わたしと彼の終末論
『僕と彼女の黙示録』の彼女目線です。
兄の結婚が決まった。
そう淡々と報告した私を、青は柔らかな笑みで受け止めた。
△▽△
「良い式だったね」
帰りの電車に揺られながら、彼がぽつりとそう告げる。
天気は生憎の曇天だった。昨日までは晴れていたのに、今日はどんよりとした曇り空。車窓から見える町の景色も、どこか物憂げに見える。
「……そうだね」
兄も彼女も招待客も、みんな幸せそうに笑っていた。少しだけ寂しさのようなものはあったけれど、たくさんの人に祝福される兄を見るのは誇らしかった。
「ねえ、私も、幸せそうに笑えてた?」
星屑が月に恋をしても、それは決して叶わない。分かっていたのに、それでも兄への想いを止められなかった。苦しくてくるしくて、もがくように息をしていた私は、ちゃんと笑えていただろうか。
親族席から見た高砂の月は、決して私の手の届くひとではなかったけれど。ネイビーのタキシードを着こなす兄を目にして芽生えた感情は、決して泣き出したくなるような苦しさではなく、抱き締めたくなるような愛しさだった。
「笑えてたよ」
「……そう」
だから青からそう言われても、胸に広がったのは純粋な安堵だった。兄の大切な日に、私のせいで水を差さなくて良かった。
「青のおかげだよ。ありがとう」
兄の結婚式に一緒に出席してほしい。そう頼んだ私に、彼は何も聞かずにただ優しく微笑んで頷いた。
青は優しい。私の恋をただひとり肯定して、兄が好きな私が好きだと言って、私が兄に恋をするための理由をくれる。
ねえ、青。これが少女漫画の世界だったら、私は優しい貴方のことを好きになるのかな。青を好きになったら、私には一生手に入らないと思っていた安らぎが手に入るのかな。
でも、だめだよね。青を自分のために利用しているずるい私には、都合の良いハッピーエンドなんて訪れない。
自分を守るために、私は青を利用した。以前彼は、「くるしい時でも笑っていられる芽依はつよいね」と言ってくれたけれど、それは誤解だ。だって私が笑っていないと、兄が心配するから。ただひたすら笑うことでしか、息をする方法を知らなかっただけ。
――物心ついた頃から、兄が好きだった。
6つ離れた兄への憧れが、いつから恋になったのかは分からない。けれど誰に聞かずとも、この恋が異常であることは分かっていた。
だから、この恋を誰かに公言するつもりはなかった。決して私のものにはならないひとを、静かに想い続けるだけの覚悟があった。
けれどある日、突然転機が訪れた。
私が中学2年の夏、両親が亡くなって。兄は20歳の若さで、まだ中学生だった私を抱えて生きていかなければならなくなった。
当時、兄には同い年の恋人がいたけれど、彼女は兄に課せられた重い運命に耐えられず、兄の元から去ってしまった。私のせいで兄が不幸になる、そう考えたら堪らなくくるしかった。
その1年後に兄が出会ったのが、今日彼とバージンロードを歩いた彼女だ。出会った時からずっと、私のためにたくさんのことを諦めなければならなかった兄の支えになってくれたひと。
彼女は優しくて真っ直ぐで、兄とデートする時ひとりで家に残される私を気遣って、私もデートに誘ってくれるようなひとだ。私では兄を幸せにすることは出来ないけれど、このひとならきっと兄と幸せになってくれると、無条件に信じられるひとだった。
この恋は生涯叶わない。だったらせめて、兄の幸せを願える私でいたかった。兄が私のために不幸になるなんて、そんなの絶対許さない。
兄が安心して自分の幸せを掴むには、兄以外に私を支えてくれる存在が必要だ。けれど幼い頃から兄に届かない恋をしていたことで世界がグレーに見えていた私には、親友と呼べるほど仲の良い友達はいなかったし、もちろん恋人なんて出来たこともない。
付け焼き刃のような恋人では、きっと兄を騙せない。それどころか、兄に余計な心配をかけてしまうかもしれない。
