夢 ―アルショウネンノシテキナシ―
「第一夜」
ジョジフが何も食べなくなり、一日中眠っているというのです。トムは、学校が終わったら、お見舞いに行くことにしました。昨日お母さんがくれた水密桃を持っていこうと思っていました。
頬を赤らめて走るトムの手には、水密桃がひとつありました。いつか見た朝焼けのような色の水密桃です。大きくて柔らかくて、顔を近づけると、甘い、いいにおいがしました。これなら、きっとジョジフは喜んでくれるでしょう。
駆け込んだジョジフの部屋は薄暗く、二人で飛び跳ねたこともあるベッドに、ジョジフが横たわっていました。顔が青ざめているのが、暗がりの中でも分かります。ジョジフのお母さんが、枕もとのランプを点けていってくれました。
「ねえ、お見舞いを持ってきたよ」
「ありがとう、その上に置いてくれないか」
トムは、ランプの下にそっと水密桃を置きました。
*
その晩、トムとジョジフは、不思議な星にいました。真っ暗な宇宙の中に浮かんだ、ちいさなちいさな星です。きっと子どもが十人もいれば、この星はいっぱいになってしまうでしょう。星の地面はやわらかくって、うっすらと赤みをおびて、光っていました。地面からは、なんともいえぬいいにおいがします。
「ああ、この星は水密桃なのだ」
トムはすぐに気がつきました。ジョジフは気付いたでのしょうか。顔を見ると、地面の照り返しを受けているせいでしょうか、頬が赤みを帯びて、つやつやとしています。どうやらジョジフは元気になったようでした。いいえ、いつもより、いきいきとしているようにすら見えます。
その小さな星で、昔したように、追いかけっこをしました。次は君が追う番だ、次は僕だ、と。終わりのこない遊びに夢中になりながら、呼吸をすれば、水密桃のにおいが体の中に満ちて、むせかえりそうでした。
ふたりはしあわせでした。
「第二夜」
次の日も、トムはお見舞いに行きました。台所で見つけた葡萄を、こっそり持ってきたのです。一粒一粒がきらきらと光って、実においしそうでした。お母さんには叱られるかもしれないけれど、この葡萄を見たときに、ジョジフに食べて欲しいと思ってしまったのです。
ジョジフの部屋は、今日も薄暗く、シーツの白さだけがぼんやりと浮かんでいました。ランプを点けると、昨日トムが持ってきた桃が、茶色くしなびていました。トムは悲しく思いました。けれど、ランプのあかりさえも気だるそうなジョジフに、何も言うことはできませんでした。
「今日は葡萄を持ってきたんだ」
「ありがとう、そこに置いてくれないか」
トムは、またランプの下に、大切そうに葡萄を置きました。
*
ジョジフの手の中に、あの葡萄がありました。見れば見るほど、きれいな、いい葡萄です。
「ねえ、食べてみてよ」
トムがせかすと、ジョジフは困ったように笑って、一粒をつまみ、口に運びました。しかし、葡萄は、ジョジフの唇に触れようとするその瞬間に、きらりと光って真っ暗な空に飛んでいってしまいました。
葡萄の粒は、大変な速さで飛んでいき、空の高いところまでくると、きらりきらりと光りました。葡萄は、星の種だったのでした。ジョジフは一粒また一粒と口に運ぼうとしては、葡萄を星にかえていきました。
すべての葡萄の粒が飛んでいってしまうと、トムとジョジフの上には、空いっぱいに星がきらめいていました。そう、こんな星空を、トムとジョジフは確かに見たことがありました。
いつだかと同じように、並んで言葉もなく、時折お互いのため息だけをききながら、いつまでも空を見上げていました。
ふたりはしあわせでした。
「第三夜」
今日もジョジフのお見舞いに行こうと思いましたが、トムには、もう持っていく食べ物がありません。お母さんにもらおうにも、どこかへ出かけてしまっていました。ぼんやりと夕暮れの庭を眺めていると、大きな大きなタイサンボクの木に、やはり大きな大きなタイサンボクの花が咲いていました。そう、お花を持っていくというのも悪くないかもしれません。
木登りは、トムのほうが得意なのです。ジョジフは、いつも木の下で難しそうな本を読みながら、時々トムを見上げていました。木の中ほどまで登ると、ちょうど二つ花を付けた枝がありました。タイサンボクの花は、トムの顔より大きくて、そして雪みたいに真っ白でした。トムは、その枝を折ると、おしりのポケットにさして、小猿のように木を降りていきました。
すっかり日も暮れて、ジョジフの部屋は真っ暗でした。シーツが瑠璃色に染まっていました。ちいさなため息で、ジョジフが横たわっているのが分かりました。
「ねえ、花を持ってきたよ」
「ああ、タイサンボクだね、ありがとう。そこに置いておいてくれたら、母さんが活けてくれるだろう」
ランプは点けませんでしたが、昨日の葡萄がひからびて小さくなってしまっているのが、分かりました。トムは悲しく思いました。タイサンボクの大きな花は、暗闇にぼんやり浮かんでいます。音をたてないように、ランプの脇に置きました。そして、ベッドの傍に椅子を運ぶと、暗闇の中に見えるような見えないようなジョジフの顔を眺めていました。
