3.異常が正常になる二日目①
友人のアドバイスに従い、僕は早々に帰宅することにした。こんなに明るいうちに大学を出るなんて、いつ以来だろう?
普段とは違う光景を見ながら、駐輪場へ向かう。
駐輪場は、なぜか文学部棟から離れたところにあった。これまた、うちの大学――というか文学部の不便な点の一つだ。建物から離れたところに設置するなんて、一体誰が考えたのだろうか。相当頭の悪い人間に違いない。
明らかな設計ミスにイライラしていると、前方から見知った顔が来るのが見えた。彼女も気付いたのか、「あっ」と口を小さく開け、続けて会釈する。僕も慌てて頭を下げた。
「こんにちは」
女性らしい柔らかな声が、心地よく耳に響く。
「こ、こんにちは」
って、何どもってるんだよ僕は! 小学生か!
「もう帰り?」
「ああ、うん。ゼミ、終わったから」
「そっか。私はこれからなんだ」
彼女はそう言って微笑むが、僕は何と返して良いのか分からず、ただ頷いた。こんな時、例えば寺川あたりなら上手い返しができるんだろうなと、無意味なことが頭に浮かぶ。
彼女の名前は宇佐美千帆。今年、外部からウチのマスターに入学してきた院生である。
ウチの研究室において、外部入学は珍しくない。文学部自体そこそこ有名な研究室が揃ってるらしく、全国から受験者が来るし、そのうちの何人かは実際に入学してくる。内部と外部の比率でいえば、八対二といったところだろうか。
そういえば、今年も研究室訪問は活発だったようだ。去年もかなりの人数が来て、僕も卒論執筆の時間を返上して案内したことは、記憶に新しい。あれからもう一年も経ったのかと思うと……いやはや、時の流れとは恐ろしいものだ。
僕が年寄くさいことを思っていると、
「それじゃあ……」
彼女は髪を耳にかける仕草をして、再び軽く会釈をした。丁寧な人である。
僕はぼんやりと、その様子を眺めた。
入学した当初は遠慮がちだった彼女も、今では随分と打ち解けてきているように思う。最初は誰に対しても敬語で喋っていたのだが、五月頃からだろうか、今のように普通に話してくれるようになった。それまでの、ちょっと近付き難いイメージが払拭されて、今ではすっかり研究室の中心メンバーになりつつある。
ちなみに、「ちょっと近付き難い」というのはアレだ。敬遠しているとか、話しかけにくいとか、そういうマイナスなイメージではなく……緊張する、というか。話しかけるのに勇気がいる、というか。うん、まあ……ウチの男連中の態度を見てれば一目瞭然なんだろうけど――つまりは、そういうことだ。
「また、明日」
「あ……」
顔を上げた彼女の目が和らぐのを見た途端、僕は言い様のない感覚に襲われた。
なんだ、これ。まるで、足元から崩れ落ちていくような――。
よろめかなかったことが奇跡的と思えるくらい、僕の足元はおぼつかなかった。足元だけじゃない。頭の方も相当だ。それまでの出来事が一気に頭から消失し、今自分が何を喋っているのかさえも曖昧になる。言語機能は低下し、脳内ディクショナリーは全く役に立たない。
なんなんだ、これは。一体、自分の身に何が起こってるんだ?
