ぶれた愛情論者
僕が彼女と一緒に暮らし始めたのは、僕が10歳の秋だった。
唯一の肉親だった母親が飲酒運転で人を撥ねて逮捕され、世話をしてくれる人が居なくなった僕は、母親の知人の紹介で養子として彼女の家にやってきた。
彼女は僕より10歳ほど年上で、小さな会社を経営しているらしい。戸籍上は彼女の息子だったけれど、どちらかと言えば年の離れた姉弟といった感じで彼女は僕に接してくれた。
同級生たちに、犯罪者の息子だ何だと騒がれた時もあった。けれど、自分の境遇を恨んだりはしなかった。彼女との生活は別に嫌ではなかったし、彼女はとても優しかったから。
そして5年間、僕は彼女の下で不自由なく育ち、一昨日無事に中学校を卒業した。
高校は好きなところに通えば良いと彼女は言ってくれたけれど、それでも彼女の負担になってしまうのは嫌だったから、公立で寮のある高校を選んだ。といっても全生徒が寮生というわけではなく、寮生と自宅生が半々くらいの学校。
さっきちょうどその高校の合格発表を見に行ってきたところだ。合格者名簿に自分の番号があったことに安堵しつつ、自室でのんびりと休日を楽しんでいた彼女に声をかける。
「高校、合格してたよ」
「おめでとう。貴方なら大丈夫だと思っていたけど、よかったわね。今日はお祝いしなくちゃ」
「はは、ありがと。それで、ひとつ相談があるんだけど」
「なぁに?」
読んでいた新聞から顔を上げてにこにこしている彼女。寂しい思いをさせてしまうかもしれないけれど、彼女ならきっと応援してくれると信じて。少しばかり緊張しながら、口を開いた。
「僕、寮に入りたいんだ」
「……え?」
僕の言葉に、彼女は笑顔のままで固まった。
「でも、桜庭高校ならここからでも通えるでしょう?」
彼女は戸惑いの笑みを浮かべて、ゆったりと首を傾ける。彼女の長い髪が頬にかかって、憂いの影を落としていた。
「うん。だけど僕、自立したいんだ」
感謝はしている。それはもう、どれだけありがとうと言っても足りないくらいに。
彼女のおかげで僕は不自由なく今日まで生きてこられたし、授業参観だとか運動会だとかにも彼女は必ず来てくれていたから、寂しい思いなんてしなかった。
母親の事で陰口を叩かれても、彼女がいたから前だけを見据えて生きることが出来た。
でも、だからこそ自立したい。犯罪者の息子だという穿った目で見てくる大人たちに、たとえ母親が犯罪者だろうと僕は自分の足で歩いて行けることを、僕の態度で示したかった。
アルバイトOKな高校だし、成績優秀者には寮費の減額措置もある。不安はあるけど、きっと何とかやっていける。彼女と離れてしまうのはもちろん僕だって寂しいけど、いつか立派な大人になって彼女に恩返しをしたいから。まずはこれがその第一歩だ。
だから、分かってほしい。そう願って彼女をまっすぐに見つめると、いつのまにか彼女の瞳から笑みが消えていた。
「そう……貴方も、私から離れて行っちゃうの……」
そう呟いた彼女の瞳は虚ろに揺れ、そして妖しい光を灯した。
僕がその異変に気付いた時にはすでに、彼女はおもむろに立ち上がり押入れへと向かっていた。流れた沈黙に、ごそごそと押入れの中を漁る音だけが響く。
「っ、」
やがて戻ってきた彼女の右手に握られているモノを見て、僕は小さく息を呑んだ。彼女の口許が、歪な笑みの形を作る。
じゃらりと耳障りな音を立てる鎖の先にあるのは――首輪。
「大丈夫。貴方は何も怖がらなくて良いのよ」
