そして赤は嘲笑った
『足掻き』の続編です。
妹に、恋をしていた時期があった。
兄さん、と笑って俺の後をついてくる妹が、俺には何よりも可愛かった。
守ってやらなきゃって、子どもながらにずっと思っていた。
――いつまでも、俺だけのものでいてほしい。そう思うようになったのはいつからだっただろう。
その時にはきっと、この感情は恋なんて綺麗なモノを越えていた。
△▽△
「……よく分かったね。私がここにいること」
原稿を放り出し、缶詰めにされていたホテルから逃げ出した人気作家は、口許に僅かな微笑みを乗せて俺を見た。夕暮れの赤がよく似合う、俺のたったひとりの妹。
「文月のお気に入りの場所だからね、この丘。見に来てみたら予想的中。俺すごい」
少しだけおどけたように言ってみせれば、文月は呆れたように小さく笑った。
――分かるよ。文月がどこに居るかなんて、いつだって。
きっと、どこにいたって一番に見つけてあげられる。そんなことを言ったら文月はきっと困るから、口に出すつもりはないけれど。
考え事をしていたと言う文月に内容を尋ねれば、彼女は大したことじゃないと苦笑する。大したことじゃなかったら、真面目な文月が原稿を投げ出すわけがないのに。
それなのに、花壇に種を埋めれば花が咲くように、まるで当たり前のことだとでも言うように、文月はいつもひとりで抱え込む。
「このまま、この夕陽の赤が、世界を呑み込んでくれたら良いのにって、思ってた」
夕陽の赤を背景に、妹は薄く笑った。群青を溶かして嘲笑う赤に、愛しそうな眼差しを向けた。
「っ、文月は……」
妹はどこか達観している。疾うに何かを諦めた瞳で、世界が破滅する日を今か今かと待ち焦がれている。
「いつも、そうだね。文月の綴る世界はいつだって美しいけれど、その分儚くて脆い」
世界から音が消える。ふたりだけの空間に、静かに俺だけの声が響く。
踏み込むべきかいつも迷って、それでも踏み込もうとしてしまう俺は、きっと優しくなんかない。
――ねえ、文月。
「何がそんなに、文月を絶望させてるの?」
俺の問いかけに、ふふ、と。文月は吐息を漏らすように柔らかく笑う。どこか哀しさを滲ませた笑みが、緩やかに空気に溶けて揺れた。
「絶望なんてしてないよ。ただ、儚い世界観が好きなだけ」
文月はいつもそう言う。そんな詭弁で俺が納得しないことを知っていて、それでも俺がそれ以上問いを重ねられないことを知っていて、俺に本心を見せない彼女は狡い。
「……そっか」
そう言って文月の言葉に頷いて、騙された振りをして笑うことでしか、俺は彼女の心を守る方法を知らない。
不安定に積み重ねられた氷の上に立って、それでも前を向いている彼女は酷く脆いから。何が彼女を追い詰めているのか、知ってはいけない。
知ってしまえば、きっともう後には戻れない。彼女の柔い部分に触れてしまったら、秘密を共有してしまったら、文月はきっと壊れてしまう。
むかし、最後まで問いを重ねられなかった俺に文月は一度だけ、泣きそうな笑顔で「お兄ちゃんは優しいね」と言ったけど。優しさ、ではない。そんな美しいものじゃない。所詮ただの自己防衛だ。
文月が崩れてしまったら、きっと俺の世界もバラバラと音をたてて崩れてしまうと、心のどこかで分かっているから。せめて今の関係のままでいたい、俺の中途半端な足掻きだ。
ふたりの間に流れるちぐはぐな空気を敏感に察した妹は、明るい笑みを貼り付けて首を傾げた。
「ところで、結婚式っていつだっけ?」
「一週間後だよ。式、来れそう?」
その問いに、彼女は残念そうに首を振る。そっと伏せられた、小細工のいらない長い睫毛が、どこか諦めのような色を落としていた。
