2.異変に気付いた一日目②
……すごいな。
もはや、そんな陳腐な言葉しか出てこない。
机の周りにずらりと並んだ総勢九名――じゃなかった、九匹の猫を見た僕の感想は、それだった。
「全員揃ったな。じゃ、始めるぞー」
指導教員の猫元先生が、尻尾を揺らしながら言う。先生、名前の通り、本当に猫になってしまわれたんですね――とは、さすがに言えなかった。
猫元先生は、前足で眼鏡を押し上げながら、
「じゃあここの訳、新和―」
――って、僕じゃないか。待ってください。こっちはそれどころじゃないんです。
「どうしたー。予習、やってきてないのか」
「いえ、」
「じゃあ早く訳せー」
「は、はい」
指定されたページの日本語訳をしていく。まあ僕にかかれば、最初から日本語だったようなものだ。完璧な訳を披露すると、周りからは何とも言えない溜息が漏れた。
「さっすが新和さん」
隣に座っていた三毛猫の安永さんが、小声で僕にそう囁く。
「まあ、いつも通りだよ」
変に謙遜するのは好きじゃない。僕は余裕の表情で頷いてみせた。
「ここのとこ、教えてもらえません?」
「予習、やってきてないの?」
「やってきたんですけど、わからなくて……」
「仕方ないな」
やれやれ、と僕はノートを横にずらした。勿論、先生には見つからないように。
安永さんは、前足を擦り合わせて拝むポーズをしてから、ノートを覗き見た。前足で体重を支えながら、頸を長くして。…………猫って、大変なんだな。
さて。九匹の猫を観察して、分かったことを述べてみよう。
まず一つ目。彼らは二足歩行である。
…………突っ込んじゃ駄目だ。ここにリアルを求めてはいけない。あくまでも「そういうもの」として捉えてほしい。
ちなみに体長は元のまま、つまり人間だった頃と変わっていない。けど、だからって「猫人間」――体の構造は人間で、顔だけが猫なアレなのかといえば、それも違う。彼らは正真正銘、れっきとした猫だ。人間サイズにまでデカくなった猫と言えば、わかってもらえるだろうか。
二つ目。彼らは、自分が猫になっていることを認識していない。
現在のところ、この可笑しな状況に気付いている人間は、どうやら僕だけのようだ。勿論、全員に「きみたち、猫になってるけど、自覚してる?」などと聞いて回ったわけではない。けどまあ、自覚してたら今頃大パニックになってるだろうから、そうじゃないのだろう。
三つ目。猫になっているのは、うちの研究室だけではないらしい。
授業教室に移動する間にわかったことだが、先生も、学生も、職員も――少なくとも文学部の住人は、みんな普通に猫だった。それはもう、猫になってない自分の方がむしろイレギュラーなのでは? というくらいの普通っぷりだった。あれの仲間になりたいとは思わないものの、軽い疎外感を覚えたのは事実である。
他にも、「ニャー」とは鳴かないとか、ノミはいないとか、毛繕いはしないだとか……まあ色々わかったことはあるが、一貫して言えることは、彼らは外見が猫であることを除いては、非常に人間的な動きをしているということだ。それは、まるで精巧な猫の着ぐるみを着ているかのようでもあり、一時期流行ったリアルドラ○もんのようでもある。
ちなみに、彼らを見た感想はというと……安永さんを含め女性陣には申し訳ないが、正直可愛いとは思えない。だって、そうだろ? リアルドラ○もんを見て、お近付きになりたいと思うか?
