炭酸水に君の影
「あつい、とける、初くん何とかして」
そう言ってばたりと机に突っ伏す小町に、乾いた笑みしか出なかった。
――――――
彼女が伏した拍子に床に散らばった書類の束を拾い上げ、それで小町の頭を軽く叩く。
「とけるならこの仕事全部終わらせてからにしてね」
「うう、初くんのいじわる」
机から僅かに顔をあげた小町が、恨めしそうに俺をじろりと睨む。暑さに弱いのは知っているけれど、暑いのは俺だって同じだ。
窓は開いているけど、生徒会室は風通りが最高に悪い。せっかく窓枠から吊り下げた風鈴も、全く音が鳴らない。だからクーラーが整備されているのに、頼りのそのクーラーは絶賛故障中だ。
「だいたい、小町が書類の提出期限を勘違いしていなければ、俺は今頃部屋で読書でもしているはずだったのに」
余りの暑さに、つい本音がぽろりと小声で漏れた。慌てて口をつぐむけれど、彼女にはばっちり聞こえていたようで。
「それに関しては十分反省してますー」
子どものように、小町は唇を尖らせる。彼女の声に含まれる、不機嫌の色が濃くなった。
けれど彼女はその後俺を見て、
「でもこうやって休日使ってまで付き合ってくれるあたり、初くんて優しいよね」
なんて言ってふにゃりと笑う。
―――まぶしい。
小町の笑顔はいつもそうだ。日だまりみたいに柔らかくて、温かくて、心がじんわりと熱を帯びる。
「…じゃあその優しい俺が干からびる前に、早く仕事終わらせようね」
それを悟られたくなくてこんな言い方しか出来ない自分がつくづく嫌になる。小町には気づかれないように、吐息を細く吐き出した。
その時、ちりん、と。ふいに風鈴が、涼やかな音をたてて揺れた。さあ、と爽やかな風が吹いて、やっとボールペンを握りしめてサインを始めた小町の髪がさらりとなびく。
火照った体に染み込むような風に、小町は心地よさそうに双眸を細めた。
「お、涼しい」
「これは俺の人徳だね」
「えー、私の日頃の行いが良いからだよ」
「どの口が言うか」
「初くんひどーい」
小町が、判子を朱肉に押し付けながらけたけたと笑う。気の抜けた会話をしていると、今度は生徒会室の開け放たれたドアがノックされた。
「ふたりともお疲れさま」
そう言って入ってきたのは、中性的な綺麗な顔をした男性―――生徒会の顧問をしている橘先生だ。下の名前は…何だったかな。忘れたけど。小町のクラスの数学も担当している。
「橘先生。いらっしゃってたんですね」
「ふたりが休日出勤してるっていうのに、俺だけ休むわけにいかないしね」
そう茶目っ気たっぷりに笑う先生は、透明な青色をした瓶をふたつ手に下げていた。
「これ差し入れ。いる?」
穏やかな笑顔で示される、爽やかな夏の風物詩。瓶と瓶とが触れ合って、かちん、と涼しい音が響いた。
「わーい、頂きます」
小町は嬉々としてラムネに手を伸ばす。瓶に触れ、つめた、なんて楽しそうに呟いた。
きっと彼女の心は今、歓喜の色に染まっている。だってさっき風鈴の音を聴いていた時より、彼女の笑みが濃くなった。
宝物のように両手で瓶を持ってラムネを飲む様子をぼんやりと眺めていると、先生の手が俺の方にも伸びてきた。
「はい、五十嵐くんも」
「、ありがとうございます」
透明な青の瓶を受け取りながら礼を言えば、先生は柔らかく目尻を下げて笑む。
「瀬川はまあ当たり前だけど、五十嵐くんは休日なのによく頑張ってくれてるからね。他の役員は来てないのに」
「初くんは優しいから」
先生の言葉に、彼女は自慢するかのようにそう言い切って笑った。小町の、信じきったような優しい笑みが痛かった。
違う。優しくなんかない。今日だって、ミスをしたのが小町じゃなければ休日出勤なんてしなかった。
俺は先生とは違う。単純で、浅はかで、打算的で、余裕なんてないまだ17歳の子供だよ。どれだけ優しい振りをしたって、俺は先生のようにはなれない。この歳の差は埋まらない。
たまたま予定が空いていただけですよ、なんて詭弁を紡いで、誤魔化すように笑って、ラムネの封を切った。ビー玉が沈み、ラムネの青が揺れる。爽やかな炭酸水が甘く香った。
「そういえば瀬川、この前の小テストは随分点数あがってたね」
「へへ、私かなり頑張ったもん」
「偉い偉い。期末も期待してるよ」
「はーい」
幸せそうに話す彼女を見つめながら飲み込んだラムネは喉に沁みた。
風鈴の涼やかな音は、いつの間にか蝉時雨に呑まれていた。
この恋が実らないなら、
(せめて、彼女だけは幸せでありますように。)
【Fin】