4.異常が正常になる二日目②
朝になった。今日もわずかな期待を込めて大学に行ったものの、そこに広がっていたのは昨日と変わらぬ光景だった。
「あ、新和くん。おはよう」
「お、おはよう」
そして僕もまた、昨日から何の成長もみせていない。いい加減、何とかならないだろうか。
「大丈夫?」
「ん、ああ。大丈夫、だよ」
平常心、平常心と心の中で唱えながら、宇佐美さんの心配そうな顔を受け止める。彼女は首を傾けるようにして僕を見上げ、
「ちょっと疲れてる?」
少しだけ覗き込むような動作で、顔を近付けてきた。
「あ、いや……」
それは不味いって!
僕は後ろに仰け反るという最悪な反応をしながら、どうにかして言葉を紡ぐ。すると彼女ははっとして、急にその身を引いた。
ああ、もう本当に申し訳ない。別に彼女のことが嫌いだとかそういうのではなく、身体が勝手に後ろに下がっただけなんだけど、そう言っても信じて貰えないだろう。彼女は傷ついただろうか。
「そっか。……ごめんね、なんか変なこと訊いちゃって」
「いやいや、全然!」
せめてものフォローにと、僕は両手を振ってアピール。とても最高学府に所属する人間とは思えない小学生並みの行動だが、上手くいったらしい。彼女はくすりと笑った。
「最近、あんまり家に帰ってないって聞いたから……」
「あー……」
誰だそんなこと言った奴は――と思ったが、心当たりがあり過ぎる上に、身に覚えもあり過ぎるくらいある。事実なだけに、全く否定のしようがない。
「今度報告あるんだっけ? それが終わったら、ゆっくりしたら?」
それは、同期なりの心遣いだろう。先輩からは「やるなぁ、新和」と言われたり、後輩からは「凄いですね」と言われたりしたことはあったが、こんな風に心配されることはあまりない。寺川が言ってくれるぐらいか。
「そうするよ。確かに最近泊まりが多かったから、寝不足かもしれない」
とすると、この異常現象の要因が僕の心理状態によるものである可能性が一気に高まるのだが……まあ、それはおいおい考えよう。今はとにかく、宇佐美さんを安心させるのが先だ。
「ほんと、気を付けてね。……あ、もうこんな時間」
宇佐美さんは左手首に視線を落とすと、椅子に置いた鞄を手に取った。
研究室の時計を見ると、授業開始の十分前だった。
「この後、小重先生の授業なんだ。あれ、結構キツいよね」
「ああ、レポート? しょっちゅう出されるんだっけ。僕は受けたことないんだけど……。そういえば、試験も難しいって聞いたな」
「ええっ、そうなの!?」
法学部の小重先生は、公民科の教免に必修の「法学概論」を教えている。僕は教免を取る気がなかったので彼の授業も取ったことはないが、寺川曰く「鬼だよ、あれ」な授業らしい。教免に必修なのだから、もっと適当にやればいいだろうに。ご苦労なことである。
「まあ、頑張って」
ちょっと他人事みたいだったかな、と思うも、宇佐美さんは笑顔で「ありがとう」と言った。
「…………あ」
宇佐美さんが研究室を出ようとした時、僕は大切なことを訊いていないことを思い出した。というか、これを訊こうと思って彼女を待っていたのに。何やってるんだろう、僕は。
自分の失態に若干イラつきながら、僕は授業に行こうとしている宇佐美さんを呼び止める。
「ところで、何か変わったことはなかった?」
「変わったこと?」
僕の曖昧過ぎる問いかけに、彼女も怪訝な顔だ。
「研究室の、雰囲気とか見て……」
それでもまだ要領を得ない問いに、宇佐美さんは首を傾けながら言った。
「特には……」
「そっか」
彼女の態度を見る限り、不自然な点はない。他の連中の「猫化」現象を目の当たりにして一切動揺しないなんてことはないだろうから、本気で何の疑問も感じていないことが分かる。
つまり、彼女は「こちら」の人間ではないのだ。
僕は振り出しに戻った思いで、宇佐美さんを見送った。
夕方にもなると、僕の心はいくらかの落ち着きを取り戻し始めていた。
例えば、
「新和さーん」
尻尾をゆらゆら揺らしながら二足歩行でやってくる安永さんを見ても、もはや何の衝撃もない。
「どうしたの?」
「これからみんなで焼き肉食べに行こうって話してるんですけど、新和さんもいかがですか?」
「焼肉……!?」
猫が焼肉!?
取り戻しつつあった落ち着きは、残念ながら脆く崩れ去った。焼肉か。猫が、焼肉……。
「え、そこ驚くところですか?」
「あ、いや……」
安永さんからしたら、普通に食事をしようというだけの話だ。そこに僕が突っ込んだのだから、「なぜ?」となるのも当然か。
焼肉ということは、大学から最も近い「肉のサトウ」だろうな。あそこは、ウチの大学御用達の店で、特に体育会系からは絶大な支持を集めている。「安い・美味い・安全」をキャッチフレーズにし、精肉店だから出来る価格で、肉に飢えた貧乏学生に栄養を提供しているのである。
「どうします?」
「僕は遠慮しとくよ。その……報告近いし、時間ないから」
報告が近いのは本当だが、レジュメは九割方出来ている。だから時間的には余裕があるのだが、僕は断る理由としてそれを持ち出した。
「あ、そっか。そうですよね」
幸い、安永さんはあっさりと信用してくれたみたいだ。まあ、疑う理由もないんだけど。
気が付くと、エレベーターの前には研究室のメンバーが揃っていた。焼肉を食べに行くグループだろう。勿論、全員猫だ。見慣れたとまでは言えないものの、「ああ、やっぱり猫だな」程度にしか思わなくなったのは、脳が麻痺してしまったからに他ならない。悲しいかな、これが人間の順応力というやつか。
僕は続々とエレベーターに乗り込んでいく猫集団を見ながら、ぼんやりと考えた。
これが僕の日常になってしまうのだろうか、と。