くじらの街
久しぶりの投稿です。
彼女とはじめて話をしたのは、ちょうど一年前の春のことである。僕は今みたいに郵便配達の仕事をしていて、そのアパートにはよく配達があったので、行く機会もる多かった。原因は、たった一人の女性宛の手紙。誰かと文通をしているのか、一週間に一度はその名前を見かけていた。女性の名前は三上凪子。その名前は何度も配達するうちに自然と記憶してしまったのだけど、目にするたびに不思議と心が温かくなるようなそんな名前だった。けれども、僕は彼女の顔を見たことも、声を聞いたこともなかった。
三上凪子と僕とはそのような運命にあるのだと思い込んでいた。二人の人生は平行線上にあって、交わることはないのだと。だけど、二つの線は些細なことで均衡を崩し簡単に交わってしまった。僕は、それまで交わったこともない平行線上の二人の人生がこうも簡単に交わるとは知らなかっただけなのだった。
四月の中旬。相変わらず散らない桜が美しい頃の話だ。いつものように、週初めに三上凪子宛の手紙を運ぶため、街の商店街の一本裏を入った住宅地にある古めのアパートへ向かった。潮見ハイツというそのアパートは、手紙の配送ルート順でいうと、最後にあたる。馴染みとなった細い道を抜け、真っ白な壁の潮見ハイツを目指す。バイクから降りて、沢山並んだポストの一番左、三上と書いてあるポストへ手紙を差し込もうとしたその時だった。
「あ、お手紙。もらいますよ」
ゆったりとしたワンピースに、サラサラの長い髪。全体的に色素の薄い女性はこちらへ向かってくる。落ち着いた口調と表情で、すぐに彼女が三上凪子であるとわかった。ああ、やはり年上だったのか。そう納得したのをよく覚えている。
「三上さんですか。お手紙届いています」
「いつもご苦労様です。お忙しいのに、毎週すみません」
そういった彼女はサラり、と髪を耳にかける。桜の花びらがひらりひらりと舞い、とても美しい光景であった。
「これ、どうぞ」
思わず見とれそうになるのを振り払い、彼女の元へ。
「あなた、お名前は?」
不思議そうな顔でじっと見つめられ、鼓動が早くなる。僕たちはどこかで既に出会っているのだろうか? いや、そんなはずはない。こんなに雰囲気のある人を忘れるわけがないだろう。
「……あ、ああ。僕は、井浦といいます」
「そうですか、ああ。失礼します。井浦さん」
――井浦さん。彼女が名前を呼んでくれた。それがなぜだかとても嬉しい。このまま、顔も見ることはないだろうと思っていたのに。それだけで、気持ちが高揚し、柄にもなくバイクのスピードを上げ細道を駆け抜けた。
週の終わりには、一週間のことを思い返すために文章を書いている。その週は特別長くなった。いつもは少ない、自分自身の心理描写を長々と書いてしまったせいだろう。その夜はわりと暖かく机で眠るにはうってつけの気温であった。手紙が届いたのは、その日の夜のことであったらしい。新聞を取るついでにポストを覗くと、一通の桃色の封筒が届いていた。封を開けてさっと目を通す。手紙をじっくり読むのは、仕事上がりの楽しみの一つだ。
毎週送られてくる手紙はいつも、前週の続きを書きとめた物語であり、日記調の近況報告ではない。内容は、巨大なくじらの背中の上に存在する街を舞台にしたファンタジーであり、一緒に絵本のようなイラストがついている。元来読書の好きな僕であるが最近は忙しく、この物語が愛読書となりつつある。
そうこうしている間に新聞を読む時間はなくなり、いそいそと準備をする。朝は苦手だ。勤務先の郵便局までは、自転車で通勤している。途中、桜並木の綺麗な河に架かる橋を渡る。その景色が好きで、ペダルを踏むペースを落とす。今は、葉桜になってしまっているけれど。それはそれで嫌いじゃないのだ。橋の上から、白いアパートが見える。よそ見をしていたら、欄干にぶつかりそうになってしまった。
「おはよーございます!」
