「いや、気にしないで。残念だけど、仕事なら仕方ない。また写真送るよ」
私に罪悪感を感じさせないよう気遣ってくれる彼にもう一度謝罪の言葉を口にして、口先だけで彼の幸せを願う。
幸せになってね、なんて詭弁に、貴方は酷く綺麗に笑った。何も知らず、ただ幸せそうに、ありがとうと呟いた。
それで良い。それ以上は望まない。
貴方は幸せになって良い。報われないのは私だけで良い。
貴方は私に優しいけれど、貴方は私を〝好き〟にはならない。
私が貴方の子を孕むことは絶対にない。
分かってるから大丈夫だよ。
まだ、私は私で居られる。貴方の前では、ちゃんと笑っていられるよ。
いつか私が足掻くことに耐えられなくなったその時は、私は貴方を傷付けてしまうかもしれないけれど。
それまでは、ちゃんと仮面を被ってこの気持ちは上手に隠すから。
だからまだ、笑っていて。
私のために、笑っていて。
「じゃあ、俺そろそろ行くわ」
「うん。結婚式の写真、楽しみにしてる」
ちらりと腕時計に目をやった彼は、言葉を紡ぐと同時に町の方へと歩き出す。そんな彼に答えるように、ばいばい、と小さく手を振って、彼の背中が見えなくなるまでその姿を見送った。
サイレントマナーに設定していた携帯を開けば、そこには担当さんからの大量の着信履歴。相当怒ってるだろうなあ。
でも、今は原稿なんてやれる気分じゃない。担当さんには悪いけれど、もう少しだけ、ここにいよう。ここで夕陽が帰ってゆくのを眺めていよう。
彼が居なくなったこの丘で、溜め息に自嘲を乗せて吐き出した。無意識に、諦めに似た笑みが零れる。
――――『何がそんなに、文月を絶望させてるの?』
「――この世界の、全てよ」
貴方に堂々と好きだと言えないこんな世界なんて、さっさと滅んでしまえば良いのに。
(ねえ、兄さん。)
(もし今日で世界が終わるのならば、)
(貴方とのキスも許されたのかしらね。)
【Fin】