9.日常を取り戻すための五日目①
結論から言うと。
――疲労からくる体調不良ですね。ゆっくり休めば良くなりますよ。
医師からそう告げられ、なんと納得のいく理由だろうかと、僕は感心した。
むしろ、この四日間よく耐えたものだと思う。精神的にも肉体的にも、とっくに参っていても可笑しくなかったのに。……まあ、肉体の方が先に参ってしまったわけだけど。
そして僕は今、病院のベッドで天井を見上げている。
暇だ。物凄く暇だ。
意識を失っている間に寺川が来て何かしらの手続きをしてくれたらしく、僕は一日入院することになっていた。意識を取り戻したのが深夜だったから、結果としては良かったといえる。
けど、朝食が終わってから退院までの時間が長い。一通り休息を得た僕にとっては、「無駄」以外の何物でもない時間である。寺川が持ってきてくれたらしい僕の鞄には、生憎暇つぶしになるようなものは入っていないし。
くそう、と僕は己の失態を悔いた。こうなることが分かっていれば、本の一冊でも持参していただろうに。
手持ち無沙汰な時間を過ごしていると、コンコンという軽めのノック音がした。六人部屋なので誰の見舞客かは不明だが、一応身体を起こして「はぁい」という適当な返事する。
そして、入って来たのは――。
「宇佐美さん……?」
そこにいたのは、紛れもない宇佐美千帆――いや、「宇佐美千帆の姿をした女性」だった。
言ってから、「しまった」と思う。病院内での猫化現象は確認されていないものの、大学関係者の猫化現象が収束したとも限らない。彼女が他の誰かと入れ替わっていたら――?
ますます体調が悪化するかもしれない危機に、僕の緊張も高まる。頼むから退院させてくれ。
そんな緊張感が薄れたのは、彼女が表情を崩した瞬間だった。
「良かった、新和くん……」
ふっと表情が和らいで。
心底安心したような――逆に言えば、今まで本気で心配してくれていたことが伝わってくるような、そんな顔で「宇佐美千帆」は近付いてくる。
同時に僕の心にも安堵が生まれた。「新和くん」、と。僕をそう呼ぶのは、研究室では一人しかいない。
「宇佐美さん」
もう一度、確信を込めて呼ぶと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「いきなり倒れたからびっくりしたけど……元気そうで安心した。これから退院なんだよね?」
あ、そうだ。彼女の目の前でぶっ倒れたんだった。
猫化現象が解消されたことの衝撃が大きすぎて、すっかり忘れていたが、僕は宇佐美さんと話してる最中に意識を失ったのだ。となると、彼女には相当迷惑をかけたことだろう。
「ああうん、昼前には。それより、宇佐美さんには凄い迷惑かけたみたいで……ごめん!」
ベッドの上で拝むポーズ。
僕としては土下座レベルなんだけど、さすがに病室でドタバタするのは気が引ける。病人なんだし、ここは略式で許してもらおう。
「ううん。そんな、気にしないで! 大したことなくて良かったよ」
「ありがとう。そう言ってもらったら救われる」
宇佐美さん、なんていい子なんだ……。こんなとき、人は人の有難みを感じるのだろう。
「やっぱり疲れてたんだよ、もう。ちゃんと休んだ?」
「まあね。これであと一週間くらいは持つかな?」
「もう、そういう問題じゃないの! こまめに休息を取らないと駄目ってこと!」
ちょっと怒った顔の宇佐美さん。こういう表情もいいな、と思ってしまうのだから、僕は入院を延長した方が良いのかもしれない。
「そういえば、宇佐美さん一人?」
「え……?」
瞬間、宇佐美さんの表情が固まった。あれ? なんか不味いこと言ったか?
彼女の反応に僕の方が戸惑っていると、
「ごめんね。一人で来ちゃった」
ぽつり、と。
申し訳なさそうな、悲しそうな顔で宇佐美さんは言った。さっきまで明るかった表情が嘘のようだ。
何で謝ったりなんかするんだ? 僕は何か責めるような発言をしただろうか。
わけが分からないものの、とりあえずはっきりしているのは、彼女は悪くないということだ。わざわざ見舞いに来てくれたことに対して感謝こそすれ、迷惑に思うことはないんだから。
ここは、きっちり誤解を解いとかないといけないだろうな。
「いやいや、全然悪いことないよ。むしろ、来てくれて嬉しい」
「えっ」
ぱっと彼女の顔が上がる。
「あ、いや……一人で暇だったから、さ」
「……そっか」
…………ああ、自分で自分を罵ってやりたい。
暇だったのは事実だが、そこじゃないだろう、と。宇佐美さんが来てくれたのが嬉しいんだろう? 寺川が来たところで嬉しくもなんともないだろう?
しかしそれも後の祭り。なんとなく気まずい空気が病室に流れた。
この気まずさを感じていたのはどうやら僕だけではなかったようで、宇佐美さんは鞄の持ち手を握ったり離したりしながら視線を彷徨わせている。
不味い。このままでは、非常に不味い。というか、せっかく見舞いに来てくれた彼女に対して僕は何をやってるんだ。
何でもいいから喋ろう――そう思った矢先、
「新和くん」
宇佐美さんに名前を呼ばれた。
「な、なに?」
いつもこんな返事しか出来ない僕を、どうか責めないでほしい。彼女に「新和くん」と呼ばれるたびに、変な緊張感が走ってしまうのだ。きっと「癖」になっているのだろう、と勝手な解釈をしておく。
「新和くんが倒れる前に、私が言ったことなんだけど……」
「倒れる前……あー」
記憶を手繰り寄せる。
そういえば、色々と言ってた気がする。その口調に違和感を覚えて、安永さんの人格が移ったんじゃないかと考えたんだっけ。
「あんまり、気にしないで」
「え?」
「忘れてくれていいから」
「え、それって……」
どういうことだ?
しかし僕が疑問を投げかけるよりも早く、彼女は有無を言わさぬ表情で「じゃあ、そろそろ帰るね」と言って背を向けてしまう。ちょ、ちょっとちょっと!
「宇佐美さん!」
病室に僕の声が響く。迷惑なことこの上ないが、今は気にすまい。隣のベッドのおじいさんだって昨日ラジオを大音量で聴いていたし、お互い様というやつだ、うん。
宇佐美さんは、やや驚いた顔で振り返った。呼び止められたことよりも、僕の緊張感の滲み出る声が想定外だったのかもしれない。
そんな彼女に向かって、僕は一つ呼吸をしてから口を開いた。これが言えるのは、たぶん今しかないだろうから。
「僕に『待ってて』って、言ったよね?」
確かめるように言うと、宇佐美さんは「あっ」と声を漏らした。
ごめん。やっぱり、なかったことには出来そうにない。少なくともこれを確かめるまでは。
「あの言葉……前にも、聞いたような気がするんだ」
「え…………」
この発言は、本当に予想外だったのだろう。完全に動きを止め、まさかといった表情で僕を凝視している。
「一年前、同じことを言ってくれたのは――あの時僕が案内したのは、宇佐美さんじゃない?」