8.正常とはなんぞやと思い始める四日目②
「その……猫は……?」
安永さんの姿をした宇佐美さんの膝には、忘れもしない、あの黒猫が眠っていた。
そう。全てのイレギュラーが始まった、あの朝に出会った猫である。
「この子?」
宇佐美さんは、猫を起こさないように上半身だけこちらに向ける。
「まさか、宇佐美さんの……?」
僕の問いに、彼女は首を振る。
「ううん。大学に居ついちゃってる猫みたい。生協の人が餌をあげてるんだって。たまに外に出ることもあるみたいだけど」
「そうなんだ。宇佐美さんは、よくここに?」
「うん。生協に来たときにたまたま出会って、それ以来通うようになったんだ。……ほんと、可愛いよね」
なるほど。ここは第二生協とも近い。
災厄の元凶かもしれない猫を「可愛い」とは思えなかったが、ノーと言うほど僕は馬鹿ではない。僕は「う、うん」と微妙な同調を示した。
「新和くんも、猫好きなの?」
「え!?」
正直、猫は好きでも嫌いでもない。というより、動物全般にあまり興味がない。
けど、それを言うのは得策ではないだろう。僕は少し迷った後で、無難な返答をすることにした。
「普通、かな」
「ふぅん。そっか」
ここで「僕も猫が好きなんだ」と言えば、彼女との新密度が急上昇したかもしれない。それを思うと残念な気もしないではない。……が、まあ嘘は良くないよな。バレた時に、色々と面倒なことになりそうだし。
それよりも、
「実はその猫に用があるんだ」
「え、この子に……?」
明らかな戸惑いの声。それはそうだろう。いきなりやって来て、「猫に用がある」なんて、どんな変人だ。
しかし、ここで怯んではいけない。大切なのは勢いだ。強引に進めるべし。
「ちょっと触らせてくれないかな」
「うん、いいけど……」
腑に落ちない様子だったが、宇佐美さんは目で「どうぞ」と言ってくれた。
――って、ちょっと待て!
「え、と。出来れば膝から下ろしてほしいんだけど」
「駄目だよ。そんなことしたら起きちゃう。せっかく気持ち良さそうに眠ってるのに」
そんな非難するような目で見なくても……。
宇佐美さんに睨まれ、僕は主張を通すことは叶わなかった。彼女、相当な猫好きだな。
「でも、触った瞬間に起きるんじゃあ……?」
「大丈夫。さっきまで、私も頭撫でてたから」
そう言われては、やはりあきらめざるを得ない。仕方ないな。……いやまあ、今からやろうとしてることを思えば、嫌じゃないんだけど。というかむしろ役得なんだけれども。
ちらりと横目で宇佐美さんを窺うも、彼女はその行為によって生じる出来事については、深く考えていないようだった。気付いていないのか、気にも留めていないのか。
「じゃあ……触ります」
「はい、どうぞ」
緊張のあまり可笑しな喋り方になってしまった僕に、宇佐美さんは笑いを含んだ声で返事をする。良かった。冗談だと思ってくれたようだ。
ごくり、と喉がなりそうになるのを必死で止める。そんなことをしてしまえば、緊張しているのが丸わかりだ。それに、変に警戒されそうだしな……。
よいしょ、と。僕は膝を地面につけた。ちょうど目線の高さに、宇佐美さんの胸元がくる。
マズい――僕はとっさに目線を下げた。
自然体を装いながら、宇佐美さんの膝に手を伸ばす。この現場だけを切り取ると、とんでもない変態野郎である。知り合いに見られていませんように、と心の中で祈ることを忘れない。他の連中ならこの状況を楽しむ余裕があるのかもしれないが、あいにく僕には無理だった。
「……っ」
極力意識しないようにするも、やはり目に入ってしまうものは仕方がない。
宇佐美さんのスカート丈は決して短いわけではなかったが、座る時にあまり意識しなかったのだろう。際どい部分まで見えそうだった。……見てない。見てないぞ、うん。