彼女の笑みが、僕の全身をゆっくりと撫ぜる。その紅い指先は僕の頬をなぞるように甘く引っ掻き、肌がぞわりと粟立った。
――このヒトは、アブナイ。
そう、本能が僕に訴える。
きっとこのヒトは、愛でながら育ててきた花を、一番美しく咲いた時にぐしゃりと潰して微笑むヒトだ。
どうして、気が付かなかったんだろう。5年も一緒に居たのに、どうして。
彼女は演じていたのだ。5年間ずっと、イイヒトを。 歪んだ本性を隠して、僕に笑いかけて、ずっと機会を待っていたのだ。
「ふふ、私ね、ずっとこうして貴方に触れたかったの」
銀色に鈍く光る鎖を、彼女が嬉しそうに僕の頬に押し当てる。冷たい金属が肌に触れ、身体の芯が震えた。
身体が、凍りついたように動かない。信じていたのに、心から感謝して慕っていたのに、昨日までは、素直にありがとうって言えたのに。
大好きだった彼女に向けられたこの感情は、明らかな畏怖だった。
「あんまり早くから縛り付けるのも可哀想だし、本当は貴方が高校生になってからと思っていたんだけど……良いわよね、あとひと月もしないうちに高校生になるんだから、少しくらい早くても」
彼女が動くたび、甘ったるい薔薇の香りがふわりと漂う。彼女がいつも纏っている、香水の香りだ。彼女の優しさを表すようなその香りが好きだったけれど、今はただ吐き気を誘うだけだった。
「貴方の綺麗な顔に傷はつけたくないの。だから大人しくしていてね」
彼女は笑っていた。最初から最後まで、歓喜の色を瞳に映して、妖艶に。
こんな馬鹿げたことをして、綺麗に微笑む彼女が心底恐ろしかった。意図せずとも、指先が微かに震える。
その震えを見咎めた彼女が、吐息に似た苦笑を漏らした。
「ねえ、そんなに怯えないで」
綺麗に染められた指先が、まるで慈しむように鎖骨をつつ、と撫ぜる。
「大丈夫よ、貴方を飼い殺しにしたりはしないわ。高校にだって行かせてあげる。私から逃げようとしなければ、ね」
がしゃり、と首輪が嵌められる。それから伸びた鎖がベッドの柱に繋がれていることは、確かめるまでもないことだった。
彼女の言葉は明らかな脅し。
彼女に逆らえば、きっと何もかも奪われる。彼女に与えられた運命に目眩がした。
「……っ、」
ここまで育ててくれた彼女を憎みたくはないのに、彼女のくれた優しさは本物だったと信じたいのに。
微かに、しかしはっきりと芽生えた黒い感情は、じわりじわりと僕の心を侵食する。
以前と同じように彼女に笑いかけることは、きっともう僕にはできない。
思慕、後悔、戸惑い、恐怖、絶望。
混沌とした意識の中で、たくさんの感情がせめぎ合う。
僕が彼女を狂わせたんじゃないのか、僕さえ現れなければ彼女は普通のままで居られたんじゃないのか、そんなことさえ頭に浮かぶ自分が悔しかった。
彼女へ負の感情が芽生えても、彼女を嫌いになりきれない。そんな自分に吐き気がした。
「ふふ、可愛い」
そんな僕の心情など知らずに僕の髪を撫でた彼女はとても嬉しそうに、鈴のような声で笑う。彼女が僕の瞼に口づけたのと同時に、意識がゆっくりと遠退いていった。
気を失った僕を見下ろして、彼女は呟く。
「少しやりすぎたかしら? でも、私から離れようとした貴方が悪いのよ」
疾うに濁った瞳に浮かべたそれは熱情。残酷な運命を僕に与えて、彼女は愛しそうに僕の頬を撫ぜる。
「貴方は私のものよ……離してなんてあげないわ、絶対に」
酷く綺麗な微笑みを浮かべた彼女を、窓から差し込む夕陽が静かに照らしていた。
(そして閉ざされた鳥籠。)
(飛び立つことなど、許されぬ。)
【Fin】