――そう、その色だ。文月はこういう時、目には見えない何かに足掻いている。
初めてその表情を見たのはいつだったか。文月が、救われない物語を紡ぎだしたのはいつだったか。
もう思い出せないくらいに、時は進んでしまっている。今さら、その時計は巻き戻せない。俺では文月を救えない。
彼女をがんじがらめにして苦しめている鎖から、いつか文月を解き放ってやりたかった。けれどそれが出来ないのなら、せめて。
いつか彼女が、昔のように無邪気に笑いかけることの出来る男と出会えますように。
文月には幸せになってほしい。そのためなら、俺はいくらだって仮面を被るよ。
楔で打ち付けられた心を引き千切ってでも、文月の前では、いつだって〝優しい兄〟で居てあげる。
だから、隣にいるのは俺じゃなくて構わないから、文月はどうか笑っていて。
今にも崩れそうな儚い世界なんかじゃなく、明るく希望に満ちた世界で息をしていて。
きっと届かない願いを、夕焼けの赤が静かに嘲笑った。
△▽△
もう少し丘に残ると言った文月を残して自宅のマンションへ戻ると、玄関で恋人が待っていた。
「うわ、びっくりした」
まさか玄関で待っているとは思わなかったから、思わず少し後ずさってしまった。きっと、俺が出ていってから戻るまで、ずっとここで待っていたんだろう。
我慢していた何かを吐き出すように、彼女は俯けていた顔をあげた。髪も服装も文月を意識して、俺を振り向かせようと必死で文月を演じようとした、俺の婚約者。
「また……文月ちゃんに会いに行ったの?」
「あー……担当さんから俺にまで連絡きてたからさ」
眉を下げた彼女の、咎めるような口調に苦笑する。無視するわけにはいかないじゃん、とおどけたように言えば、彼女はそれ以上言い募ることはしなかった。
諦めたように瞳を細めて、無理矢理笑顔を作って、晩ご飯は何が良いかと首を傾けた。
「ビーフシチューがいいな。前に作ってくれた、ブロッコリー入ってるやつ」
誤魔化すように笑いながらそう答えれば、彼女は嬉しそうに笑って台所に立つ。これが、俺の選んだ日常だ。
――二番目で良いと彼女は言った。文月への気持ちが消えないのならそれでも良いと。
その言葉に甘えた。文月を想うことが痛くて、彼女の好意を利用した。
行く宛のない感情にどうしようもなく苦しくなって荒れた時に呼びつけて、黙って傍にいてくれた彼女の心を、きっとズタズタに傷つけた。俺から離れればきっと全うな道を歩けた筈の彼女の人生を狂わせて、自分でも最低なことをしていると自覚していた。
だけどそれくらい、くるしかった。
甘い世界で息をして、少しでも楽になりたかった。
文月を想いながら、それでも彼女の手を取ったのは俺だ。叶わないと知っていながら一途に想い続けてくれている彼女のために、一生をかけて彼女の傍に居ると誓った。
それが報いだ。実の妹を愛し、俺に好きだと言ってくれた女を利用した、罪への。
窓辺にたって、そっと空を見上げる。文月が焦がれた赤に、ゆっくりと濃紺が滲んでいた。
――なあ、文月。
『結婚式、行けなくてごめんね』――そう言って申し訳なさそうに謝ったお前の本心はどこにあったんだろう。
決して許されることのない、恋なんて呼べるほど綺麗じゃない歪な感情だったけど、
それでも少しでも、ふたりの思いが重なったことはあったのかな。
一瞬でも、同じ行き先を見据えたことはあったのかな。
『兄さん……幸せになってね』
文月の心に、〝兄〟以外の俺が居なくても。
それでも俺は、好きだったよ。
世界中の何より愛しい、たったひとりの俺の妹。
世界が今日で終わるなら、
(君へのキスも許されたんだろうか。)
【Fin】