アルバイトから正社員になって一年。仕事内容は変化しないが、安定した待遇には感謝している。外周りの仕事ではあるけれど、割と細目に休憩が取れるし、何より外にいるのが好きな僕にとってはいい仕事だ。特にこの季節は、バイクで風を切るのが気持ちよくて良い。担当する区域は二回ほど変わったけれど、今の担当する区域は割と周りやすくて気に入っている。
郵便局は、担当区域に含まれているから出発してまずは近場から、右回りに回っていくのが僕のやり方だ。特別効率的というわけではないけれど、宛名を見ただけでどこの家かわかる程度には把握しているので、まずはタイムスケジュールを組むのがコツだと思っている。この日は、三丁目の山本さんの家が最後だった。塩見ハイツの真向かいの家だ。
何となく、向かいのアパートを見上げる。三上凪子は何をしているのだろうか。一人暮らしであるようだ。いけない、これではストーカーではないか。それに、今日は彼女に会うことはできないだろう。彼女宛の手紙は、今日は手元にない。そんなことを考えている時であった。
「あら、井浦さん」
背後から呼ばれた。それだけでわかった、三上凪子だ。
「こんにちは」
「こんにちは。もう、お手紙が?」
そう言って不思議そうにこちらを見る。ゆっくりとした話し方、ゆっったりとした服、動作。すべてがイメージ通りで、僕は静止しそうになってしまう。
「い、いえ! 今日は、こちらにお届を。三上さんは、お買い物帰りですか」
「ええ。今日は、お鍋なんです」
お鍋。やはり、一緒に暮らしている人がいるのだろう。だけど、それに腹を立てる権利はない。三上凪子にとって僕は一配達員でしかない。仕方がないのだ。そう思った。
「へえ。いいですね。うらやましい。僕は独り身ですから、お鍋なんてもう何年も食べてないですよ」
「ええ、私もです。だから、急に食べたくなって」
驚いた。こんなに雰囲気のある人が独り身であるというのか。しかも、鍋をしようとしている。何だそれは。何かかわいいなクソ。
「材料が多いな。食べきれるんですか? もしかして、意外に大食いですか」
「井浦さんて、案外デリカシーがありませんね」
デリカシー。そんな言葉を忘れていたくらい、会話に没頭していた。そんなことよりも、早く弁解しなくては嫌われてしまう。
「ああ、すみません。僕、昔からデリカシーがなくて」
「気にしていません。それよりも、一つ提案があるのですけれど」
そう言って彼女は買い物袋をきゅっと握りなおした。
「あのですね。私は独り身で鍋の相手をしてくれる人がいないのです」
「ええ」
「ですが、材料を多く買ってしまったし、本来鍋というものは二人以上で行うものであると認識しています」
「はあ」
「だから、井浦さんをお誘いしたいのですが」
「ええっ」
「――ですが、それではあまりに私が物足りないのです。というのも、私は我慢ができない性格で」
「えっと、話の先が見えませんが」
「ええ、ですからこの際はっきりと申し上げたいのです。私は、貴方の顔が好きです」
「えええっと、ちょっと待って」
「待ちません。私は貴方の顔が好きなので、きっと貴方が好きなのです。しかも、私は今いつでも鍋に誘える存在――恋人を募集中なのです。つまり、どういうことかわかりますか?」
「いえ、全く」
「鈍いですねぇ。つまりですね、私は貴方とお付き合いしたいのです」
「はぁ。え、え!?」
ちょっと待ってくれ。それはあまりに突飛で、僕は驚く。いや、確かに彼女には憧れに近いものを抱いているし、彼女は恋人がほしいと言うのでギブアンドテイクだ。だけど。
「ダメですか」
「ダメです、いやダメじゃないけど!ダメですよ!」
それはダメだろう。あまりに突っ込みどころが多いのでなんと反論してよいかわからないが。少なくとも僕はこんな形を望んではいないし、とにかくダメだ。
「意味がわかりません」
