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黄昏を恋う (短編集)  作者: 新熾イブ
13/15

僕と彼女の黙示録



 クラゲというのは、プランクトンの一種らしい。


 遊泳能力が弱く、ゆらゆら、ゆらゆら、ひたすら水の流れに沿って漂う。なかなか魅力的な生き方だと思う。


 全人類がクラゲのように流れゆくまま生きられたら、世界はもう少しだけ息がしやすくなるのではないだろうか。クラゲを見ると、ついついそんな妄言が浮かんでしまう。



「そういえば来週の誕生日、何がしたい?」


 そんな妄言は頭の端に追いやって、クラゲの水槽にへばりつくようにしてクラゲに見入っている彼女――芽依に声をかけた。


「んー? (あお)のしたいことで良いよ」


「それじゃ誰の誕生日か分かんないじゃん」


 水槽から目を離すことなく、ぞんざいに答えを返した彼女に思わず苦笑する。これは聞くタイミングを間違えたかな。


 芽依のクラゲへの執着が度を越しているのは、彼女の鞄にでかでかと鎮座しているクラゲのマスコットを見れば誰にでもすぐに分かるだろう。ヴィトンの鞄にやたらとデカいクラゲ。そんなセンスを持っている人間は芽依くらいじゃないだろうか。


「ほんとに何でも良いよ。歳を重ねたからって、何かが変わるわけじゃないしね」


 彼女の瞳が柔らかく光を失くす。口許は変わらず笑んでいるのに、その表情はほの暗かった。



 ――昔から、彼女はどこか達観している。


 芽依と出会ったのは高校生の頃だったけれど、彼女の雰囲気はその頃から同級生たちとは一線を画していた。友達はそれなりに居たようだけれど、彼女のブラウンの双眸はいつだって、何かを諦めた瞳で遠くを見つめていた。


 その理由が分かったのは、卒業して随分時間が経ってから。偶然街で、彼女が年の離れたお兄さんと談笑しているのを見たときだった。


 お兄さんを見たのはそれが初めてだったけれど、芽依と彼に血の繋がりがあることはすぐに分かった。ふたりの垂れ目がちの目許が、他人と呼ぶにはあまりにも似ていたから。


 そして彼は、ひとりの女性を連れていた。彼に肩を抱かれている女性が彼の恋人であることは、全くの部外者である僕にも一目瞭然で。


 届いてはいけない想いを心の奥底にたたえて、それでも芽依は笑っていた。お兄さんと恋人と別れて、彼らを見送るまで、ずっと。今にも壊れそうなその瞳を見ているのが苦しくて堪らなかった。



 ――ねえ、僕は君に何が出来る?



 思わずそう尋ねた僕に、彼女は酷く危うい笑みを見せながら静かに告げた。



 ――じゃあ、私の恋人になってくれない?



 早くに両親を亡くしていた芽依には、お兄さんしか身寄りがなかった。


 妹がいつまでも独りでいると、優しい兄が心配するから。自分のことなど気にせずに、兄には幸せになってほしいからと。


 彼女の祈りは切実で、彼女の願いには血が滲んでいた。



 ――ただの同級生でしかなかった僕に縋った時点で、彼女はもうどこかおかしかった。



 高校時代から、彼女のことが好きだった。芽依が何を抱えているのかは知らなかったけれど、その何かから彼女を解放してあげたいと願っていた。断る理由は僕にはない。


 契約は成立し、僕と芽依はコイビトになった。


 詳しいことは知らないが、芽依はお兄さんに僕との写真を見せ、恋人だと紹介したらしい。兄が喜んでいたと、感情の読めない笑みで言っていた。



 ――一心不乱にクラゲを眺めていた芽依が満足したのを見計らって、クラゲの水槽から移動する。頭上をエイが泳いでいる通路を歩きながら、芽依は独り言のように小さく呟いた。


