病室
「しくじったか」
病院の一室で、長い眠りから目覚めた若者は、白い天井を見つめた。
目を細めて苦渋の表情を浮かべながら、乾いてひび割れした唇の隙間から、静かに、消え入りそうに発した彼のその言葉は、病室にいる他の誰にも届かなかったが、今の彼の全てを物語っていた。
虚ろな視線を放つその瞳。下の窪みには、深く黒色が染み込んでいた。
窓の外は太陽の光が溢れ、その光は挙って窓ガラスに取り付いて、部屋の中を余すところなく照らしている。
元旦を迎えて数日、葉を落とした樹木と舞う茶色の枯葉。
外は厳しい寒さであると思われるが、ガラス一枚を隔た部屋の中は頗る快適だった。
病室に佇んでいた初老の女性が、彼が目覚めたことに気づいて、喜びとも悲しみともつかない大きな声をあげた。周りにいた二人の男性も駆け寄ってくる。
生気なく横たわる彼の家族と思われる三人は、それぞれ懸命に言葉をかけるが、それらは彼に届かなかった。
彼は鈍い痛みと尿意を覚えて視線を自分の身体に落とした。左腕には点滴のチューブがつながっていた。
痛みの原因はこれではない。
右腕で白い布団を捲ると、下腹部に物々しい管が付けられ、その先はベッドの端へ消えている。
目が覚めてからまだ十数秒しか経っていないが、彼はベッドから起き上がり、立とうとした。身体は動いた。
病室のドアに手をかけた女性の看護師が、下腹部の管が繋がった黒い箱を持って彼の向かう先を歩いた。どうやら彼がトイレに向かうことが分かっていたようだ。
病室の三人は悲しげに、目を細めてその姿を見送った。
彼らはこの若者の家族であろう。
初老の母親は嗚咽を堪えてハンカチで瞼を覆った。
自らの意思で病室を出た彼だったが、全く見覚えが無い廊下を見渡しながら、先導する若い看護師の後にただついて歩いた。
この黒いチューブが彼と、先を歩く者が手に提げた箱に繋がっている。自然に後に続くしかない。
数メートル、いや十数メートルの歩みの先には白いドアがあり、先導者の足が止まった。
やや乱暴に開けたドアの先には通常のトイレの三つ分はあろう広さだった。
当たり前のように彼と入り込んだ彼女は、ドアの引き戸を閉め、呆然と立ち尽くす彼のズボンを手際よく脱がした。
恥ずかしいなどという感情は全く湧き起こらなかった。
彼の性器に繋がったチューブを取り除きながら、彼女は目を合わさずに言った。
「私にはあなたの事情はわからないけど、悲しむ人がいることを忘れないでください」
彼女は眉をしかめ、口をへの字に曲げながら、手に持ったチューブと黒い箱を抱えてそそくさとドアを開けて出て行った。
彼は表情を変えない。
しかし、お腹の痛みを感じて便座に腰を落とした。
トイレットペーパーに手を伸ばした時、彼は自分の身体から真っ黒な液体が流れ出ていたことに気がつく。
彼の表情は変わらなかった。
あの看護師がなぜ彼が目覚めてすぐトイレに行くことを知っていたのか、その理由を悟った。
病院の関係者に頭を何度も下げた大人三人に抱えられながら、彼は車に乗せられる。
晴天だが、外は寒かった。
彼は上着を肩から掛けられて、駐車場へ手を引かれてゆっくりと歩いた。
真っ青なクルマ。それは彼のかつての愛車だった。
彼は助手席に乗せられ、運転席に乗ったのは病室にいた三人のうち一番若い青年だった。
助手席のシートをいっぱいに下げられ横たわった彼は、そこから目的地に着くまで一言も発せず、ただ横になっていた。運転手の男は彼の様子をしきりに気にしていたが、話しかけなかった、いや、話しかけることができなかった。
外は相変わらず光に溢れていた。