花の涯
ねえ、貴方はまだ覚えている?
貴方がくれた、永遠にも勝る一瞬を、私は生涯忘れないわ。
あの夜私は毒を飲んだの、決して叶わない恋と一緒に、蜂蜜みたいに甘い毒を飲んだのよ。
その毒は肺腑の奥まで染み込んで、今でも私の心を侵す―――。
――――――
「わたし結婚するの」
普通の恋がしたくなったと彼女は言った。もう限界だと笑った彼女の表情があまりに切なくて、引き留めることは出来なかった。
それが18歳の誕生日の話。
そしてこの2年間、想い出の中だけで生き続けてきた彼女がわざわざ結婚の報告を持ってきた今日が終われば、僕は20歳になる。
「……相手は?」
「3つ上の会社員。穏やかで、誠実で……私には勿体ないくらい、心が綺麗な人だよ」
微笑に乗せ、彼女は言う。どこか寂しげで、諦めたような微笑みは2年前と同じだった。
――そしてその、数時間後。
「……19歳最後の夜に、こんなことするなんて思ってなかったんだけど」
真っ白なシーツの中、僕らはふたりで肌を重ねていた。心地のよい倦怠感に身を任せ、抱き合ったまま彼女の鎖骨にキスを落とす。
「結婚するのに、こんなことしてて良いわけ」
「……結婚するから、だよ」
僕の首筋にある、彼女がつけた跡をなぞりながら、彼女は小さく笑った。
「初めて許す相手は、やっぱり咲良じゃなきゃ嫌だったの」
「……馬鹿じゃん」
事後だから、だろうか。彼女が今まで見てきた中で一番、満たされた表情をしていたような気がした。
「――ねえ、咲良」
彼女の甘い声が僕を呼ぶ。砂糖菓子みたいに優しくて、触れたら溶けてしまいそうな、果敢無い声。
その時カチリと時計の針が動いて、ふたつの針が12の文字を刻んだ。
「誕生日、おめでとう」
柔らかに笑んだ瞳が、まっすぐに僕を見ていた。僕と同じで決して綺麗ではない、けれどどんな瞳よりも美しい、僕を想う瞳。
「昔みたいに……一番最初に祝いたかったの」
あの日から、僕と彼女では進む道が違う。昔のような関係には、どう足掻いたってもう戻れない。けれどそれでも、彼女は過去と同じように微笑んでいた。
――嗚呼、どうして。こんなにも好きなのに、愛しいと思うのに、世界は僕らが共に生きることを許してはくれない。
「……小梅もね。おめでとう」
同じ誕生日。同じ名字。どんなに誤魔化しても、僕には小梅と同じ血が流れている。
この世界は血が繋がっているというだけで、想いを伝えることすら罪になる。誰よりも強い、確かな絆で結ばれているのに、僕らはこの感情を、恋だなんて呼べない。
でも――
「ふふ、やっぱり好きだなあ、この空気」
彼女の吐息が揺れ、シーツの海に沈む。彼女は愛しさの滲む瞳を細めて、僕の手に自身のそれを添える。
重なったふたつの手のひらから伝わる温度は、正しい想いではなかった。けれど確かに愛はあった。
「あの人といると、自分が綺麗じゃないってすごく実感するの。だから息苦しい。あの人みたいには、私は愛せない」
それはそうだろう。僕らの愛は歪んでいる。決して美しくなんかない想いを抱いていた小梅に、真っ直ぐな男は重すぎる。
けれど、背徳に押し潰されて壊れかけていた彼女は、そうすることでしか心を守る方法を知らなかったのだと思う。
「それを実感する度に、過去を忘れることが出来れば幸せになれるのかな、なんて考えた」
口許は笑んでいるのに、その表情には哀しみが纏わりついていて。小細工の要らない長い睫毛が、彼女の瞳に憂いの影を落としていた。
「だけどどうしても、私たちの時間が〝なかった〟ことになるのは堪えられなかった」
心底可笑しそうに小さく笑う。そんな彼女を、僕は黙って見つめていた。
「あの日…私が咲良から逃げなければ、何か変わっていたのかな。二人で、幸せになれたのかな」
もう叶うことのない願いを自嘲気味に呟く彼女に、思わず薄く笑みが漏れた。
――ねえ、小梅。本当は、逃げようって言うつもりだったんだよ。
18歳になったあの日に、どこか遠くへ行こうって、二人だけの夢の中で生きていこうって、君を連れ出すつもりだったんだよ。
だけど君が、離れたいと言ったから。
君が望んだのは、共に生きることではなく決別だったから。
ふたりの夢を見るのは、今日で終わりにしよう。
「ねえ、咲良は、私を覚えていてくれる?」
この夢が君にとって辛いだけなら、君は忘れてくれて良い。僕が代わりに覚えておいてあげるから。ふたりで紡いだ時間を、なかったことにはさせない。
だから君は、歩くべきだ。あの日に選んだ、僕ではない他の誰かと。
君が隠し続けた過去に、サヨナラを告げて。
「忘れないよ。だから、小梅は幸せになって」
僕の知らないところで、せいぜい幸せに生きれば良い。
決して許されない初恋。
(僕は運命だと信じていたよ。)
【Fin】