行動しなくちゃいけないことは分かっているのに、どうしたら良いか分からない。兄のために何も出来ない、無力な自分が堪らなく嫌だった。
そんな葛藤を抱えて生きる中で、ある日偶然、高校の同級生だった青に再会した。
高校時代から、青の視線には気づいていた。彼が私に向ける眼差しの色を、感情を、私はよく知っていた。私が長い間兄に向けていたものと、同じにおいを感じたから。
偶然再会したから縋ったわけじゃない。彼が私に好意を抱いてくれていることを知っていたから、彼に縋った。
最低な女だと自分でも思う。だけど青は、そんな最低な女の願いを受け入れて微笑んだ。そして兄は私の目論見通り、青の存在に安心して結婚を決めた。
兄が今日という日を迎えられたのは、本当に青のおかげだ。胸の中で混沌とする想いを託すように、青から重ねられた手をそっと握り返した。
△▽△
「ただいま……と」
自宅マンションのドアを開けた途端、どっと疲れが押し寄せてきた。引き出物の入った紙袋を適当に玄関に起き、リビングの電気のスイッチを入れる。
ローテーブルに置かれた仕事の資料と、兄から就職祝にもらったバッグ。お気に入りのフラワリウムに、青と揃えたアフタヌーンティーのマグカップ。今朝家を出た時から変わらない、当たり前の私の景色。
着替えるのも億劫で、ライラックカラーのパーティードレスのままソファに座り込んだ。ヴァレオで奮発して買った二人がけのソファは、柔らかく体が沈む感覚が心地好い。
青は私を気にして、今日は泊まっていこうかと何度も言ってくれたけど、今夜はひとりになりたかった。
それに、もともと私は高校を出たときから一人暮らしだ。兄が結婚したからといって、突然独りになったわけじゃない。だから大丈夫。
そう思っていたのに、ひとりの部屋へ帰ったら途端に心細くて堪らなくなった。この広い世界にまるで私しか存在していないかのような、有り得ない筈の孤独感。
やっぱり青に傍にいてもらうべきだったかもしれない。そう後悔した時、私のスマホが着信を告げた。
「“あ、芽依? もうアパートに着いたかな”」
「着いたけど。何かあった?」
「“いや、特に用はないんだけどね。ただ、大丈夫かなと思って”」
ああ、もう。こういうところだ。青の優しさに触れる度、心がぎゅうっとくるしくなる。
「――ごめんね」
「“ん? なにが?”」
電話の向こうで、彼が笑う気配がした。
――高校時代からずっと、こんな私を好きでいてくれた貴方を、自分のために利用したこと。
私を好きにさえならなければ、貴方は幸せになれた筈なのに。利己的な恋に巻き込んで、私は青の未来を奪ってしまっている。
私のことを好きでいてくれる人に、好きな人を安心させたいから彼氏の振りをしてほしいだなんて。どれだけ自分勝手で最低なことをしてしまったんだろう。
今からでも遅くない。彼のことを想うなら、別れるべきなのだと思う。
「ううん、なんでもない。いつもありがとね」
――だけど、きっと貴方は知らないでしょう。貴方が傍にいてくれることで、私がとても救われていること。
今貴方を失ったら、私は前を向いて歩けない。兄に本心を曝け出して、兄の幸せを奪ってしまう。
ごめんね。
私の歪な恋を丸ごと呑み込んで肯定して、私に生きる理由をくれる貴方を、私は離してあげられない。それなのに、きっとこの先何年経っても、私は貴方を愛せない。
でもせめて、私は貴方に誓うから。
貴方が私の傍にいてくれる限り、私は貴方が好きになってくれた私でいるわ。たとえ許されない恋にどれだけこの身が焦がされようと、兄に恋をする愚かな私でいる。
出口の見えないこの恋を、決して諦めたりはしないから。
ずるい私は、貴方の幸せを心から願うことは出来ないけれど、それでも貴方のために笑うから。
だからどうか、これからも私のそばで。
(貴方もずっと、私のために笑っていて。)
【Fin】