「僕のほうが意味がわかりませんよ!」
「じゃあ、私は一人でお鍋をしなくてはならないのですね」
そう言った彼女の声があまりに寂しそうなので、僕は負けてしまった。
「いえ、それは僕が付き合いますって」
「ほんと?じゃあ、恋人になってくれるの?」
いやそうじゃなくて。なんだか、疲れてしまった。
「えと、違います。恋人にはなれません。けど、お鍋は付き合いますよ」
「本当に?ああ、嬉しい」
三上凪子はそう言って柔らかくはにかんだので、僕は今度こそ本気で見とれてしまっていたのだった。
その日は豆乳鍋を食べた。三上は、始終ご機嫌で僕たちは本当に色々なことを話した。わかったことは、三上は絵本作家を目ざいている学生であると言うことと(何と年下だったのだ)、文通の相手は顔も知らない人物であると言うことだった。
「その人、不思議な人でお名前も知らないんです。ただ、Nとだけ書いてあるんですが」
「へぇ。どのようにして文通が始まったんですか?」
「川に、流してみたんです。空き瓶」
「川、ですか」
普通は海が一般的だが、内陸部であるこの付近に海はないらしい。海に出るには車で一時間半、隣県に面する海岸へ向かわなくてはならないと聞いている。
「ええ。それは、日本語で書いてありましたし、海に流して外国についてもあまり意味はなかったためです」
「なるほど」
三上の部屋は、2DKで部屋の一つはアトリエのようになっており、多くの地元美大生がここで生活しているのだと言う。そのアトリエの電気は今は切られていて、扉は閉じられていた。
「あの、良かったらアトリエ見せてもらえませんか」
「人に見せる様なレベルではないですが……、何故だろう。私も井浦さんに、見ていただきたいです」
それは、街を背に載せた巨大な鯨のイラストだった。それが何処か既視感があって、僕は作品の中に引き込まれる様な、そんな気がした。
「井浦さん、知っていますか? 実はこの街は鯨の上にあって、大陸などとは繋がっていない、独立された世界だと言うこと」
「え?」
夢でも見ているのだろうか? 三上が突然その様なことを言うものだから、ゾクリとした。
「あはは、三上さんは冗談までファンタジーですね。流石は絵本作家」
「気づきませんか? おかしなことに、この街の人は誰も海にいかない」
鼓動が早まる。指先が冷たい。心なしか酸素も薄く感じる。あぁ、言わないでくれ。それ以上、言わないで。
「それは内陸部だからで……」
「だけど、それはあくまで人から聞いた話でしょう。不思議だと思いませんか? 誰もが“らしい”って言うのよ」
ゾクリ、ゾクリ。確かに、僕が話を聞いたその人もまた、人から聞いた話だと言っていた。だけど、その前は? その前の人も人から聞いた話であったとしたら? それは、一体いつから話されてきたものなのだろう。そして、実際に海に行った人間は何人いるのだろう。
「おかしいと思いませんか? 私は気づきました。私、記憶がこの春からしかない。だけどね、私は貴方を知っているんですよ。井浦さん、それって私だけでしょうか?」
「僕は……僕は知らない。君のことは、覚えてない」
「そう、ですか。変な話をしてすみません。きっと絵本を作りすぎたのだわ」
彼女はそう言って微笑んだが、その笑顔がどこか寂しそうで、僕は心の奥が締め付けられた。ああ、知ってる。僕は、彼女のことは覚えていないがこの顔は知ってる。そう思った。
確かに、今年の四月以前の僕の記憶は薄い。薄いどころか、自分が大学を卒業したことくらいしか記憶がない。実家は隣県にあるし、隣県の高校に通っていた記憶もあるが、その時の詳しい記憶と言うものは欠如している。だけど、それを今まで何とも思っていなかった。
彼女のアパートから買える道、夜空を見上げた。月が美しい夜だ。しかし、昨日も満月ではなかったか? 桜の花弁がひらりと舞う。だけど、この桜はいつから咲いている?