自分に暗示をかけつつ、僕はそろりと手を伸ばした。
「あ……」
柔らかな感触が手に伝わる。外見から、勝手にごわごわした手触りを予想していたのだが、そんなことはなかった。
小さな身体から伝わる体温はほんのり暖かい。猫を抱いて寝る人がいるというのを聞いたことがあるが、それはこの温もりを知っているからだろう。
ぴくり、と。
猫の身体が震える。逃げられるか? と緊張感が走るも、そろそろと背を撫でてやれば、穏やかな表情で小さく鳴いた。
「可愛いでしょ? すごく人懐っこいんだよ」
「可愛がられてるんだろうな」
「うん。生協の人とか学生とか。あと、先生にも」
「先生も?」
「結構来てる人多いよ。癒しを求めて」
宇佐美さんはくすくす笑う。一体誰が来てるんだろうか。
「ていうか、新和くんもその一人でしょ?」
「あ………」
そうか。確かに、そう思われても仕方ない。まさか「猫にかけられたかもしれない呪いを解きにやってきました」とは言えないしな。そして触ったはいいものの、何の変化もないぞ! どうなってる!?
内心密かに焦る僕に、宇佐美さんは小首を傾げながら言う。
「あれ? もう満足?」
「え、ああ。うん。まあ……」
満足というか何というか。目的は果たされたわけだけど、根本的な問題は解決されてないわけで。だってほら、宇佐美さんは相変わらず「安永さん」だし。
「なんだ。新和くんも猫好きなんじゃない」
「え!」
「だって、癒されてるって顔だったよ? 隠れ猫ファンとみた!」
びしっと指差していう宇佐美さん。僕は思わず固まった。それは彼女に突飛な指摘をされたからではなく、ある違和感に気付いたからだ。
なんていうか…………変じゃないか? 雰囲気が違う。これは、僕の知ってる宇佐美千帆ではない気がする。だって普段の丁寧で穏やかな印象は、今の彼女からは感じられない。どちらかというと安永さんのような、活発な雰囲気に見える。
と、そこまで考えて、僕はある可能性に思い当たった。
まさか、人格にまで影響を及ぼし始めているんじゃなかろうか。
だとしたら大問題だ。
「ええと、宇佐美さん……」
何と言えば良いのだろう。僕は必至に考える。
これは緊急事態だ。彼女の人格に関わる危険を、僕だけが認識している状況で。それを何とかして彼女にも認識してもらおうとして。ああでもくそ、上手く伝えられる気がしない!
この場で発狂したくなるレベルの異常事態に、しかし当の宇佐美さんは「安永さん」の人格で話を続ける。
「隠さない、隠さない。ほら、同志だってわかったことだし、これからは――」
駄目だ。それ以上喋ると、本当に宇佐美千帆ではなくなってしまうんだぞ。
そう伝えようと思うも、なぜか口が動かなかった。いや、口だけじゃない。全身が金縛りにあったように、身動きが取れなくなっていた。
「だから――――ね?」
もう彼女が何を言っているのか聞き取れない。ただ、何とかしなければ。彼女を助けなければという思いだけが、僕の心を占めていた。
「――いい?」
いいわけがない。
朦朧とした意識のなか、僕は首を振る。
駄目だ。駄目なんだ!
彼女の声はどんどん遠くなっていく。そして、同時に僕の身体もまた、限界を迎えようとしていた。
このまま倒れてしまうのか――それを覚悟した僕は、しかし次にもたらされた言葉に意識を戻した。
「ここに来るから。だから……待っててね」
この、台詞は――。
「う、さみ、さん……?」
ああ、なんでいつも彼女の名を上手く呼べないんだろう。
遠退く意識のなか、僕は自分に幻滅する。何をやろうとしても、もはや叶いそうになかった。
「あっ……」
奇妙な浮遊感が僕を襲う。
身体が傾く寸前、黒猫と目が合った気がした。