長い道を走ったせいでしょうか、トムはとても疲れてしまって、いつのまにかジョジフのベッドに顔をうずめて寝入ってしまいました。
*
ジョジフが、宇宙の果てを見てみたいと言いました。……ううん、そうじゃないんだ、僕のいる銀河がどんな形をしてるのか、見てみたいんだと。また難しそうな本を開いています。そのページに、小さな多色刷りの絵がありました。星がたくさん集まって、薔薇の形をしています。そして、薔薇の色をしています。これは随分きれいだと、トムは思いました。
「これで宇宙の果てまで飛んで行けないだろうか」
タイサンボクの花は、子どもが乗るにはちょうどよい大きさです。トムが自分の思い付きに返事をもらおうと振り返ると、もうジョジフはタイサンボクに飛び乗っていました。そして、もうそれはすごいスピードで、飛んでいってしまいます。トムはあわてて自分もタイサンボクに飛び乗ると、いそいでジョジフを追いかけました。
タイサンボクの花は、なんて早く飛ぶのでしょうか。やっとジョジフに追いつき、競うように宇宙の果てを目指しました。
燃える蠍の火や、オリオンの革のベルト、青白い十字架も近くで見ました。天の川の水しぶきを頬に受け、ペガサスの羽音や竪琴の音も聴くことができました。けれど、飛べども飛べども、なかなか宇宙の果てにたどり着くことはできません。トムとジョジフは、少し速度を緩めて、後ろを振り返ってみました。
「あ、苹果」
トムは思わず声をあげました。そうです、トムとジョジフの銀河は、苹果の形をしていました。ひどく薄い硝子のような表面は、赤く色づいていました。そして、その内側は、苹果の良い香りで満ちているのが分かりました。トムとジョジフのいるあたりまで、その香りは漂っていました。ジョジフは満足そうに目を細めています。トムは両手を上げて、背中を伸ばしました。
ふたりはしあわせでした。
「さいごの夜」
トムが目を覚ますと、すっかり朝になっていました。ジョジフの部屋のカーテンは厚かったので、窓を開けようとして、それと知ったのですが。
ランプの脇に置いたタイサンボクの花は、もう散ってしまって、花びらは茶色くなっていました。並べて置かれた水密桃も葡萄も、そのまましなびきっています。トムは悲しく思いました。
一体、ジョジフはどんなものなら食べてくれるのでしょう。そして、どんなものなら喜んでくれるのでしょう。家への道を歩きながら、トムはぼんやり考えていました。もう自分には、ジョジフにあげられるものが何もないのです。
それでもトムは部屋に戻ると、あれやこれやと探し始めました。部屋中がごちゃごちゃになった頃、本棚の後ろに、にぶく光る小さなブリキの缶を見つけました。
装飾された文字で、何かが書いてあります。しかしその文字も、青錆でところどころしか読めません。この箱に、トムは見覚えがありました。そして、中身だって知っているのです。
外はもうすっかり夜です。まだ間に合うでしょうか。トムは箱を持って、部屋を飛び出していきました。
*
大きな苹果の銀河には、水密桃の星が浮かんでいます。たくさんの星の正体が葡萄の一粒一粒だということを、トムとジョジフは知っています。
お腹がすいたなあ、とジョジフが言いました。たくさん飛んだし、色んなものを見たから、僕、お腹がすいたよ、と。
それを聞いて、トムは飛び上がるほど嬉しく思いました。けれど、もう食べるものはありません。水密桃も葡萄もないのです。……と、ジョジフは自分の手の中の錆びたブリキの箱を思い出しました。
「ねえね、これ、これを見て」
ジョジフは箱を受け取ると、首を横に傾けながら蓋を開けました。ジョジフだって中身を知ってるはずなのに、おかしいやとトムは思いました。
箱の中には、小さな石がたくさん入っていました。ただの石ではありません。もちろんただの石も混じっていました。……虎目石、猫目石、翡翠、水晶、瑠璃、ガーネットやサファイアを含んだかたまりだってあります。海辺で拾った、角が丸くなった硝子片や貝殻も混じっています。いつか鉱石博物館を作ろうと、トムとジョジフは約束していました。これらは、その博物館に展示されるべき、貴重なコレクションなのでした。
ああ、おいしそうだ。……ジョジフが確かに言いました。そして、鉱石の一つを口に運びました。ジョジフの白い歯が、カリリと噛みました。鉱石は砂糖菓子のように崩れて、ジョジフの口の中に溶けていきました。
ジョジフは次々と、鉱石を食べていきました。そんなに食べたら、もう展示するものがなくなってしまうとトムは思いましたが、それでもいいのです。これで、きっとジョジフは元気になるでしょう。
紅水晶は桜桃の味、アクアマリンはサイダーの味、翡翠はすこし熟れ過ぎてしまった青苹果の味がすると、鉱石を食べながら、ジョジフが教えてくれます。その話を聞きながら、トムは満足そうに笑ってみせました。
そして朝がきました。ジョジフはもう、夢をみることはありませんでした。