――井浦さん、知っていますか? 実はこの街は鯨の上にあって、大陸などとは繋がっていない、独立した世界であるということ。
三上はそう言っていた。確かに、よく考えればこの空には長い間星がないし、月はいつも朧である。だけど、何故だ。
「胸がいたい」
僕は家路を急いだ。手紙だ。あの手紙は、きっと答えなのだ。
毎週届く手紙の中の物語では、いつも鯨を操る少年が活躍する。鯨の生活する巨大な湖の中には、太陽のような光の玉があって、その周りを近づいたり、遠ざかったりしながら四季を産み出す。鯨の背に乗った街が漆黒の危機にさらされると、少年は鯨を操り日向へと誘導した。ある時は、鯨が死にそうになってしまうと薬を探しに深い海の底へ。だけど、彼は誰にも感謝されない。何故なら街の人間に彼は見えないからだ。
「寂しい」
気がつくと頬が濡れていた。だけどそれは身に覚えのない涙だ。もしかすると僕は、大切なことを忘れているのかもしれない。いや、実際に忘れていたのだ。僕は思い出していた。
もう、僕は三上凪子と同じ時間を生きられないこと
もう、僕は誰とも会話を楽しむことができないこと
もう、僕はこの街の外に出ていけないこと
だけど、彼女はどうして僕に気づくことができたのだろう。そもそもどうしてこの街に彼女がいたのだろう。この鯨の街は三上凪子の想像上の世界なのに。
僕が生まれたのは、もういつのことだろうか、覚えていない。僕は、三上凪子の恋人であった井浦宗太郎をモデルに生まれた。と言うのは、井浦宗太郎が現実の世界で死んでしまったからだ。彼は郵便配達員だった。いつものように仕事をしていた彼は、左折する大型トラックに巻き込まれて死んでしまったのだ。よくある事故だ。だけど、それは三上凪子に壮絶な虚無感を生んだ。僕はそんな虚無感を埋めようとして生まれた、彼女の絵本に出てくる主人公。ただそれだけ。だったはずなのだけれど、井浦宗太郎――彼もまた、三上凪子のことを深く愛していた。だから、生まれて間もない魂のない僕と一体化して、彼女の物語の中で生きようとしたのだ。自然と、僕と彼は上手く溶け合い、いつしか僕は三上凪子を愛するようになった。
一人を愛すると、途端にほかの人間にも興味がわいた。僕はそれまで鯨を操ることにしか関心がなかったし、他人と関わることも億劫であったはずなのに、寂しいと感じるようになった。そんな心は暴走して僕は普通の人間のように生活しようとしたのだ。それまでの記憶を封印し、彼のように郵便配達までして。だけど、思い出した。もうそろそろ潮時なのだ。この街の桜が咲いたままであるのも、毎夜満月であるのも、全ては僕のせいなのだ。鯨が動かなくなってしまったから。
やめてしまえ。誰かが耳元で囁いた。それは、風の音かもしれないし、僕の心の声なのかもしれなかった。
鯨なんてどうでもいいじゃないか。物語はハッピーエンドでなくちゃ。
気づくと僕はバイクを走らせていた。ここが現実で無いならばどうとでもできる。鯨の世話をしながら彼女と生きていくことを誰が止める? 他に人などいないのだから。
いつまでも枯れない桜の花びらが舞う中、僕は三上凪子の住むアパートに向かっていた。
こんにちは、はじめましてサエバです。
今回久しぶりの投稿ですが、時間をかけて書いた割にはそんな終わり方!?ってなった作品です。
実は半年前にはほぼ完成していたのをどう終わらせるか悩んで現在に至ります。
またリベンジしたい…