6.異常が異常を呼ぶ三日目②
もう勘弁してくれ。
僕は今度こそ、本気で頭を抱えた。なんなんだこれは。本気でどうかなりそうだ。
「だ、大丈夫? 新和くん」
僕が文学部棟の壁に頭を(故意に)ぶつけたのを見て、安永さん――ではなく、彼女の言葉を信じるならば宇佐美さん――が慌てたように声を掛ける。
大丈夫じゃないに決まってる。それでも、僕はなんとか声を絞り出し、
「あぁ……ごめん。ちょっと、眩暈が……」
眩暈程度で壁に頭を打ちつけるのかお前は、というツッコミはなしで。僕は「いかにも体調不良です」というように、猫背で頭を抱えながら、苦笑してみせた。
「ほんとに大丈夫? 凄く調子悪そうだよ?」
宇佐美さんは、俯いた僕の顔を覗き込むようにして心配してくれる。ちょっ、近いって!
「大丈夫、大丈夫だから」
僕は後退し、宇佐美さんと距離を取る。これ以上心臓に負担をかけたくない。
「やっぱり疲れてるんじゃない?」
「そうかも」
「ははは」と笑う声の、なんと白々しいことか。――自分のことだけど。
宇佐美さんはちょっと眉を曇らせ、何やら考えるような仕草をした。こう、美人が困ってる様子って可愛いよな――などと思えるようになったのだから、だいぶ回復したようだ。僕は冷静に自分のコンディションを分析した。
「ちゃんと休まないと駄目だよ。私の名前を間違えるくらい、疲れてるんだから」
最後の方は冗談めかして。嫌味にならないように、わざとむっとした表情を作って言ってくれる宇佐美さんの姿にじーんとする。いい子だな、ほんと。
「ごめんごめん。ちょっとボケてたみたいだ。宇佐美さん、だよね?」
それでも慎重に名を呼んでしまうのは、やはり目の前の人物と一致していないせいだ。
しかし安永さんの姿をした女性は、さも当然のように「そうだよ」と言うと、ふふと笑った。どうやら本気らしい。
一連の猫騒動さえなければ、からかわれているとしか思わなかっただろう。宇佐美さんと安永さんが結託(というと言葉は悪いが)して、僕を騙してるんじゃないか、と。けど、一昨日から続く摩訶不思議現象によって、僕は「これ」を受け入れてしまっている。現実に起こっている不可解な現象として。
原因はわからない。最初、宇佐美さんだけが猫に見えなかった理由も。宇佐美さんが安永さんに替わってしまった理由も。もしかしたら、他の連中にも「入れ替わり現象」が起こっているのだろうか。だとしたら、誰が誰に?
それを確かめることは、ひどく骨の折れる作業のように思えた。そして、これから誰が誰だか分からないまま、人と会わなければいけない事態に憂鬱な気分になる。どうやって確かめていけばいいんだ? 名前を呼ばなければいいのか?
――まあ、それが最も安全な方法だろう。僕はのろのろとした足取りで、文学部のドアを潜った。
「嘘だろう……」
エレベーター前に集う集団を見て、僕は再び眩暈を起こしそうになった。
猫化現象、継続中。
「猫が……猫が……」
ああ、誰かが今の僕を見たら、きっと病院に連れて行こうとするんだろうな――うわ言のように「猫」を繰り返す自分を自覚しながら、僕は彼らに近寄っていく。相当に危ない人だ。
が、僕の様子に気付いていないのか、はたまた「そういう人」だと認識されているのか、彼らは特に気にした風はなかった。前者なら問題ないが、後者ならかなり不本意である。おまえら、一回この苦悩を味わってみろ。
「あ、すいません」
彼らに続いてエレベーターに乗り込む。近くで猫の顔を見るも、どうやら知り合いはいないようだった。
エレベーターは一旦三階で止まる。考古や文化財、美術系の階だ。開いたドアの隙間から、「どうだ見てみろ」とばかりにエントランスに並べられた出土遺物コレクションが目に入る。どうでもいいけど、猫の手でアレを扱うのは危険なのではなかろうか。
続いて四階でも止まり、どやどやと四匹の猫が降りていく。
「ふぅ」
自分以外に誰もいなくなった個室の中で、僕は後ろに背をつけた。そのまま、ずるずると座り込む。
自分以外――いや、自分と宇佐美さん以外の猫化現象。
加えて、宇佐美さんの安永さん化現象。
原因は一体何だ?
整理してみよう。
最初に異変に気付いたのは一昨日。朝一番に大学に来た時には、特に異常はなかったと思う。というか、誰とも出会わなかったのだから、異変に気付きようもなかっただけか。とにかく朝――そう、研究室で眠ってしまった後から、おかしなことになったんだ。
その後、宇佐美千帆と出会った。なぜか彼女だけは人間の姿をして。けど、じゃあ彼女が「こちら」側の人間だったのかというと、そうでもなく。周囲の人間が猫に見えるなんていう奇病に悩まされているのは、相変わらず僕だけだったことが分かった。
そして今日。安永さんの姿になった宇佐美千帆と遭遇した。「入れ替り現象」か!? と思うも、他の人には変化なし。猫化現象は今もなお、継続している……。
うーん。駄目だな。まったくもって理解不能。やっぱり病院に行った方が良いのだろうか。
そろそろ本気で受診を考え始めた僕は、整理してみてあることに気付いた。
「宇佐美さんだけ、特別なんだよなぁ」
そう。彼女だけがイレギュラーなのだ。
他の人間と別の動きをしている。猫に見えなかったり、全く別の人間に見えたり。それは本人の意思なのか、ただの偶然なのか――まだ分からないが、調べてみる価値はあるだろう。
そうと決まれば、明日にでも改めて宇佐美さんと接触してみよう。
と、そこまで考えて、僕は一抹の不安を覚えた。
宇佐美さん、ちゃんと安永さんの姿をしてくれてるよな……?