「クラゲってさ、死ぬときは溶けてなくなるんだよね。いいなあ。クラゲみたいに溶けてしまえたら、私は楽になれるかな」


「……芽依」


 芽依がどこか遠くへ行ってしまうような不安に駆られて、芽依の左手に自身の右手をそっと伸ばす。彼女の指先はとても冷たかった。


「冗談だよ。やだ、本気にしないでよ」


 そんな僕の不安を見透かしたように、芽依は僕が伸ばした手を握り返してけたけたと笑う。


 彼女は一見、表情がとても豊かだ。お兄さんの前で、無邪気で素直な妹を演じてきた過去の賜物だろうか。春風のように光る瞳を追った。


「ねえ、お兄さんってどんな人?」


「え? なに、突然。そうだなあ……月のようなひと、かな。私のこと、いつも優しい光で包んでくれるから」


「へえ」


 お兄さんのことを語るとき、彼女の瞳は愛しさに溢れた煌めきで満ちる。そこに、嫉妬の感情がないわけではない。けれど、僕はお兄さんに恋をしている芽依が好きなのだ。


 だから、芽依の恋が終われば良いとは思っていない。僕の恋情には、芽依の恋心が不可欠だ。


 星屑が月に恋をしても叶う筈がないと、僕も彼女も知っていた。彼女が星屑ならば月は彼女の兄で、彼女が月ならば星屑は僕だ。


 この関係が不毛だと本当は分かっていても、僕らは気づかない振りを続けている。お互いの手を放してしまったら、この世界の息苦しさに窒息してしまうと知っているから。



 水族館のカフェテリアの天井は吹き抜けになっていて、雲ひとつない冬空から陽射しが差していた。届かない想いを抱えながら恋人ごっこを続ける僕らを、青すぎる空が嘲笑う。


「紅茶で良い?」


「ありがと。冷たいのが良いな」


「了解」


 イルカが描かれたカウンターで、アイスティーと珈琲を注文する。すぐに提供された商品を持って芽依が座っているテーブルに向かうと、彼女がもう一度「ありがとう」と呟いた。


 丁寧なネイルが施された爪先で、彼女がアイスティーのストローに触れる。溶けかけの氷がカランと鳴った。


 芽依の眼差しがゆらゆらと揺れて、彼女が何かを言おうとして躊躇っているのだとすぐに分かった。急かさず静かに珈琲を飲んでいると、芽依はゆっくりと口を開いた。


「今度ねえ、結婚するんだって」


 他人事のように呟いた、そこに感情の色は読めない。


 誰が、なんて。聞かなくたって分かってしまう。だって彼女がこんなに切ない瞳で恋う相手は、世界中を探したってあの人しか居ないんだ。


「……そう」


「ふふ、こうなることを望んでいたのに、やっぱり少し寂しいね」


 口許は苦く微笑んで、伏せられた長い睫毛は憂いの色を落としている。


 その横顔に惚れ直した、だなんて。そんなことを言ったら殺されそうだ。けれど複雑な光を灯す瞳が、アイスティーのグラスに触れる、僅かに力のこもった指先が。素直に、綺麗だと思った。



「ありがとね、青。お兄ちゃんが結婚を決められたのは青のおかげだよ」


 苦しんでくるしんで、それでも彼女は兄の幸せを願おうとした。


 その苦しみを、僕はどれだけ理解してあげられるんだろう。



 ――分かっている。きっと、僕では君を救えない。この先何年経っても、君の背負う傷を、痛みを、君は僕に託そうとはしないだろう。


 それならばせめて、僕は君に誓うから。


 世界が絶望の緋色に染まっても、僕だけは君の味方でいるよ。


 君に想いが届かなくても、これが一生実ることのない恋だとしても、僕は君のそばにいる。


 誰よりも近い場所で、誰よりも強い想いで。


 僕は君のしあわせを祈るよ。



 だからどうか、仮初めでも構わないから。

 (僕の隣で、これからもきっと笑っていて。)




 【Fin】





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