背中から首筋にかけて伝わる、ぴりりとした感覚に戸惑っているうちに、宇佐美さんは背を向けてしまった。そのまま、文学部棟へ向かって歩いていく。
「…………あ」
ようやく金縛り状態から解放された時には、宇佐美さんは彼方へ。
結局、彼女に何を言ったのか把握できないままだった。礼儀知らずな奴だと思われるのは嫌なので、せめてまともな挨拶くらいは出来ていたと信じたいが……。
考えても仕方がない。僕は軽く頭を振る。
きっと、変な奴だと思われただろう。自分でもそう思う。今の――いや、今日の僕は確かに変だ。なんてったって、周りの人間が猫に見えるぐらいなのだから――。
「――って!!」
そこで、僕はある重大な事実に気が付いた。
駐輪場に向いていた足を止め、振り返る。文学部棟へと向かう宇佐美千帆を見付けて、その後ろ姿をまじまじと見た。
薄い紫のカーディガンに、白いスカート。右肩には黒い鞄をかけていて、左手がわずかに太腿のあたりで揺れている。規則正しい足音とともに姿勢よく歩く後ろ姿は、それだけで十分魅力的に映った。
なんていうか……うん、まあ……やっぱり、美人だ。
「って、そうじゃないだろ!」
そうこうしているうちに、足音はどんどん遠ざかっていく。僕は自分に突っ込みながら、宇佐美千帆を追いかけた。
「なんで……!」
思わず、独り言が出てしまう。なぜ、直ぐに気付かなかったのか。最初に会った時に、既に可笑しい状況だったはずではないのか。
僕の足音に気付かないのか、はたまた気付いても気にしていないのか、彼女は振り返ろうとはしない。まさか自分が追いかけられているとは思っていないのだろう。
この距離なら、名前を呼べば気付いてもらえるはずだ。僕は、腹に力を入れた。
「うっ、宇佐美さん!」
なんか気分の悪い人みたいな声が出たが、とりあえず気にするまい。僕の気味の悪い呼びかけに、宇佐美さんはびくりと肩を震わせる。……驚かせてしまって申し訳ない、宇佐美さん。
「ごめっ、ちょっといい?」
走って追いつくと、彼女は目を丸くして僕を見た。その澄んだ目に、僕の中で再びあの感覚が走りそうになる。
「あ、あのさ」
冷たいのか熱いのかよく分からない、奇妙な感覚を抑えながら、僕は彼女に話しかけた。体調の悪さを理由にこの好機を逃すのは、あまりにも愚かというものだ。しかし、「それ」を口にしようとしたところで、僕ははっと我に返った。
さすがに、ストレートに訊くのは不味いんじゃないだろうか。
例えば、
「何で宇佐美さんは猫になってないの?」
とか。
「みんなが猫に見えたりしない?」
とか。
僕は頭を抱えた。
…………無理だ。そんな度胸はない。
「なに?」
「あのさ」で止まってしまった僕を不審に思ったのだろう。宇佐美さんが、用件を訊いてくる。
ちょっと待ってほしい。今、頭の中を整理するから。
「あの、ごめんね。その……もうすぐ、授業だから」
言いにくそうな口調で、宇佐美さん。
あああごめんなさい! ほんと、ごめんなさい!
僕は脳内で土下座する。これでは、とんだ迷惑男だ。
「あーその……もし、研究室で変わったことがあったら、僕に言って」
「え?」
「いや、もしもの話。その、なんていうか、相談にのれると思う……からさ」
苦しい――あまりにも苦しい表現だ。わざわざ走って追いかけてきて、呼び止めえてまで言う内容か、と思う。……自分のことだけど。
ここまで適切な言葉が出てこないとは、と僕は陰鬱な気分になった。論文を書いている時は、いくらでも――それこそ湧水のように難解な語句が引き出されたというのに。本当に小学生みたいだ。
「……ふぅ」
本日何度目かの溜息を吐き、僕は今度こそ宇佐美さんを見送った。
訳が分からない。なぜ、彼女だけが猫になっていないのか。そこに何か意味があるのだろうが、皆目見当もつかない。
とりあえずは、彼女は僕と同じ立場なのか否か――それを見極めるのが先決だろう。彼女もまた、「同じ」だったら良いのだが。
「果たして、そう都合良くいくかな」
僕は独りごち、今朝から続いていた一連の騒動を思い出した。何の根拠もないのだが、こいつは大物かもしれない。そんな悪い予感さえする。
やれやれ。困ったものだ。僕はこんな馬鹿馬鹿しいことに時間を使えるほど、暇じゃないのに。