そんなわけで。
「新和さん」
「うおっ!」
こうして急に話しかけられると、毎度の如く驚いてしまうのである。
まったく、心臓に悪い。
一通り観察を終えると、僕はある試みを実行してみることにした。この異常現象が何を要因として起こったものなのか、それを突き止めるために。
と言っても、大げさなことをするつもりはない。やることは極めてシンプルだ。
「…………うーん」
八階分の高さを見せつけられ、僕は軽く眩暈を覚えた。高所恐怖症というわけではないが、これから行おうしていることを考えれば、足も竦むというものだ。
「いやいや、僕の仮説が正しければ……」
これで、全てが解決する。
そう。
僕が考えた最も可能性の高い要因――それは、
夢オチ
である。
……別に、発想が貧困なわけじゃないぞ。頭が硬いわけでもない。現実的に考えて、そう捉えるのが普通だろう、というだけの話だ。
僕はいまだ、目の前の現象を「現実」だと認識していない。これは夢だ。現実にある話じゃない。だとしたら、その夢から覚めさせてやるのが一番の解決法じゃないか。
それでまあ、頬をつねったり、頭を叩いたりしてみたのだが、これが悲しくなるほど効果がない。気付けば自宅の布団の上、とはならないのである。
だからこそ、こうして最終手段――最上階からの飛び降り――を試みることにしたわけで。ほら、よくあるじゃないか。落下した瞬間、目が覚めるってやつ。あれに期待するしかない。
「…………よし」
風の吹きつけるバルコニーの手すりを握り、もう一度階下を見下ろす。
……高いな。人が豆粒のように見える。ここから落下したら、生死は言うまでもないだろう。
今からやろうとしていることを再確認すると、手にはじわりと汗がにじみ出ていた。自分の仮説を疑っているのではないが、かといって確証があるわけでもなかった。
「もし――」
失敗したら?
僕はぶるりと身体を震わせる。
恐ろしい考えだ。またチャレンジすれば良い、とは言えない。失敗とは、すなわち死を意味するのだから。
手すりに預けかけていた体重が、徐々に身体に戻っていく。足を一歩、後ろに引こうとしたところで、
「早まるな!」
という声とともに、腕にふにゃりとした感触が伝わった。
「新和、おまえ何やってるんだよ!?」
(たぶん)緊迫した表情で僕の腕を掴んでいるのは、同期の寺川だった。
アメリカンショートヘア似の彼は、僕の腕に肉球を押し付けつつ、耳元で怒鳴った。おい、髭をくっつけるな。くすぐったいじゃないか。
どうでもいいが、こいつの毛はさらさらである。超高級キャットフードばっかり食ってんだろうなあと思わせるほどの、毛並みとプロポーション。人間だった時からスペックの高い奴だったが、猫になっても変わらずか。というか、イケメンは猫になってもイケメンだったよ。
「ちょっと下を見てただけだよ」
本当は飛び降りてみようかな、とか考えてたけどな――とは言わず、僕は適当な返事をした。
「そうか、ならいいんだ。いや、おまえが飛び降り自殺でもしようとしてるように見えたからさ」
そう言って、「ははは」と笑う寺川。冗談では済まない内容なのに、こいつがいうと世間話程度に聞こえてしまうのは何故だろう。しかも無駄に爽やかだ。
「まさか。そんな馬鹿なこと、僕がすると思うか?」
「だよな。けど、何か悩みがあるんだろ? 俺で良ければ聞くぜ」
「ああ……うん……」
さすがは十年来の友人。僕のことはお見通しらしい。
が、頼もしい友人の言葉にも、僕は曖昧な返事しか返せない。なんたって、内容が内容だ。いくら中学時代からの付き合いだからって、いきなり、
「みんなが猫に見えるようになった。僕はどうしたらいい?」
と言おうものなら、本気で心の病を疑われかねない。確実に、病院での受診を勧められる。
「――いや、なんでもないよ」
僕は首を振って答えるが、
「そうか? そうは見えないが」
心配している様子の表れか、寺川の尻尾が左右に揺れる。芸が細かいな、おまえ。
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけだから」
「ふぅん。ま、あまり無理はするなよ。たまには早く帰って休んだらどうだ?」
「ああ。そうするよ」
僕は寺川と一緒にバルコニーを出た。彼の所為で、仮説は証明されず仕舞いとなってしまったわけだが――。
「ふぅ」
八階分の高さを思い出し、溜息を吐く。案外、これで良かったのかもしれない。
もう一度寝たら、夢から覚めてくれるのだろうか。明日になったら元に戻ってくれているのか。
とりあえず、今日は寝よう。




