7.正常とはなんぞやと思い始める四日目①
目の前には、猫の姿をした安永さん。
その横には、安永さんの姿をした宇佐美さん。
二人並んだ光景を目にして、僕は軽いノイローゼになりそうだった。もはや理解の範疇を超えている。
ある程度予想していたこととはいえ、実際に目の当たりにするとシュールだな。やっぱり。
「――んじゃ、これで解散ってことでオッケー?」
相変わらずの毛並みをした寺川が、一同を見回して言う。
埃一つないさらさら感は、もはや芸術といって良いだろう。キャットフードのCMにだって採用されるレベルだ。毎朝時間をかけてセットしてきているのだろうか。一瞬、寺川の背中を撫でてやりたいという衝動に駆られたが、慌ててそれを否定する。なんて恐ろしい考えだ。
寺川らを見れば分かるように、宇佐美さん以外の人間に関して言えば、特段変わった点はない。いや猫化してる時点で十分異常だけど、それはそれとして。
やはり、彼女だけが特別なのだ。
「新和さんっ!」
「えっ?」
宇佐美さんを凝視していたはずの僕は、視界から急に彼女が消えたことと、後ろから別の人物に声を掛けられたことで二重に驚いた。
「帰らないんですか?」
「あ、ああ、うん。帰るよ。そのうち」
猫化した安永さんに適当な返事をしつつ、僕は室内を見回す。宇佐美さんの姿はない。学生集会が終わってすぐ、研究室を出たとみえる。
……しまった。彼女から手がかりを得るんじゃなかったのか。
己の失態を悔いていると、
「学食行きませんか?」
「あー……学食か」
時計を見ると、まだ閉店時間まで余裕がある。今から行って夕食を済ませるのも悪くないだろう。
安永さんに了承の返事をすると、彼女は尻尾をぴょんと上げて「行きましょう!」と言った。
猫集団に囲まれて。今日も僕は学食へ行く。
なんて意味不明なキャッチコピーが思い浮かんでくるあたり、いよいよ末期症状が表れているようだ。
僕は今、総勢五名の猫たちと行動を共にしている。猫の生態は詳しく知らないが、こう、横一列に広がって歩くのは珍しいんじゃないだろうか。
「中身は人間ってことか……」
「ん? どうした、新和?」
知らず知らずのうちに口に出していたらしい。僕の独り言を聞きつけた寺川が、いち早くツッコミを入れる。
「いや、なんでも。それより今日は何を食う?」
「あー……昼にカツ食ったからなあ。夜はあっさりしたもんにするか。……お、鯖味噌なんかいいな」
こいつも鯖味噌か!……いや、いいんだけど。
「新じゃがコロッケ、残ってますかね?」
「あるんじゃない? 昨日はあったから」
「あれ、美味しいっすよね。自分もこの前、食ったんすけどー―」
僕の発言をきっかけとして、次々と広がっていく食事トーク。
呑気なものである。自分たちが猫になっているとも知らないで。
メニューの話題で盛り上がっている連中を尻目に、僕はそっと溜息を吐いた。難問に一人で立ち向かわなければいけない人間の気持ちが、少しだけ分かった気がした。
食堂へと続く階段を上がろうとした時、僕は視界の隅で黒い何かが動くのを察知した。それは普段ならば気にとめるかどうか分からない程度のものだったが、今だけは違った。
もはや直感に近い。僕はそいつを知っている、と。自然とそう感じたのだ。
「ごめん、先行ってて!」
言いながら、僕は奴の姿を追う。背後からは何やら安永さんの声が聞こえるが、フォローは後回しだ。
植え込みを掻き分けて、僕は真っ直ぐにそいつを追尾した。薄暗くなったキャンパスに溶け込むようにして走り去るそれを追って行くうちに、なにやら奇妙な感覚になってくる。まるで、別次元に迷い込んでいるような……。
と、そこまで考えて僕は「いや」と首を横に振った。非現実的すぎる。そんな季節外れのホラーはいらない。
「ここは……」
走らされた先――一瞬見覚えがないと思ってい場所は、しかし冷静に見回してみると、知った場所の裏手だということがわかった。
「農学部か……」
一年に一回くらいは通ることもある、そんな場所。人通りが少ないので、静かに過ごしたいときには打ってつけなのだとか。文学部の中でも、気分転換にここに来ている連中はいるらしい。
僕は、奴が向かったと思われる方向へ足を進める。確か、この辺りにいるはずなんだけどな。
視線を下げて捜索をする。せっかくここまで来たのだから、見逃すわけにはいかない。千載一遇のチャンスを逃してなるものか。
必死になって調べていくうちに、僕は「並木通り」と呼ばれる場所に足を踏み入れていた。ここは脇にベンチが設置してあって、学生らの憩いの場となっている。ちなみに、並木通りに来る連中はたいてい男女二人組だということを付け加えておく。
お邪魔してすいませんね、とそそくさと脇を通り過ぎようとしていた僕は、意外な人物が座っているのを見て声を上げた。
「宇佐美さん!?」
「え!?」
まるで未知の体験をしたかのような驚愕の表情に、こっちの方が驚いてしまう。それほど、宇佐美さんの顔は驚きに満ちていた。
なぜ、そんな表情をしたのか。僕がここに来たことが、そんなに驚くべきことなのか。そもそも、なんで一人でベンチに座っているのか――訊いてみたいことは色々ある。
しかし、彼女の膝に乗っているものを目にした瞬間、そんなことは後回しだと思った。
「見つけた……」
大事な手掛かり――いや、全ての元凶といえるかもしれない、それを。